きっかけはキム・サムスン

このドラマがきっかけで韓流ワールド広げてみたくなりました。にひひ

天使ま、早い話がヒョンビンにハマッたワケですが(笑)。

韓流的モノ・コト、超主観的ですがご一緒に楽しんでいただければ幸いですラブラブ



『私の名前はキム・サムスン』

*公式HP(韓国語)
*ロケ地紹介


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キム・ソナが案内する「私の名前はキム・サムスン」/朝日新聞社

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2011.3.11 14:46

ほぼ1年ぶりの更新です。。

しばらく記事をUpしておりませんでしたが、このたびの地震で私が経験したこと、被災地での感謝の思いを込めてログを残しておきたいと思い、つらつらと書かせていただきます。

※タイトル、本文、加筆・修正いたしました。


まずは、


このたびの東北地方太平洋沖地震により、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された地域の皆さま、そのご家族の方々に心からお見舞い申し上げます。

一日も早い復旧復興を心よりお祈り申し上げます。



震災の日、私は宮城県栗原市におりました。

3月8日(月)から11日(金)までの予定で宮城へ出張し、11日(金)東京に帰るべく、14:30頃JR「くりこま高原駅」に到着。

一週間の出張を経て、やっと東京に帰れると気持ちも緩んでいたところ、まさか数分後に大地震に見舞われるとは知らずに、まもなく来るであろう新幹線を駅構内の1階で待っていました。


そして、そろそろ2階のホームに向かおうと歩き始めた頃、最初にグラッと揺れ、その大きな揺れと共にバチっという音がして照明が落ち、駅構内は暗くなりました。

そしてまだまだ続く大きな揺れ。。

駅の案内の女性が「皆さん外に避難してください!」という声で、駅にいた数名が外に流れ、駅前の広場で揺れが収まるのをしばらく待っていました。


当然、ことの重大さに気付きもせず。。


ただ、ただ、大きい揺れに立っていられない状態で、持っている荷物(キャリーバッグ)でバランスを取ろうと摑まっていましたが、それでも立っていられず、結局しゃがんで揺れが収まるのを待っていました。


その時間の長かったこと。

駅の建物の外観は被害なく問題無さそうでしたが、揺れている最中はバリバリ音を立てて大きく揺れていました。

広場から見た景色は青空の下、ただ揺れてる。。とだけしか感じませんでしたが、しゃがんでいながら地割れするのではないか、と思ったほどでした。

後ほど2階ホームから逃れた方から聞いた話によると、2階のホームはガラスが割れて飛び散り、大変危なかったそうです。


もう大丈夫かな?と駅へ向かって少し歩き出すと、また大きな揺れ。。

そして慌ててまた外へ。


当然、新幹線が来るハズもなく。

さて、帰れるのか?と、次第に大変なことが起きたと実感したのです。


それから途方もなく、会社へ連絡を取る人、家へ電話する人、成り行きを見守っている人、さまざまでした。

私もまずは会社へ情報収集のために電話しましたが、折り返しの電話は受け取れず、携帯のメイルも1時間後には不通に。

そして、持っていたイーモバイルでネット検索するも最新の情報は「地震がありました」程度。

その後すぐにイーモバイルも通信不可能に。。

公衆電話は通じていたようですが、次々に列を作っていました。


この先どうしたものか。。


周りを見ながら、人々も困惑の表情で知らない者同士声を掛け合っていました。

そしてさっきまで晴れていた空にチラチラと雪が降り始め、辺りは一気に雪模様。

寒い中、駅構内には入れず、近くの建物にも入れず、外に放り出された状態でしたが、近くのホテルの方の心遣いで「建物の中は危ないのでご案内できませんが、送迎用バスを提供するのでしばらくこちらで暖を取ってください」とマイクロバスを2台提供してくださいました。


そしてその場にいた人々は一旦バスへ。

お婆さんが続々外へ逃げて来られた時は不思議に思いましたが、聞けば駅前にある入浴施設に来ていた方々で、地震後、すぐに着替えて外に出されてしまったそうです。

バスの中で暖を取らせていただきながらお話を伺っていたら、バスで家まで帰るのになかなかバスが来ないので待つにも寒くなってきたので困っていた、とのこと。

家族に連絡しようにも連絡もできないとおっしゃっていましたが、やはり地元の方、次々にご家族の方がお迎えに見えて笑顔で帰られていきました。

そして、ちょうど震災時に居合わせたコカ・○ーラの配送のお兄さんが「古川まで行きますので近くの方がいらっしゃったらお乗せします」と待機中の方々に声かけしている光景に、震災直後の迅速な対応、そして助け合いの心に触れ、暖かい気持ちになりました。


