夢見る人の応援ブログ

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夢の実現を目指す老若男女に贈るメッセージ。起業、アーティストメジャーデビュー、就活等ジャンルを問わずあなたの夢の実現を応援します。

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誰でも失敗や困難に直面するときがある。


 受験の失敗だったり、

 事業の失敗だったり、

 失業だったり、

 離婚だったり、

 経済的危機だったり、

 家族との死別だったり。





辛く悲しい人生の分岐点に立たされ、今後どのように進むかを迫られる。

前に進むか停滞するか、それとも後退してしまうのか。

そんな時、前向きに考えられる人は少ないだろうし、

多くは人生に不公平を感じながら失望し嘆くかも知れない

人生には良いこともあれば悪いこともある。

でも、喜ばしいことばかり続くことはないし、まして悲しみばかり続くこともない。

そうだとすれば、

つらい経験は人生が与えた試練であると思えばいい。

過去の出来事に胸が痛むなら、

強がらずにその痛みをしっかり受け止め、

思う存分悲しみ、自分を慰め心を癒せばいい。

迷わず前に進むことができるはずだ。

受験の失敗、結婚の失敗、事業の失敗、仕事の失敗等、

特に失敗という経験をした場合、多くは心の痛みを伴う。

自分の意図することと違った結果になれば、

自己否定さえもしかねない。

しかし、失敗を自己否定と考えてはいけない。

人生がすべてダメになったわけではないのだから。

失敗を恐れたら、これ以上前には進めない。

成功者と呼ばれる人の多くは、

過去に失敗を経験したり大きな困難に直面してきた人達だ。

失敗したくなければ、行動を起こさず、静かにしていればいい。

戯曲家のバーナード・ショーは、

「失敗の多い人生は賞賛に値する。何もしなかった人生に比べてはるかに意味がある」

と言っている。

失敗を恐れず、自分の思いを行動に移し、

負のサイクルから抜け出す勇気を持ち、
チャレンジしよう。

行動は感情をも変えてくれるものだ。
















人生の転機から多くの学び、

自らを成長させる人生のターニングポイントと位置づけることができれば、

将来の豊かな自分を形成する大きな一歩になる。


私はいつもこんな風に考えています。

自分への教訓として グー

良かったらあなたも。



前進あるのみ アップアップメラメラ





人生、ドキドキ、ワクワクしてますか?



