葬儀も終わりようやく遺族一同落ち着いたので久々ながらにブログにて一筆させていただきます。
先日、延岡市文化功労者として学芸文化部門にて受賞した僕が大好きで尊敬していた爺ちゃん。岩切俊秀が10月26日の夕方に旅立ちました。
86歳とは思えないくらい元気でハキハキと喋り、みんなに笑わせてくれて、時には厳しく、優しい。甘いものが大好き。嫁のふくみ婆ちゃんを愛して、娘息子に愛し、孫8人に凄く愛情をくれた素敵な人でした。
別れは突然でした。
胃に癌を患い闘病していたのは聞いてました。
転移もみつかり末期に近づいたことも本人も含めてみんな知っては居ましたが、爺ちゃんは凄く元気な人でした。11月18日に表彰式にも出るってイキイキして、リハビリも続けてました。
そんな爺ちゃんは26日に病状が急変したのです。
爺ちゃんは、ひい爺ちゃんの膝の上に座りながら延岡は伊形花笠踊りという舞を歌、踊り、太鼓を覚え70年と先祖から受け継いだものを時には辛いときがあってもやって来た人でした。
始まりは、村が津波に襲われた際に人々が鎮静を祈ると7羽のシラサギが現れて波を鎮め、そのシラサギの7羽が白装束の人の舞になり、お盆の祭礼として古くから伝わったそうです。
昔は戦争に行く前の長男が踊っていたそうですが終戦を迎えた昭和20年。その風習は無くなったそうです。舞い手が居なくなり、爺ちゃんも15歳で父親から見てきたものを戸惑うことなく初めて舞い。そこから爺ちゃんの舞い手としての苦難が始まりました。
舞い手が居ない状態から、消防団に踊って貰えるようになりました。しかし、進む過疎化によりまた若者が居なくなる中、平成5年に保存会を結成。中学生に伝承を始めたらしいのですが、時代の流れか部活等の理由により人が集まらなかったそうです。その後、小学六年生に踊りを踊ってもらうようになったそうです。
この当時、僕は母が長女の孫でありながらにして県外に住んで居たため。帰省のたびに花笠踊りを見て昔やってみたいって言ったことがありましたが、遠方なことと、昔のしきたりが交錯して踊る機会はありませんでしたがいろいろとあったかと推測します。
平成13年延岡市無形民俗文化財に指定されると県から調査に来られた方に『子供の踊りだけでは指定出来ない』と言われたことをきっかけに大人達を集め復活し…
平成20年延岡市では初の県無形民俗文化財に指定されました。
花笠踊りと言うものは歌に楽譜などがあるわけでなく身体に覚えさせるものらしいです。
歌、踊り、太鼓の三拍子。本当に難しかったと思います。
葬儀の際、爺ちゃんは保存会の副会長の立場でしたが会長さんからの最後のあいさつがとても印象的でした。
『…岩切さん…あなたの歌、舞は凄えかっこ良かった!岩切さんは最高の人でした!』って言われた時に僕は涙が止まりませんでした。
生前、母がよく僕のことを爺ちゃんがよく話してるって言ってました。
『孫8人の中で芸の道に進んだのは龍君だけやったね。』
『花笠踊り、龍君が踊ってくれるといいっちゃけどね。』
『龍君、東京でどんげか?…忙しいっちゃろが?』
延岡でお芝居を僕がやる機会もあり、爺ちゃんは毎回見に来てくれてましたし。
同じ芸の道に行くものとして、爺ちゃんはそれだけ偉大で優しくて…僕はどれだけのことが出来てるんだろう。
まだまだ俺はちっぽけだよ爺ちゃんって思って…
涙が止まんなくて。
今月初めに元気なうちに会っておけって言われて会った時はもっと話すことがいっぱいあったはずだけど…いろいろ話せなかったと思えば…
その数日後、文化功労者の賞を貰ったときお祝いの電話したときも爺ちゃんは俺に逆に頑張れよーって気を回してくれて励ましてくれる良い爺ちゃんでした。
爺ちゃんの花笠は息子である叔父がこれから継いでいくので、俺はその血筋としてやはり芸事の道を極めて生きたいと思います。
だからこそ、叔父と俺はなんか爺ちゃんが偉大に見えると思うんです。
爺ちゃんは延岡市は伊形の…岩切家の…俺の…
誇りです