20.インスピレーションを受け取る器をつくるには、教養や学問の力がいる。
  作家としての専門外の分野にも、努力や関心の領域を広げる。
  古典は当然きっちり読み、未来や海外にも関心を向け、「異質な目」で見る努力を。


創造の法―常識を破壊し、新時代を拓く/大川 隆法

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本書は「知の原理」をベースにした本です。

そして、インスピレーションとは「知」そのものですから、「知」に投資した人間だけが「知」を得られる、という、いわば「学問のすすめ」が本書の中心的思想です。

「異質な目」も、わざわざ変なことを考えなくても、海外の文化について書かれた本を読んだり、映画を見たりすれば自然に身についてくることです。


例えば、「車は左、人は右」というのは日本では当たり前ですが、30年くらい前にバイクで沖縄を走った頃は「車は右、人は左」で、「そうか、ここはアメリカなんだ」と驚いたものです。

ルナールの「にんじん」を読んだ時にも(記憶は定かではないのですけど)、フランスでは子供も葡萄酒を飲む、というか、「反抗して飲まなかった」みたいな表現があって、びっくりしました。

あるいは、ヨーロッパでは食事の後にゲップをするのはマナー違反なのだけど、中国では「たいへん美味しい料理をありがとうございました。こんなに食べてしまいました」という礼儀をこめてわざとゲップをする、という話もどこかで聞いたことがあります。

似た話では、イタリアでパスタを音を立ててすするのはマナー違反だけど、日本でざるそばを音も立てずにすすったら「不味そうに喰うな」と叱られます。

同じ国でも時代が変われば価値観や美意識も変わり、江戸時代の浮世絵の美人はみんな目が細いですけど、現代のアニメ画の美少女はみんな目がでっかいです。
何ででしょう? 手塚治虫先生の影響なんでしょうかね。

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「歩きながらアイスを食べる」なんてのも、昔は下品なことだったけど、オードリー・ヘプバーンが「ローマの休日」でやってからみんな真似し始めて文化が変わった、とも言われています。

旅館などでは朝食に上等の中華粥を出してくれるところもありますが、昔職場の同期会で旅行に行った時、「オカユなんか出しやがって」と、その後延々と文句を言っていた同僚がいました。
「粥イコール病人食」とか「粥イコール『冷や飯』の処理」という認識しかなかったんでしょう。残念なことです。美味しかったのにね。


こうしたことは、文化人類学や動物行動学の入門書などに面白い話題がいっぱい書いてあり、そんなのを読みますと、固定観念的な思い込み「こうあるべきだ。こうでないとおかしい」といった考え方は、消えてゆきます。


SFなどを読みますと、さらに「未来からの視点」が得られたりします。

それは「宇宙からの視点」だったり、「時間を超えた視点」だったり、「異次元やパラレルワールドからの視点」だったり、「超能力者やロボットからの視点」だったりします。

例えば「マトリックス」などでは、主人公が「現実」と信じていた世界が、コンピュータによって創られた「仮想現実空間」だった……みたいな世界観が描かれています。
世間常識的には「あり得ない」設定ではあるのですけど、この「コンピュータ」を「創造神」とか「根本仏」と置き換えたら、「この世界そのもの」になるわけです。

ですから、仏教で言う「この世は仮の世界だよ、あの世が本当の世界だよ」という真理は、「マトリックス」を見たことのある人に対しては、とっても説明しやすいのです。

そう、これは巨大な「観の転回」であり、「認識の拡大」です。


人間が地上に生まれてきた後は、特定の地域の、特定の文化環境の中で育ちます。

当然その環境は、天上界の視点から見たら、文化的なバイアスが掛かっています。

そうした「偏見」を、「白紙に戻す」ということを通して物事を「正しく見る」ことができるようになるわけですが、ある特定の「偏見」が、「偏見」であることを認識できないと、その「偏見」を取り去ることはできません。

となると必要なのは、「ある特定の文化的バイアス」とは違った視点を獲得することです。

その違った視点を獲得することを、「教養」と言うのです。


何かを見るとき、ひとつの凝り固まった視点からしか見ることのできない人を、「教養ある人」とは言いません。

様々な観点、自分以外の他の人の観点、外国の違った風習や文化からの視点、現代とは違った時代からの視点、地上だけではなく天上界や地獄界からの視点……そうした様々な視点から物事を見、そしてその中から自分自身の判断を決定していく行為。

その積み重ねが、私たちにとっての、「神への長い道」であるのです。



土佐広



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