亀甲紋のブログ

亀甲紋のブログ

出雲国総社(六所神社)神官が、知られざる出雲の歴史・伝承や所蔵品等を公開しています。

 

お祝い令和6年元旦床掛は、事訳あって、コレにしましたニコニコベル

 (事訳については、改めてアップしようと思います。)

 

江戸後期の国学者本居大平が、

文政13年元旦に前大納言君の御肩衣を賜りいただきて

と題して詠んだ和歌です。ベル

 

あら玉の 春のはじめの けふしまれ

君のみけし(御衣)を かづく(被く)かしこさ

年月日 三のはじめの 時にあひて

あふひ(葵)のみつ葉 かづきつるかも

身にあまる 吉事なりけり

御かた衣

かたじけなくも たまふ初春

 

※「前大納言」…本居大平は紀州徳川家に仕え、侍講などを務めていることから、

        紀州徳川家第10代藩主で、官位が従一位大納言であった

        徳川治寶(はるとみ)でしょう。

※「みけし」(御衣)…貴人を敬って、その衣服をいう語。おめしもの。

※「かづく」(被く)…褒美として衣服を頂く、頂いた衣服を左肩にかける

※「あふひ」(葵)の三つ葉…紀州三つ葵紋

 

本居大平は、13歳の時に本居宣長の門に入り、寛政11年(179944歳で宣長の養子になっています。

この和歌が詠まれた文政13年(1830)は、大平晩年74才の時。

 

紀州と国学の関係はよく知られていますが、

杵築(出雲)大社と国学の関係については、今日に至っては残念ながら「知る人ぞ知る」になってしまった様ですね。しょぼん  

 

皆様に知って頂きたいと思い、再度ご紹介します。ラブレター

 

その礎を築いたのは、出雲国造家千家俊信(としざね)です。

彼が開いた家塾「梅廼舎(うめのや)塾」は他国からの入門者も多く、中国地方における国学の先進地になりました。門人録には220人の名があるそうです。

 

千家俊信が本居宣長の門に入ったのは寛政4年(1792)で、

宣長とは師弟を越えて心の通い合う関係にあったと云います。
寛政89年(1796、1797)の往復書簡も現存している様です。

 ⇒ 本居宣長記念館HP リンク

 

そして、その俊信が寛政9年(1797)に校合した『訂正出雲国風土記』の序末には「文化三年 紀之殿人本居三四右衞門平大平」とあり、

千家俊信と本居大平の関係を示しています。

 ⇒ こちら で公開されています。目

 

俊信が校合した寛政9年(1797)には、彼が尊敬した宣長はまだ生存していましたが、出版した文化3年(1806)には、残念ながら宣長は既にこの世になく、宣長の死から5年経った、俊信43歳、大平51歳の時でした。しょぼん

 

彼の遺した功績は大きく、今でも出雲に生き続けて居ます。ロケット