桐野安生のみそっぱレロレロ日記 -2ページ目

桐野安生のみそっぱレロレロ日記

芸人、桐野安生の日常を、徒然なるままに描いた名作ドキュメント!

平賀淳という男は、熱い男だった。

そして、とことん優しい男だった。


その優しさは、自身が強くなければ突き通す事の出来ない優しさで、あいつがいつその様な力を手に入れたのか?僕は不思議でならない。


亡くなったから美化している訳では無い。


彼を知る人なら頷けると思うが、彼は、他人の為に血を流せる強さと、困難を弾き飛ばすユーモアを常に持っていた。


その姿は、出会ってから、亡くなるまで一つも変わらなかった。

彼はとても綺麗な魂のまま亡くなった様に思える。

こんな事を言うと「馬鹿やろう!お前に何が解るんだよ!」と奴につっこまれそうだが、今となっては本当にそう思える。


とにかくそんな男だから、平賀は、色んな人に愛された。


あれは、いつだったかな?

記憶が曖昧だが、僕らは在学中、夏休みを利用して京都へ旅行へ行った事がある。

お互いお金が無いので、小田原辺りから鈍行で何時間もかけての旅だった。


当時、僕らは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に熱中していて、自身を龍馬に照らし合わせていた。

「俺が龍馬で、君が中岡慎太郎ね。」

僕はそんな事を言って、龍馬の気分でその舞台となった京都の街を歩いた。




実際のところ、気質は、平賀の方が圧倒的に坂本龍馬だった。


京都の一泊目は安宿に泊まり、二泊目は、平賀が以前、京都へ来た際に(なんらかの遠征)知り合ったというパイプ会社の社長さんのマンションに泊めてもらった。

その社長さん(当時50代後半ぐらいの方)の話では、銭湯の電気風呂に入ってる平賀を見て、面白そうな奴だと思い、話しかけたら、面白かったので、そこからの付き合いになるとおっしゃっていた。

平賀は、そういう人たらしなところがあった。


僕らは、豪勢な食事をご馳走になり、マンションでもお酒を頂戴した。

社長さんは、二十歳そこそこの若造相手に楽しそうだった。


社長「僕はね、社長業をやっているから、人を見る目はあるつもりだけど、この平賀淳と言う男は、凄い男になると確信してる!だからこの先、彼がどうなっていくのか楽しみで仕方ない!」

