女子マラソンの00年シドニー五輪金メダリストで元世界記録保持者の高橋尚子(36)=ファイテン=が28日、東京都内で記者会見を開き、現役引退を発表した。肉体的、精神的に限界を感じたことが理由。出場予定だった11月16日の東京国際女子は欠場する。  会見で高橋は「中学で陸上を始め、五輪、世界記録と多くを経験し、今は台風が過ぎ去った後のさわやかな風が吹いているという心境。陸上人生に悔いはない」と話した。  高橋は今年3月、北京五輪代表から落選。その後、東京国際女子、来年1月の大阪国際女子、同3月の名古屋国際女子の国内マラソンを連続して走ることを表明した。だが練習で調子が上がらず、「プロ高橋の走りを見せられない」との思いから決断した。今後は未定だが、市民マラソンなどには参加するという。  岐阜市出身。実業団で小出義雄氏(69)の指導を受けて頭角を現した。シドニー五輪で日本陸上女子初の金メダルを獲得し、00年に国民栄誉賞を受賞。01年ベルリン・マラソンで2時間19分46秒の世界記録(当時)で優勝。04年アテネ五輪代表を逃し、05年東京国際では優勝したが、その後は成績を残せなかった。 「完全燃焼して、さわやかな気持ちです」。28日に引退表明した女子マラソンの高橋尚子(36)=ファイテン=は記者会見で、そう心境を語った。日本陸上女子初の五輪金メダルをもたらし「Qちゃん」の愛称で親しまれた国民的ランナーが、20年を超える陸上人生に幕をおろした。  会見場は、05年にかつての師である小出義雄氏(69)からの独立を表明した東京都内のホテルだった。「本日をもちまして現役引退を決意しました。3大会(11月の東京国際、来年1月の大阪国際、3月の名古屋国際)出場を心待ちにしていたファン、陸上関係者、スポンサーに深くおわびします」。開口一番、そう言って頭を下げた。  5月末から米国コロラド州で練習してきたが、8月に入り、思うような走りができなくなった。「これで『プロ高橋尚子』と自信を持って出場できるかと考え、このままじゃいけないと強く思うようになった。納得のいく走りができなくなった。肉体的、精神的にこれが限界なのかなと感じました」。10月10日、所属先のファイテンの社長に決意を伝えると、涙が出たという。  マラソンは11戦7勝。00年に五輪金メダルを獲得し、01年に世界記録(当時)を樹立した。だが、一番の思い出のレースとしては、2度目のマラソンで2時間25分48秒の日本記録(当時)で初優勝した98年の名古屋国際女子を挙げた。「成績が残せなかったらマラソンをやめるつもりだった。転機になりました」 「大切な方」と表現する小出氏から独立した後、05年に独自に練習パートナーやトレーナーを雇って「チームQ」を結成。新たな挑戦に出たが、なかなか結果が残せなかった。それでも「陸上だけじゃなく、チームのあり方、まとめ方、いろんなことを学べた。充実した、自分の足で歩いた3年間だった」という。ただ、やめていくメンバーもいて「力不足かなとも悩んだ」と振り返った。今後については未定だが、「陸上が大好き」と語る高橋らしく「50歳、60歳になってもジョガーとして走り続けたい。陸上の楽しさを多くの人に伝えていきたい」と話した。  会見の最後、「今まで本当にありがとうございました」とあいさつした高橋に報道陣から拍手が送られると、こらえてきた涙があふれ出た。Asahi.comより ★高橋 尚子(たかはし なおこ、1972年5月6日 - )は、元マラソン選手。岐阜県岐阜市出身。血液型はO型。2000年シドニーオリンピック女子マラソン競技で日本人女子陸上競技選手初となるオリンピック金メダルを獲得。オリンピック記録保持者(2時間23分14秒)。女子マラソンの元世界記録保持者。 爽やかな笑顔と前向きな生き方から多くのファンを生み出し、社会人時代初期から引き継いでいるQちゃんの愛称で親しまれている。 来歴 学生時代 父親、母親ともに教育者。 中学から陸上競技を始め、藍川東中学・県立岐阜商業高校・大阪学院大学商学部を卒業。 県立岐阜商業高校時代は800mの選手で県予選岐阜県1位であったが、全国インターハイでは予選で敗退となった。全国都道府県対抗女子駅伝にも出場した。 大阪学院大学時代は日本インカレで1993年、1994年と2年連続で、1500mで2位、3000mで3位。また1993年の高橋が大阪学院大学陸上部で初めて日本インカレの表彰台に上がった選手である。全日本大学女子駅伝、全国都道府県対抗女子駅伝などでも活躍した。 大学在学中、教師になるために母校県立岐阜商業高校で教育実習を受けていた。だが、実業団数社から勧誘がきており、大学卒業後の自分の進路について、教師になるか実業団で陸上を続けるか悩む事になる。陸上を続けるなら勧誘されていた企業ではなかったが、小出義雄監督率いるリクルートが一番との高校時代の恩師からの助言もあり、リクルートに入社する事になる。 リクルート時代 1995年に小出義雄が陸上部監督を務めるリクルートに入社。しかしスカウトされての入社ではなく、自ら売り込んでの入社であったとのことである。