この栗原市は2008年にも震災のあった地域で、当時は山の方の被害がひどかったそうですが、復興に向けて市をあげて取り組まれた経緯があったと聞いていたのを思い出しました。


栗原市公式HP

平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震

平成23年東北地方太平洋沖地震  *本日更新されたようなので最新情報ご参考まで。


そして辺りはだんだん暗くなり、ホテルの送迎バスにいつまでも居られる訳もなく。。

ですがそんな状況でホテルのスタッフも放り出せず、余震も落ち着いた頃、ホテルのフロントへ一旦移動してくださいと促され、言われるがままにフロントで待機させていただきました。

そして、もしも可能なら宿泊したいという声が多かったようで、ホテル側も断れず「停電と断水で十分なサービスが提供できませんが。。」とチェックインを開始してくださいました。


おかげで遠方組も路頭に迷うことなく、寝泊りできるお部屋を提供いただけただけでも感謝ですが、何の準備もない私たちに暖かいおにぎりやお茶のサービスをしていただいて、滞在中は言葉では尽くせないほどお世話になり感謝しています。


12日(土)の朝、公衆電話がまだ使えていたので自宅や会社の友人へ無事を連絡し、その後の状況(情報)を聞きましたが、その時点ではまだ全貌が分からない様子で、東京も電車がストップして大変だったと伺いました。

東京まで及ぶとは。。やはり大変な事態と実感しつつ、東北新幹線の復旧についてJRの職員に確認しましたが「何も分からない」とのこと。

*後に聞いた話ですが、JRの電話も不通になったため状況が確認できず、まずは自分たちのできることとして余震の度に橋や柱などの設備の点検をしていたようです。


そして、ホテルに身を寄せた人たちと情報交換したところ、「津波で仙台が大変な被害にあった」「仙台空港はダメだけど花巻空港は大丈夫らしい」などなど、東京へ帰る手段を模索しましたが確実な情報は何もなく、一層途方にくれていたところ、午後になって、帰れなかった私を心配して会社@宮城事業所のM女史が探しに来てくれました。

彼女曰く、時間的にきっと新幹線に乗れなかっただろうな、そして、もしもいるならココだろうと、ホテルまで訪ねて来てくれたのでした。

まさかの再会・無事を喜び、そして明日、事業所の被害状況を確認しに行くとのことで同行の約束をして一旦別れました。

その夜、ホテルのロビーで宿泊者と共にラジオで聞いた安否確認の連絡や、福島原発事故の知らせ。。

一刻も早い人命救助・事態の収拾に努めて欲しいと願うばかりでした。


それでもまだ事態の大きさを実感したのは震災から3日目の13日(日)になってからかもしれません。

この日の朝食後、震災後初めて新聞を目にし、その内容に驚くばかりでした。

その記事に、2日前に”予兆あった”の文字。。

確かに、9日(水)震度5の地震があったのを思い出しました。

だからと言って誰がこんな大きな地震を予測できたでしょう。


東日本に及ぶ大規模な地震、まさかこんなことが現実に起こるなんて。。


私のいた被災地もライフラインが断たれ、外部との連絡手段もない状態でしたが、津波の被害にあった地域に比べればまだましだったのかもしれません。

倒壊の建物も少なく、道路の陥没もところどころありましたが大きな支障はないようでした。

ただそうは言っても、生活する立場からすると物資の不足、特にガソリンの不足は深刻でした。


それでも被災者たちは”やるべきことをするだけ”と自分たちで何とかしようと頑張っていらっしゃいました。

よそ者の私にも笑顔で”負けるな”とメッセージを送っているかのように、勇気をもらい、励まされる思いでした。

何もできない私ができることといえば迷惑をかけないこと、くらいで。。


13日(日)事業所内の片付けに参加し、社員食堂の在庫も停電でいつまで持つか分からないということで一掃するために食事が振舞われました。

皆さん暖かい食事は3日ぶりとかで大変喜んでいらっしゃいました。


そしてその午後、M女史の提案で何とか帰京できる方法を考えましょう、ということでホテルで集めた情報で、多くの方が「山形を経由している」という話をしたところ、「そうだ、山形行こう!」と早速、弊社の山形事業所行きを所長に掛け合ってくださり、翌日14日(月)電気・通信が復旧している山形へ向かうことになりました。