お酒も入っていたせいか、社長は何度も繰り返し平賀を褒めちぎった。


坂本龍馬の気分でいた僕は、この社長さんからは相手にもされず、疎外感と劣等感で、早目にふて寝した事を覚えている。


とにかく平賀は、瞬時に人を魅了してしまう男だった。


そして自尊心や承認欲求が溢れ出た20歳の自分には、平賀は眩しい存在だったのかもしれない。


以前は噛み合っていた歯車が、成長の過程で噛み合わなくなる事は、よくある事だ。


平賀は、世界に飛び出してどんどん大きくなっていった。


僕が映画学校を卒業し、アルバイトに汗を流していた頃(当時、自主制作用のビデオカメラを買う為に、建築現場や解体現場で働いていた。)平賀から電話があった。


平賀「かずお!今すぐ沖縄へ来い!どうせ何もしてないんだろ?宿と飯の心配はしなくて良いから来い!」

詳しくは聞かなかったが、彼はこの時、沖縄に滞在して仕事をしていた様だ。


僕はその場は断ったものの、数日して、行ってみようか?という気分になり、折り返し電話してみた。


平賀「ごめん、予定が変更になって沖縄を発つ事になったからあの話、無しになった。」


来いと言うから真剣に考えたのに。

若い僕は、この時、彼と口論となった。


平賀「沖縄に来たいと思ったんだろ?だったら自分の力で来れば良いじゃないか!」

珍しく平賀が感情的に反論して来た。


彼は、議論はするが、喧嘩になる様な口論はしない男だった。

そしてこの後彼は、一方的に電話を切った。


平賀とは何度か喧嘩をした事はあったが、自ら会話を辞める事はしなかった。

納得いくまで話し合うのが、彼のスタンスだった。

その彼が電話を切ったのだ。


僕らはもうもう噛み合わなくなってしまったのだろう。

成長の遅い自分に嫌気がさしたのだろう。


無理もない、当時の彼は、世界を旅して、多くのものを吸収し、一回りも二回りも大きくなっていた。


いつまでもゆっくり回る、小さな歯車では噛み合わなくなるのも当然だ。


当時の自分は、そんなふうに考えて、ひねくれていた様に思う。


結局のところ僕は、平賀に甘えていた訳だ。


平賀が言う通り、行きたければ、一人で行動すれば良かったのだ。

その行動力の無い自分の不甲斐なさを棚に上げ、僕は平賀を責めた訳だ。


そして、この件で、僕は、人との距離について学んだ。


当時の自分は、友との絆を確かめる為、壊れるまで叩く様な所があった。


でも友情というものは、確かめるものでは無く、信じて育むものなのだ。


相手に期待せず、結局独りなのだという意識も大切だ。

それは一見、寂しく聞こえるが、むしろ、自身がどれだけ人を信じられるのか?

その決して派手では無い、静かな戦いこそが、唯一の愛ある道なのかもしれない。


とにかくあれだけ人に寛容で優しい平賀を怒らせたのだから、当時の僕は困った男でした。


もっとも後日、平賀はあっけらかんと連絡して来る訳ですが。


でもこの一件で、僕は、平賀との付き合い方を変えた。

自身の成長の為にも、僕は平賀との距離を考えなけれならないと思ったのだ。

       

      (次に続きます。)

2022518

山岳カメラマンの平賀淳が亡くなった。

アラスカの地で撮影中の事故でした。

突然、足元が崩れクレバスに落ちた彼は、30メートルも落下したそうです。


捜索は難航したそうですが、発見された彼は、歩行中の姿のまま安らかな顔をしていたそうです。

どうやら彼は一瞬のうちに天国へと旅立ったようです。

享年43歳でした。


彼とは、日本映画学校で出会いました。

互いに映画製作を夢見る18歳でした。


出会った瞬間から、強烈な個性を放つ彼に僕は目を奪われました。

毛穴という毛穴、その全身からエネルギーが噴き出ている、そんな印象でした。


それと同時に僕は、彼の事を警戒した事を覚えている。

それは、小動物が、初めて見る生き物を警戒する感じに似ているかも知れない。


結果として僕は、今日まで彼の様なタイプの人間に出会う事はなかった。


だから当時の自分が本能で彼を警戒した事は、とても理にかなった行動だった様に思える。


映画は、物語を通して人間を描くものです。


入学したての夢見る僕らは、必要以上に頭でっかちになって人間を語り合った。

だから、チームを組んで映画を作るとなると、議論は、より白熱した。


中でも平賀とは激論を交わした。


今にして思えば、あれば議論ではなくマウントの取り合いの様なものだった。(この関係は最後まで続く。)

僕は、平賀より真理に近づいて、打ち負かしてやりたいと躍起になっていたし、あいつもそんなところがあった。


でもお互いにその時間が楽しかったんだね。


いつしか、僕らは行動を共にする様になった。

学校とは別に自主制作チームを作り、平賀とは何本もショートムービーを作った。


僕は新しいアイデアが生まれると、真っ先に平賀に話したし、あいつも毎晩の様に電話をかけて来てはアイディアをふくらました。


僕は本当にその日々が楽しかった。

でも終わりはやってくる。


2年生へ上がる直前、平賀が、学校を1年間休学して、山に挑戦したいと言い出したのだ。(記憶が正しければ、彼はこの時、海外を舞台にしたトライアスロンの日本代表選手に選ばれていた。)


彼は、やはり異質で、他の学生と異なり、映画と同時に山を愛していた。

そして、彼の夢の一つがエベレストの登頂だった。

(彼は、後にその夢を実現させる。)


とにかく当時の彼は、1年休学してでも、そのアドベンチャーレースにチャレンジする必要があった。


僕は、その選択を認めつつ、平賀との映画制作が終わる事が寂しかった。


平賀が学校側に、休学の申請をする際も、僕は一緒に付き添った。

その帰り道、恥ずかしい話だが、僕は大いに泣いた。

今にして思えば、1年の休学など些細な事でしかないのだが、当時の若く狭い世界にいた自分には、ようやく得た理解者を失う気持ちだったのだ。


平賀が東京を発つ少し前、僕らは一眼レフを片手に江ノ島へ向かった。


どちらが良い写真を撮れるか?