この事から小出からは「有森裕子二世」と期待されるようになった。 当初はトラックランナーであった。1997年の世界陸上競技選手権アテネ大会の女子5,000mに出場。予選レースを通過するも、決勝レースの順位は13位だった。1998年5月のIAAF国際グランプリシリーズ大阪大会(長居スタジアム)の女子5,000mで優勝している。 1997年1月26日に大阪国際女子マラソンを初マラソンの舞台とする。この時、小出は各種メディアにイチオシの選手として紹介していた。しかし中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、初マラソンは2時間31分32秒の記録で7位に終わる。 1997年4月、小出がリクルートを離れ積水化学へと移籍する。これにともないチームメンバーとともに高橋も積水化学へと移籍することになった。 積水化学時代 高橋が女子5,000mで出場した1997年8月のアテネ世界選手権で、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美が女子マラソンで優勝した。 これを沿道で応援していた高橋は先輩の鈴木の優勝を喜ぶと同時に、自分ももしかしたら3番か4番にはなれたかもしれないと漠然とながらも感じ、初マラソンを経験していたこともあり次第にマラソンへの思いが強くなっていった。そこに監督の小出の強い勧め(高橋はマラソンで世界一になれる)などもあり、高橋は本格的にマラソンランナーへと転向していく事になる。 翌年の1998年3月8日の名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。その後30kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の号令に、高橋は猛烈なスパートを開始、間もなくして高橋の独走となる。レース後半の驚異の追い上げを見せて、ゴールタイムは2時間25分48秒という日本最高記録(当時)をマークしてマラソン初優勝を果たした。 同年12月6日のバンコクアジア大会女子マラソンは、最高気温30度を超す高温多湿のレースとなったが、スタート直後から独り飛び出した高橋は、5kmラップが16分台のスプリットを刻むハイペースで突っ走り、30kmまでは世界記録を更新するペースで進んでいた。さすがに30km以降は17分台のスプリットに落ち込んだものの、独走一人旅で2位とは13分以上の差をつけ、亜熱帯地方特有の高温多湿の気温30度を超す最悪な条件のなか、2時間21分47秒のアジア最高記録(当時)で優勝。自身の持つ日本最高記録を4分以上も更新して世界最高記録(当時)まで1分というところまで縮めた。 また、女子マラソンがアジア大会で初めの開催種目だったので、その後の日本選手の士気を高めて金メダルを量産する原動力となった(当大会で男子100mの日本記録を更新した伊東浩司はそのように取材で述べていた)。そして高橋は、一躍シドニーオリンピック女子マラソンの金メダル最有力候補として、世界から注目を集めることとなる。 1999年8月29日のセビリア世界陸上の女子マラソン代表に選ばれていたが、レース直前に左膝を痛めたため、無念の欠場となる。その後も高橋は左腕を骨折したり、食あたりによる腹痛を起こすなどアクシデントが続いた。2000年3月12日、五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場。高橋の体調は万全では無かったが、2年前の同大会以上の前半より後半3分以上あげる驚異的なネガティブスプリットを見せて、2時間22分19秒の大会新記録で優勝。これにより、シドニー五輪代表の切符を獲得となった。 五輪優勝・世界記録達成 同年9月24日のシドニー五輪女子マラソンでは、18km付近で高橋自ら先頭集団を抜け出しスパート、この時点で世界記録保持者のテグラ・ロルーペは脱落、一気に集団がばらける。その後26km辺りからリディア・シモン( ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、高橋は34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、スパートをかけてシモンを突き放した。スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けるも、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきった。五輪での高橋の常にレースを引っ張る堂々たる走りは、ゴール後のさわやかな笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えた。 高橋の五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり戦後初の快挙であるとともに、日本女子陸上界においては史上初の快挙だった。