罪無くして惨めに惨殺された我が子を抱くピエタ(悲しみの聖母)に重なるある母の肖像。死にし子の名は小林多喜二。
本書は文庫本で220頁、全編、88歳の小林セキの、故郷秋田訛りの語りという形を取っている。

いつも明るく働き者だったセキは、生家の向かいの駐在所の駐在さんに優しくしてもらったことを覚えており、おまわりさんは優しいものだとずっと思っていた、というのが最初のエピソード。
13歳で小林末松に嫁ぎ、3男3女を生み育てた。貧しくても互いに愛と信頼を失わない明るい家族だったようだ。
優秀な長男は学校に行くため小樽の叔父に預けられたが、ほどなく12歳で病死してしまい、残った家族も全員小樽に移り住むことになった。
次男であった多喜二は、ちょっと剽軽なムードメーカーだったようだ。貧しさの中、みな必死で働き、物語のトーンは意外なほど明るい。

「母さん、おれはね、みんなが公平に、仲よく暮らせる世の中を夢みて働いているんだ。小説ば書いてるんだ。ストライキの手伝いしてるんだ。恥ずかしいことは何一つしてないからね。結婚するまでは、タミちゃんにだって決して手ば出さんし……だから、おれのすることを信じてくれ」
「多喜二のすること信用しないで、誰のすること信用するべ」

伯父の影響でキリスト教にも親しんでいた多喜二。
多喜二は高等商業を卒業して拓殖銀行に勤め、初月給で弟の三吾に中古のバイオリンを買ってやった。ようやく安定した生活ができるというところで、夫末松は病死。
望まれて嫁いだ先で借りた指輪を無くし、必死で探した妹チマは、子どもこそできなかったが夫とは円満だった。

昼は銀行員、夜は小説を書く多喜二は、親から小料理屋に売られていたタミという女性に出会い、友人からも借金して身受けしたが、手を出さず自立を応援する。いつか一緒にさせてやりたいと願う母。

小説を書いたことで警察に引っ張られ、やがて入行5年ほどで銀行は首になる。
「蟹工船」が売れ、東京に出た多喜二は、監獄に入ったり、警察に追われる毎日になる。
息子の入獄で、手紙を書くため、字を覚えようとする母。

昭和7年、母も上京したが、家を出ると何日も帰らない息子、訪ねてくる刑事。
そして、昭和8年2月20日、30歳だった多喜二は、逮捕されたその日のうちに特高警察の拷問で虐殺され、しかも解剖を引き受ける医者はなく、死因は心臓麻痺とされ闇に葬られる。

神も仏もあるものか、と思ったセキだが、後年、息子の命日「多喜二祭」に娘チマの通う教会の近藤牧師が訪れたことからキリスト教にも理解を示した。
「この小さき者になしたるは、すなわしち我になしたるなり」
洗礼を受けることこそなかったが、晩年、讃美歌「山路越えて」を口ずさみ、葬儀は本人の依頼で近藤牧師がおこなったという。

多くの読者は共産党員ではないだろうし、キリスト教徒でもないだろう。また右翼でもないだろう。貧しい地域の出身でもないかもしれない。しかし、誰かの母であったり、母の子ではあるだろう。
それならこの事件は、けっして他人事ではない。

1992(平成4)年書き下ろし。
1994年の「銃口」同様、あの時代と社会を二度と繰り返すまいとの祈りをこめて書かれた作品。

銃口 上
銃口 下

 

母 (角川文庫) 母 (角川文庫)
 
Amazon

 

 

 

組曲虐殺 組曲虐殺
 
Amazon