15.「夢中になれるものについては没頭するが、それ以外のものについては気にも留めない」のは、エジソン型の天才。
  天才とは、普通の人では理解できないところまで、何かが突出した人。


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このあたりは、「こういう表現にしたら、喜ぶ人がいるかなあ」と思ってまとめたものです。
一番喜んでいるのが、書いている本人だったりして。



子供の時って、けっこうみんな「エジソン型の天才」なんですよね。
それが、成長していくにつれて叩かれて、「つまんない大人」になってしまう。


「できること」より、「できないこと」に注目する教育というのは、「平均化」を目的とするならいいんでしょうけど、それでは「創造性豊かな天才」はできない。


日本的な「恥の文化」は、ともすれば「他人と違っていることは(善きにつけ、悪しきにつけ)恥ずかしい、という考え方になりやすく、かぎりなく「平均化」していこうという意識が働きます。


エジソンの逸話なんか読みますと、それはアメリカでも同じだったのかもしれません。



でも、「エジソン型の天才」って、魅力的なんですよね。


「ガラスの仮面」も「昴」も「のだめカンタービレ」も、「ひとつのことしかできない天才」を描いた物語ですが、その圧倒感は「平凡な小市民の物語」では決して得られないものです。


平凡な人間が一生努力しても到達できないところに、苦もなく(でもないのでしょうけど)到達してしまう、その、ある意味で「人間を越えた何か」を感じさせる部分。
「神に愛された」何かを感じさせる部分。
(そのかわり、それ以外のことはたいていダメダメなんですけど)



じゃあなぜそうした「天才」に魅力を感じるのかというと、普通の、平凡な人が「平均化」のストレスの中で、苦しんでいるからではないかと思うのです。


「できない」ことを追求され、それを何とかしようと時間やエネルギーを費やしていくうちに、「できること」を忘れてしまう。


そして、「自分は何のために生まれてきたんだろう?」ということが、わからなくなってしまう。


そんなふうに、感じます。



だから、部屋の中がぐちゃぐちゃでありながら、誰にも真似できないピアノを弾く「のだめちゃん」に憧れてしまう。


普段は目立たない普通の女の子なのに、舞台に立つと圧倒的な存在感を放つ「北島マヤ」を、応援したくなってしまう。



もしかしたら、僕たちもそれでいいのかもしれません。


あらゆることを「人並み」にこなせて、それでいいのでしょうか?


「夢中になれるものについては没頭するが、それ以外のものについては気にも留めない」割合を増やしても、いいのではないでしょうか?


そんな生き方をしたら、文句を言う人は必ず出てくるでしょう。
でもまあ、我慢してもらうのもいいかなあ、と。


何もかも「人並み」にやっていたら、何かで突出するなんてできるはずもない。



ですからまあ、あとは決断ひとつなんですけどね。


僕自身は「人並み」のところは、これからはだいぶセーブしていこうと思っているところです。




土佐広




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