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイト( アメリカ合衆国)がロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録である(この記録は今もなお破られていない)。これらの功績により国民栄誉賞を受賞(2008年現在、高橋は最後の国民栄誉賞受賞者である)。 2001年9月30日のベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界新記録(当時)で優勝。前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ( ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新であった。高橋の世界記録樹立での優勝は、女性初のサブ20達成での歴史的快挙とともに、日本女子マラソンがついに世界記録を更新した瞬間でもあった。(2008年現在、高橋は女子マラソン世界記録を更新した、ただ一人の日本人選手である。また女子マラソン世界記録保持者が五輪金メダルを獲得した選手としてはアメリカのジョーン・べノイトのみいるが、五輪金メダリストとして女子マラソンの世界記録を更新した選手は日本の高橋のみである)。(現在の世界記録保持者はポーラ・ラドクリフ( イギリス)。 高橋は翌2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。このレースは通常より1ヵ月間短いマラソン練習で臨み、レース途中に足の肉刺を潰すアクシデントもあったが、2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成した。この試みはベルリン出走からわずか1か月半後の2002年11月17日の東京国際女子マラソンへの出場も睨んでいた為であった。しかし、東京のレース数日前に胸の激痛が引かない為診断した結果、肋骨の疲労骨折を起こしている事が判明し東京は欠場、この為、連覇を狙う五輪代表最短切符になる2003年パリ世界陸上は断念する事になった。 スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代 その後高橋は2003年2月に積水化学を退社、同年6月にはスカイネットアジア航空とスポンサー契約を結び(2005年5月迄)、前年12月に同じく同社を退社した小出監督の指導を引き続き受けることとなる。 2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年のアテネオリンピック代表選出を目指して出走。この時期の平均気温より約10℃高い、季節はずれの気温24~25℃という高温と風速3~6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自ら飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速してしまう。39km地点でエルフェネッシュ・アレム( エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したものの、ゴールタイムは2時間27分21秒でまさかの2位と6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなってしまった。その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。コース・気象条件なども違う東京、大阪、名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず、結局、優勝出来なかった事とゴールタイムも悪かった事などの理由で日本陸連の選考で落選。高橋のアテネ五輪代表の切符獲得はならず五輪連覇の夢は潰える事になった。 しかし、これまでの高橋はシドニー五輪以降も毎年マラソン大会で高いレベルの記録で優勝という結果を残した、連戦連勝の五輪ディフェンディングチャンピオンであり、また女性で初めて2時間20分突破となる世界記録まで樹立した日本記録保持者(当時)。実績を全く考慮することなく、五輪連覇への挑戦が潰えたことを惜しむ人々の声も非常に多く賛否両論で大きな騒動となった。テレビ各局は高橋と小出監督の会見をNHKなど全局生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は全紙、高橋落選を一面トップで伝えた。 ファイテン(チームQ)以後 2005年5月9日、リクルート時代からの約10年に及ぶ小出との師弟関係を解消する事を発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なった。 2005年6月、ファイテンと2009年5月までの4年間の所属契約を結んだ。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。 