暗黙の勝負だった。


ファインダーを覗きながら被写体に迫る。

その被写体の魅力を自然に引き出すにはどうしたら良いのか?

風景をどう切り取れば、この雰囲気が伝わるのか?

頭でっかちな自分はあれこれ考えながら一枚一枚シャッターを切った。


当時はデジカメなど無い。

写真はフィルムだ。

どう仕上がるかは、現像するまで解らない。

文字通り僕らは、魂を込めてシャッターを切った。


520日、平賀の訃報を聞いてから、僕の中に奴との思い出が、どっと押し寄せて来た。

でも記憶の片隅に埋もれている事も多かった。


彼の葬儀に参列した後、喪服を戻しに実家へ帰った僕は、平賀の事を思っていた。


本棚が目に止まり、記憶が甦える。

平賀からは、よく本をもらった。

あいつからもらった本には、必ずサインとメッセージが添えられていた。

その事を思い出した僕は、片っ端から書籍をめくりサインを探した。


なかなか見当たらない。

以前実家を建て直した際に、だいぶ書籍も処分していた。

あの中に紛れていたのか?

苦労したが、ようやく一冊見つける事が出来た。

「ONE」の中へ飛び立て‼︎

どう言う意味だったのだろう?


当時の彼は、僕らが抱える共通のテーマを書籍に記してよこしていた様に思う。

「人様の本に落書きするなよ!」

僕は内心嬉しく思いつつも、毎回、そうやってつっこんでいた。


今となっては、全てのメッセージを愛おしく思う訳だが。


そういえば、部屋に飾っていた江ノ島の写真は、何処へしまっただろう?

実家を建て直す直前まで自室の壁には、平賀からもらった江ノ島の写真を飾っていた。


押入を探しながら、記憶を掘り起こす。

当時のアルバムが見つかった。

あの時、2人で行った江ノ島の写真だ。

何枚もの江ノ島の風景と一緒に僕は、平賀を撮っていた。




懐かしい。

彼は画になった。

彼の放つ生命エネルギーは、撮るだけで撮影者を表現者に変えた。

それを当時の僕は、自分の手柄とばかりに、何度もシャッターを切ったのだ。


この日の写真は、現像した後で互いに見せ合った。


当時の僕は、その出来映えに愕然とした。

僕は、綺麗に撮ることばかりに必死で、出来上がった写真はどれも面白味に欠けるものだった。

撮影時、一番手ごたえを感じた夕焼けを進む一艘の船もフレームの中へ収まってしまい、あの時感じた雄大さは無かった。


平賀の写真はどうだろう?

あいつも同じ風景を撮っていた筈だ

平賀の写真に目を落とし、またしても僕は愕然とした。


平賀は、地平線を斜めに切り取っていた。

空と海のバランスも、広がりを感じるもので、あの瞬間の空気感がしっかりと感じられた。

今にして思えば、地平線を斜めに切り取る事など、よくあるテクニックなのかもしれないが、当時の僕は、その発想を持ち得ない全くの素人であり、感性だけでそこにたどり着けるだけのセンスも無かった。


当然、平賀も僕と同じで技術は持ち合わせていなかったが、彼は、直感で地平線を斜めに切り取り、その瞬間を見事にフィルムの中へ封じ込めていた。


「これはいい写真だな。」

僕は敗北を認めつつ彼に言った。

「だろ!」

平賀は嬉しそうだった。


それから間もなくして平賀は、アドベンチャーレースのチームと合流する為、東京を発った。


後日、その遠征先から僕宛にA3サイズの封筒が届く。

中には、拡大されたあの江ノ島の写真が入っていた。

長い事、自室の土壁に画鋲で止めていた為、シミや日焼けで色味が変わってしまった。

裏面には、びっしりとメッセージが添えられている。

いかにも彼らしいプレゼントだった。


これを受け取った時、そして押し入れから引っ張り出した時、僕は二度も新鮮な気持ちで写真と、そして、込められたメッセージと向き合った。


改めて良い写真だと思う。

僕の宝物だ。


      (次に続きます。)

お久しぶりです!

