『あちらにいる鬼』

井上荒野(あれの)


昨年、この小説を原作に映画化もされた。


全身小説家・井上光晴とその妻、そして瀬戸内晴美(のちの瀬戸内寂聴)がモデルになっていると思われるこの小説。


私は、映画を先に観てから、小説を読み、映画よりも小説の方が遥かに優れていると感じた。


井上荒野の小説を読んだのは初めてだが、その書き切る力に驚いてしまった。


私よりもかなり歳上のご夫妻は、この小説を読んで、赤裸々過ぎる描写でドロドロなだけの世界に感じてしまい、嫌悪感を持ったようだった。


瀬戸内寂聴の推薦文も「作者の父井上光晴と私の不倫が始まった時、作者は5歳だった」といった内容で、センセーショナルな印象を抱かせてしまったかも知れないーーーそれが、読者を獲得させる為のものだったとしても。


とにかく、小説の題材は、著者の父親である小説家とその妻(著者の母親)と瀬戸内晴美の三角関係。


瀬戸内晴美と井上光晴の妻の二人がそれぞれの視点から語る。


それを、井上光晴の実の娘が小説にするのだから、凄まじい、と勿論、読む前から思っていた。


父親の恋人の瀬戸内晴美については、瀬戸内寂聴が著者に全面協力してくれたのだが、


一方、著者の実の母の心理については、血の繋がりがあるからこそ、逆に、想像力で書き切るに近かったのでは、


と一読して感じていた。


井上光晴の妻は、夫が浮気ばかりしている事を子供達に気づかせない女性だったから。


両親の夫婦喧嘩も、著者は、一度しか記憶にないという。


どうしたら、こんなに、自然体にどーんと構えた女性で居られるのか。


勝新太郎と長年恋人だった元祇園の伝説の芸妓も素敵な女性だったけれど、自分がいつも泊まるホテルの部屋に先に入れた自分の荷物を


突然泊まりに来るという妻に、気を遣った勝新太郎側に勝手に移動されて、妻の荷物を入れられた際「忘れ物があるから」等、ホテルの人間に嘘を言って、


誰も居ない部屋へ入り、クローゼットに掛けてあった勝の妻の毛皮を八つ裂きにしたりしている。

そして、それを自らの著書に書いている。


ところが、井上光晴の妻にも、瀬戸内晴美にも、そのような相手の女性への嫉妬や憎しみがまるで無い。

こんな事があるのか。


こんな女性は、空跳ぶマダムと呼ばれた「おそめ」さんくらいしか私は知らない。


おそめさんも、元芸妓さんで、京都と銀座にお店を持ち飛行機で移動していたから、空跳ぶマダムと呼ばれた。


その、おそめさんが生涯愛したのが東映の伝説のプロデューサー。

長年の不倫。本宅である彼の家庭を経済的にも一生支え続けた。


女が血を吐く想いで、愛し切っているから。

嘆かない。

他の女を憎まない。

そんな事があるのか。


『あちらにいる鬼』をもう一度読み直した。


一度目よりも、一言一言が深い。

それこそ、井上荒野は、血を吐く想いで書き切ったと感じた。


自らの両親の事実を題材にした、フィクションだ。




三島由紀夫の長編デビュー作『仮面の告白』がそうであるように『あちらにいる鬼』も凄まじいフィクションを文学に昇華させた。


これが小説家の力。


ドロドロの不倫劇と、興味本位なだけで扱われてしまいそうになるが、


いやいや、

飛び抜けている。


小説の冒頭の「セックスというのは男そのものだと思う。うまいもへたもない。セックスがよくないというのは、ようするにその男が自分にとってよくない、ということなのだ」も、


こんな始まり方が出来るなんて……。