耽美映画の落とし穴 ヴェニスに死す
ルキノ・ヴィスコンティの「ヴェニスに死す」、非常に有名な耽美映画である。
マダムは耽美が大好きなので、もちろん観賞済みだ。しかし・・・。
しかしこの映画は、耽美を愛する日本人にとって、最大の落とし穴があったのである。
主人公はドイツ人の作曲家、アッシェンバッハ。
スランプに陥ったアッシェンバッハは、休養のために訪れたベニスで、ポーランド人美少年、タジオと出会う。
アッシェンバッハはタジオを一目見て、なんと恋に落ちたのだった。
アッシェンバッハは芸術に対して理性的な考えを持っているが、ありえない一目ぼれに苦悩する。
アッシェンバッハを見舞いに来た友人は、芸術はインスピレーションが全てだと諭す。
いくら技術的に優れていても、構成が理想的であっても、インスピレーションなき芸術は芸術などではない。
これは、理性的にしか物事を考えることが出来ないアッシェンバッハに対する、辛辣な助言でもあった。
芸術は技術であり理性的であり、感情的な中で作品を創造することは出来ない、と言い切るアッシェンバッハ、
創造は、穏やかな感情と理知的な思考の基で完成させるものだと信じているアッシェンバッハ。
では、恋は?
これこそ、理性も思考も技術も超越した、最も不可解なものではないか?
常に理性的であった自分、全てを芸術に捧げている自分が恋を?しかも外国の少年に?
タジオに恋焦がれ、しかし理性的ではなくなった感情に恐れおののき、アッシェンバッハの苦悩は続く。
アッシェンバッハは毎日、タジオの姿を目で探す。まるで初めて恋をした少年のように。
タジオの姿を求めて、ホテルを、海岸を、街中を彷徨い歩く。
ある日、アッシェンバッハは、街中が消毒されているのを目撃する。
なぜ消毒しているのか尋ねると、なんとコレラが蔓延っており、その消毒だという。
コレラが疑われる場所には火が放たれ、黄昏時に、妖しく揺らめく篝火に包まれたヴェニスの街は幻想的だ。
人気のない街中を、タジオの幻影を夢見ながらふらふらと彷徨うアッシェンバッハ。
そしてついに、アッシェンバッハもコレラに冒されてしまう。
死を予感したアッシェンバッハは、化粧で自らを飾り、タジオを捜し求める。もう恥も外聞もない。
人からどう見られようと、彼は構っていられない。時間がないんだ。
たったひとつの恋を成就するのに、人生はなんと短いのだろう!
疲れ果てたアッシェンバッハは、浜辺のデッキチェアに崩れるように横たわる。
施した化粧は汗で醜く崩れている。
海辺で、友人たちとはしゃいでいるタジオを見つめ、アッシェンバッハは微笑みながら死んでいく。
無防備に恋が出来たら!
理性なんて考えず、無防備に恋が出来たら、どんなに素晴らしいだろう!
作曲が出来なくなった苦悩と、美少年にたいする欲情、ヴェニスの風景、孤独、退廃、死・・・・・。
全てが渾然一体となって、美しい旋律を奏でる。
死を予感させながら、もうどうすることもできない諦めにも似た安心感と焦燥感は完璧。
これがデカダンってもんだ!!
ただ、耽美映画として楽しむには、超えなければならないハードルを持っている。
それは主人公のアッシェンバッハである。アッシェンバッハがなぎら健壱にクリソツなのである。
映画の冒頭、アッシェンバッハがゴンドラでヴェニスに入るシーンから始まるのだが、いきなりなぎら。
耽美映画だと思っていたマダムは、画面に映るなぎらを見て凍りついた。
「あれ?ここ・・・隅田川?ゴンドラ・・・・・屋形船・・・?」
また、レストランでけだるい晩餐を摂るシーンでは、
「おい!お前はもんじゃだろ?なに気取ってワインなんか飲んでんだよ!」
などと、つい心の中で突っ込んでしまうのだ。もう、突っ込まざるを得ない。
「耽美」と「なぎら」。この世で、最も相性の悪いものを組み合わせてしまった映画なのである。
この映画は、われわれ日本人にとって「踏み絵」的な役割を果たすであろう。
すなわち、デカダンを味わうためにはなぎらを無視しなくてはならない。
しかし、なぎらが気になってしまう人は、デカダンどころではない・・・・・。まさに二律背反状態。アンビヴァーレンツ。
なぎらを無視して、この映画を心から楽しめた人こそ、真の退廃的人種ではなかろうか。
ちなみにマダムは、最後までなぎらが気になって、突っ込みまくっていた・・・・。デカダン失格・・・。
画像ではあまり似てないようだが、映像ではマジで似てるんだって!!
あれだけ似てるのに、今まで誰も指摘してないのはなぜなんだろう?
もしかしてマダムだけか?なぎらに見えるのは・・・・・・。別になぎらファンではないのだが。
これは自分の目で確かめてほしい。
さあ!みんなで Let's TRY ! 耽美ななぎら!