2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場。右足のふくらはぎに軽い肉離れのケガを抱えていることをレース前日に公表、当日はテーピングをしての出走となり、終盤35km過ぎまでは様子をみながら自重していたが、35km過ぎに高橋がスパート、2年前まさかの失速で優勝をさらわれたエルフェネッシュ・アレムなどをおきざりにして独走となり2時間24分39秒でゴール、2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾った。 2006年11月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場したが、31km付近で優勝した土佐礼子に突き放され、39km地点では2位の尾崎朱美にもかわされる。右足ふくらはぎなどに抱えた怪我があったことなどにより、3位という不本意なフィニッシュとなった。本来なら調整ミスのため不参加の判断が適切だったと思われたが、チームを率いる立場にある高橋は強行出場の決断をした。しかし重要な大会を前に毎回何かしらの故障を起こす現状に、チームQの体制、ひいては本人の力の衰えを指摘する声が挙がった。2007年名古屋国際女子マラソンに出場して再度、2007年大阪世界陸上を狙うか注目されたが怪我の状況、体調面などを考慮して断念する事になった。 2008年北京オリンピックの女子マラソン代表入りは、その後の国内選考レースで挑戦する事となり、2008年3月9日の最終選考会である名古屋国際女子マラソンに出場を決めた。しかしその名古屋のレースでは、序盤の9km手前で早々スローペースの先頭集団についていけなくなり、ズルズルと遅れ出す。高橋自身今迄で一番苦しいマラソンとなる中で、それでもなんとか完走はしたものの結果は27位と惨敗、ゴールタイムも自己ワーストの記録となってしまった。 名古屋のレース終了後の記者会見では、昨2007年8月1日にアメリカのボルダーで、右膝関節の半月板を半分切除する内視鏡手術を受けていた事を告白。引退が囁かれる中、その後高橋自ら「私にはまだやるべきことがある。まだまだ走り続けたい」と現役続行を表明したものの、2012年ロンドンオリンピックへの挑戦については「4年後はまだ何も考えられないが、もしかしたら有るかも知れないですし無いかも知れないです」と明言を避けていた。 2008年3月24日、都内の記者発表会での席で、同年11月の東京国際(同30回大会で終了予定)・2009年1月の大阪国際・同年3月の名古屋国際と、国内3大女子マラソンへ3レース連続で出場する事を表明していた。 しかし、長年の競技生活による体力の限界を理由として、この程現役引退を決意したことが2008年10月28日付の日刊スポーツにて報じられ[1]、同日夕方の記者会見で現役引退を発表した。 エピソード シドニーオリンピック前に、アメリカボルダーで超高地3500m地点でトレーニングを行なった。標高3500m地点でのトレーニングは危険ではないかと一部専門家などの指摘もあったが、高橋と監督の小出は自分達の信念でトレーニングを敢行し、日本女子陸上界初となる五輪金メダルを獲得した。 2000年7月の札幌国際ハーフマラソンにシドニーオリンピックの調整レースとして出場。小出は調整段階での出場に難色を示していたが、高橋がどうしても出場したいと直訴した為、急遽アメリカ・ボルダーから帰国して参加。当時のハーフマラソン世界記録保持者(1時間6分44秒)エレナ・マイヤー( 南アフリカ共和国)を破り優勝。金メダル獲得へとつなげた。 2001年2月、Qちゃんフィーバーは収まらずイベント・表彰などが続き練習不足のなか、また女性誌などによるいわれのない中傷記事(太りすぎでもう走れないなど)も続くなか、青梅マラソンに出場。30kmの日本最高記録を更新する快走を見せ喝采を浴びた。 高橋は2001年秋のベルリンマラソンで世界記録を出したが、なんとその次の週のシカゴマラソンにも出場を決意していたという。しかし、2週連続フルマラソン出場という挑戦プランを聴いた日本陸連が、出場にストップをかけたという一幕もあった。 2002年に出演したNHKのトップランナーという番組の中で、高橋は「あなたのベストレースはなんですか?」と訊ねられ、「どれも私にとって大切なレースで選ぶのは難しいのですが……」とした上で、金メダルを獲得したシドニー五輪でも、世界記録を樹立したベルリンマラソンでもなく、1998年バンコク・アジア大会のレースを挙げていた。 2000年プロ野球、20世紀最後の年に世紀の対決と騒がれた、巨人長嶋茂雄監督・ダイエー(当時)王貞治監督が激突したON対決の日本シリーズ開幕第一戦の東京ドームで始球式をつとめた。 出身高校である県立岐阜商業高校の同級生にはプロ野球選手の和田一浩(中日)がいる。ただ、高橋と和田は高校時代は互いに面識こそあったものの会話したことは一度もなかったという。