桐野安生です。


2021年も残すところあとわずか。

恒例行事、今年の総括の時間となりました。

しかし、あっという間の一年でしたね。


一言で言えば、耐え凌いだ一年でしょうか?

いや、全く前進出来なかった一年と言い換えた方が良いかもしれません。


自分はギャンブルはしませんし、お酒も付き合い程度ですから真面目に働いてさえいれば生活に困る事は無いと考えておりましたが、コロナの影響は凄まじく、一時はバイトも大幅に削られ生活が困窮する事態となりました。


その為、ワクチン接種後は、とにかく朝から晩までバイトの日々となり、後半3ヶ月間は、芸人としては無風状態でした。(そのお陰でようやく生活は安定しましたが。)


しかし今にして思えば、その状況に甘んじて芸事から逃げていた節もあった気もします。

「お金が無いのだから、今は芸事より、明日の生活の為に働くのが現実だよな?」そう自分に言い聞かせていた気がします。


正直、芸人として何をやっても理解されない事への虚しさや、報われない日常の積み重ねに疲れ果てていたのかも知れません。


後にザコシショウさんとバイきんぐさんのツーマンライブのお手伝いをした際に、笑いに対するそのひたむきな姿勢に己の甘さを痛感する訳ですが…。

そうですね。

ずっと逃げ回ってましたね。

逃げ回る為の理由なら、嫌と言うほどその辺に転がってましたから、不可抗力だと自分に言い聞かせてました。


M-1でのランジャタイの勇姿を見た時、そして何より錦鯉さんの優勝の瞬間にはガツンとやられましたね。

僕ら後輩は、ずっと背中を見て来ましたからね。

このお二人こそ、報われない日々を何夜乗り越えて来られたか…。

コツコツと戦いながら居場所を作って来られたんですよね。


それに引き換え、理由を見つけては、逃げ回っていた自分が恥ずかしくなりました。

素直に反省です。


そして有ジェネの地上波が終了した事は、大きかったですね。(現在はparaviで配信中。スルメの回がめちゃくちゃ面白いので是非!)


ここ数年、頭の中には常に有ジェネがありましたので、地上波が終了した後、恥ずかしながら燃え尽き症候群の様な感覚になりましたね。(お前には早いと言われそうですが。😅)


とにかく様々な経験をさせて頂きましたので、恩返しの為にもこの番組出身の芸人と言われる様に頑張りたいです。


有ジェネは引き続きparaviで新作が配信されてますので、ご視聴頂けると嬉しいです。


あと母が病気で入院した事も大きな出来事でした。親孝行、これだけは早急にしなきゃですね。


それから芸人仲間の引退もありました。

中山亮が引退をして地元へ帰ってから、孤独に拍車がかかりましたね。


いや孤独といえば、ずっと孤独かもしれません。


子供の頃、孤独である事が恥ずかしく思える時期もありましたが、今にして思えば、誰もが孤独を抱えながら生きてるのではないでしょうか?


10人いれば10人違う人間なのですから、分かり合える部分なんて、ほんの数パーセントです。


分かり合えない事に淋しさを感じ、その穴を他人に埋めてもらおうとするから、おかしな事になるのです。

孤独やひとりぼっちは、前提としてとらえていれば、もっと楽しく素直に生きられるんじゃないかと思いますね。


あと最後に一言。

皆さんの幸せを願ってます。

歯の浮く様なセリフですけど、良い出会い、悪い出会い、色々とあったかも知れませんが、僕は感謝してます。

今年を振り返り、憎い人がいただろうか?と思い返しても一人も思い当たりませんでした。

逆に感謝したい人の顔はいっぱいで出来ます。

そう考えると、良い一年だったのかな?

ありがとうございます。


では、来年の総括までこのブログは、しばしのお別れです。

皆様、良いお年を!