14日(月)まずは事業所のメンバーが通常とおり出勤してくるので8時に朝礼を行い、その後、会社の備品(トイレットペーパー、乾電池、食材など)を不足して困っている家庭に配布し、電気が復旧するまで元気で過ごすように、どんなに苦しくてもこれ以上悪いことは起こらない、と社員たちを励まし、鼓舞する所長。

そして、社用車のガソリンをかき集め、山形までの片道分を準備して所長以下4名で山形へ向け出発しました。


山形県を越えた頃、携帯の電波が入り始め、やっと外部と連絡が取れるようになりました。

そして道中、山形からのルート(飛行機、高速バス、在来線の運行状況)を調べていただきながら、飛行機・バスはどれも満席、在来線は不通ということが分かったので、タクシーで新潟へ抜けるということでタクシーの手配まで整えていただきました。


山形へ着くとすぐに暖かい食事が用意され、携帯電話の充電をさせていただき、皆さまのおかげで送り出していただいたことに感謝して新潟へ向かいました。


今でも被災地では停電が続いています。(3月21日に通電したとのこと、状況が良くなったようで安心しました。)

不便な中で疲労も大変なものとお察しします。

このような状況で、無事に帰宅できたことに本当に感謝いたします。

そして被災地でお世話になったホテルのスタッフ、ホテルで出会った皆さまに感謝しています。


ホテルで出会った面々はドラマになりそうなくらい様々な人間模様がありましたので一部ですがご紹介いたします。


仕事で日本に来ていたフランス人。

8人くらいでワサワサとホテルに乗り込んで来た時は一瞬”アルマゲドン?”と思ったほど。

大きい懐中電灯を肩にかけ、お揃いの青いジャンパーにヘルメット姿。

レスキュー隊かと思いましたよ。

聞けば、仕事で中国4日間、日本3日間(うち仙台2泊)の滞在を経て帰国する予定だったとか。

それが帰国の予定が延び、and more..と明るく笑って答えていたハービックさん。

私たちは秘かに”隊長”と呼び、親しませてもらっていました。

わずかな時間でしたが彼らとの交流を通し「一期一会」の言葉をもらい、心温まる時間を過ごさせていただいたことに感謝します。


余命幾ばくもないと宣告された年配の男性。

宮城にいらした経緯は伺っていませんでしたが、余命宣告を受けて1年半が経過し、徐々に状態が良くなっていたところに震災に遭い、14日(月)には半年振りの検査があるので東京に帰らなければならないという事情がありました。

ホテル滞在中も体調を崩されたようで辛そうでしたが、幸いにも山形を抜けて帰る方とご一緒に帰られると聞いて安心しました。

どうかご無事でいらっしゃいますように。


野鳥の撮影で滞在されていたご夫婦。

ご主人の出張に合わせて奥様が11日(金)に宮城に入り、車で移動中に震災にあったお二人。

せっかくのバカンスに被災されて本当に驚いたと思います。

ホテル滞在中は話し相手になっていただき大変心強かったです。

ありがとうございました。

無事に戻られたことが確認でき安心しました。


お二人のブログに記事と写真が掲載されていますのでご紹介いたします。

ケンケン&ミントの鳥撮りLife


法事で滞在していたご老人グループ

宮城に親戚がいらっしゃるとのことで早い段階で親戚のところに行かれていましたが、やはり東京に帰りたい思いがあったと思います。

身内の中には血圧の薬がもうないとおっしゃっている方がいらっしゃいましたが、その後体調はいかがでしょうか。

どうかご無事でいらっしゃいますように。


地方自治体のグループ

震災の日、栗原市の復興支援担当の方にお話を伺っていたとのこと。

ちょうどお話を聞き終わる頃の地震だったそうで、奇しくもその対応をするために急いで東京へ向かわれたことと思います。

情報が少ない中、いろいろ教えていただき感謝いたします。

どうかご無事でいらっしゃいますように。


被災者の皆さま。

1日も早く、笑顔で毎日が送れますよう心よりお祈りいたします。
2011年3月20日


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