同高では高橋と和田一浩、さらに同高の先輩に当たる高木守道の3人をまとめて“ビッグ3”と呼ばれている。2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われ、このイベントは大盛況のうちに終った。“ビッグ3”と言われながらもこの3人が顔を合わすことは滅多になく、3人のトークをするシーンが斬新だったと言う人が多かった。 マラソン全戦績 年月 大会 順位 記録 備考 1997年1月 大阪国際女子マラソン 7位 2時間31分32秒 初マラソン 1998年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間25分48秒 当時の日本最高記録 1998年12月 バンコク・アジア大会 優勝 2時間21分47秒 当時の日本最高記録 2000年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間22分19秒 大会記録 2000年9月 シドニーオリンピック 優勝 2時間23分14秒 金メダル獲得・五輪記録 2001年9月 ベルリンマラソン 優勝 2時間19分46秒 当時の世界最高記録 2002年9月 ベルリンマラソン 優勝 2時間21分49秒 マラソン6連覇 2003年11月 東京国際女子マラソン 2位 2時間27分21秒 . 2005年11月 東京国際女子マラソン 優勝 2時間24分39秒 2大会ぶりマラソン優勝 2006年11月 東京国際女子マラソン 3位 2時間31分22秒 . 2008年3月 名古屋国際女子マラソン 27位 2時間44分18秒 . 座右の銘 「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。」 その他 長良川の河川敷に整備された高橋尚子ロード。奥に見える橋が起点となる長良橋。 高橋尚子ロードにある靴と足型のモニュメント(岐阜市)2000年4月28日 - 鹿児島県徳之島の周回道路が「尚子ロード」と名付けられる。 2001年6月3日 - 岐阜県岐阜市長良川右岸に、ランニングコース「高橋尚子ロード」完成。 シドニー五輪女子マラソン優勝後のインタビューでは、満面の笑顔を交えながら「すごく楽しい、42キロでした」と語っていた。 シドニー五輪後、Qちゃん金メダル効果で、800万人といわれた日本のランナーの人口が1000万人を超えたといわれている。 愛称の「Qちゃん」は、リクルート陸上部の新入部員歓迎会においてアルミホイルを使ったボディコン風の衣装を着て『オバケのQ太郎』の歌を歌い盛り上がったことに由来するものである。また、このパーティーの際に、オバケのQ太郎の仮装をしていたという話もある。 ベルリンマラソンなどで海外でも有名になった頃に海外メディアに『スシ・ターボ』なる奇妙な愛称を付けられたこともあった。 2003年にタイトープレイステーション2 マラソン育成シュミレーションゲーム小出義雄監修 「高橋尚子のマラソンしようよ!」が発売される。 母のはとこにノーベル化学賞を受賞した白川英樹がいる。 元モーニング娘。の吉澤ひとみとは「遠い親戚」とされるがあまりにも遠いため特に関係はない。 吉澤ひとみの祖父の弟の妻の弟の妻のいとこの娘が高橋尚子である。 2006年11月1日母校、大阪学院大学の特任教授に就任した。 書籍 本人著書 風になった日「幻冬舎」=文庫本 夢は叶う「幻冬舎」 主な関連書籍 君ならできる (小出義雄著「幻冬舎」) 高橋尚子 金メダルへの絆 (小出義雄著「日本文芸社」) Qちゃん金メダルをありがとう (小出義雄著「扶桑社」) 努力の天才ー高橋尚子の基礎トレーニング (山内武著「出版芸術社」) 駆け引きー高橋尚子とリディア・シモン (黒井克行著「新潮社」) 高橋尚子 失われた夏 (黒井克行著「新潮社」) 高橋尚子 夢はきっとかなう (黒井克行著「学習研究社」) 激走!高橋尚子シドニーを駆け抜けた青春 (増田明美「早稲田出版」) 食べて、走って、金メダル (金子ひろみ著「マガジンハウス」) 高橋尚子 夢に乗って走る (増島みどり著「講談社」) 高橋尚子物語 (本郷陽二著「汐文社」) 高橋尚子 走る、かがやく、風になる (早野美智代著「旺文社」) 受賞 国民栄誉賞 銀杯一組(菊紋) 2000年度JOCスポーツ賞最優秀賞 その他、各種受賞多数 関連項目 hitomi(練習中に聞いていた「LOVE 2000」を歌う) 平山あや(小出の原作をドラマ化した「君ならできる」で高橋を演じる) 和田一浩(プロ野球選手、岐阜県立岐阜商業高等学校時代の同期) 白川英樹 佐倉市(元在住) 千葉市(現在住) 脚注 ^ 高橋尚子引退 日刊スポーツ 2008年10月28日閲覧 外部リンク 日本オリンピック委員会 - 高橋尚子 選手名鑑(日本陸連) 1984: ジョーン・ベノイト • 1988: ロザ・モタ • 1992: ワレンティナ・エゴロワ • 1996: ファツマ・ロバ • 2000: 高橋尚子 • 2004: 野口みずき • 2008: コンスタンティナ・トメスク