情熱って、とっても心地よい言葉です。



夢を追いかけてる人は、絶対に情熱がありますよね。


情熱がないと、途中で挫折したり、自分にはやっぱりできない、なんて思ったりしますね。


本当はもっとできるのに。



周りから、


  「そんな学力じゃ受かりっこないよ」


  「そんな経験じゃ成功するわけないよ」

  「もっと才能のある人なんていっぱいいるよ」


  「彼女はおまえに吊り合わないよ」


なんて言われて、


 失望感を感じ、



 孤独感を感じ、



 自信を失って、


夢を諦めてしまう人も大勢います。


でも、夢が実現するか失敗するかなんて誰にもわからないこと。



将来や未来の結果を見れる人なんか、この世に存在しないです。





少なくとも、そういう人に会ったことがありません。




夢って、実現するか実現しないかがはっきりわからないから、夢でしょう。


夢をけなす人は自分が失敗して立ち直れなかったり、


自信をなくした心がネガティブな人が多いですよ。


そんな人達にけなされたりしたって関係ないですよ。




夢や情熱を持ち続けて行動すれば、成功は近づいて来ます。



もし、夢や情熱を失いかけたら、そういう人たちには近づかないで、


同じような夢を持ってる人や情熱的な人の側に行くことです。


情熱って、いろんな人に感染するらしいです。


ほら、また情熱がメラメラと蘇ってくるでしょう。


それでもダメなら、もっともっと情熱的な人の傍に行って見ましょう。




失敗を恐れたら何にもできないし、現状のままですよ。


もっともっと自分を高めたいから、夢や情熱を持つんでしょう。



リスクを背負いたくない、現状のままで十分と思っている人より、


人生をチャレンジしていくあなたの方がはるかに魅力的です。



私は夢や情熱を持つ人をいっぱい応援します。


自分にも夢や情熱があるからです。


いっぱい、いろんな人を応援していると、自分も元気になってくるんです。


だから、みなさんも夢を持つ人を応援してください


自分の夢の実現のためにも。





ちなみに、タイトルの「じょ~~ね~つ♪、じょ~~ね~つ♪」ですが、


斉藤由貴の「情熱」のワンフレーズです。


自然と口ずさんでしまったので・・・




今日は、39回目の広島原爆投下の日。


8月のうだるような暑さの中、広島に原爆が投下された。


人類史上、稀に見る殺戮兵器である原子爆弾。


戦争という暴力を肯定するのは、

決まって愛国心というならず者の逃げ口上だ。


人類は過去に何度も悲惨な戦争を経験してきた。


多くの犠牲を伴いながら、自己肯定に基づいた、

強引な言い訳で名もなき罪のない人間をどれほど殺せば気が済むのか。


混乱の中で、人は自制心を失い誤った集団化へと暴走する。


宗教問題、領地問題、人種の対立、人はどこまで憎しみあえば気が済むのか。


ユダヤ人大虐殺、南京大虐殺、原爆投下はどれも真実だ。


誰も目を背けてはならないし、

過去の失敗を繰り返さないために、

過ちを認めることが大切だ。


戦後ドイツ連邦議会での、

ヴァイツゼッカー大統領の「荒れ野の40年」という演説があった。


その昔、この書籍を読んで深い感銘を受けた。

久しぶりに書棚から取り出し再読したが、何度読んでも感銘を受ける。





以下はその演説の中の抜粋だ。


我々は、戦いと暴力支配とのなかで斃れた人々を悲しみのうちに思い浮かべる。

ことに強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人・・・ソ連・ポーランドの無数の死者・・・命を失った同胞・・・虐殺された・・・シンティ・ロマ(ジプシー)、精神病者・・・銃殺された人質・・・ドイツに占領されたすべての国の抵抗運動の犠牲者を。


罪の有無、老幼いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばならない。

全員が過去からの帰結に関わりあっており、過去に対する責任を負わされて

いるのである。

過去に目を閉ざすものは結局のところ現在にも盲目となる。

非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険にも陥りやすいのだ。
 

若い人たちにお願いしたい。
他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。


民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。


自由を尊重しよう。


平和のために尽力しよう。


公正をよりどころにしよう。


正義については内面の規範に従おう。




平和ボケした、今の私たちにはとても新鮮な響きのある言葉だ。


世界中の人々が、このような意識を持って現在を見つめる機会が必要なのではないだろうか。


過去の過ちを決して忘れることなく、


そして、その過ちを認めることこそ前を向いて歩けると信じたい。


心に刻もう。


世界の国々が、二度と過ちを繰り返さないために。



今朝、テレビを見ていて、「イラっ」ときたので一言。


電車内で、子どもが立ってたら、あなただったら席を譲りますか?

そんなテーマでした。


答えはだいたい分かってるから、結果を見る前に席を立とうとしたら、


驚愕の結果が!


なんと、約8割の人が「席を譲る」そうだ。



インタビューの質問に対する答えは、


「立ってるとうるさそうだから」

「孫がいるので・・・」


「かわいそうな気がする」


「もみくちゃにされてかわいそう」


新聞や外部データではほとんど逆の結果なので驚いたのですが、

でも、面白おかしくのテレビだなあと思ってしまいました。



駅で整列して、席を探して座りますよね。


席があるので座るのは当然ですが、


皆さん、マナーを守ってるから良いですよ。



でも、子どもにルールが通用しないことはしばしば。


親子連れが乗ってると、こんなことが良くあります。


「座りたいよ~」

「疲れた~」


と駄々をこねる子ども。


こんなことを言われると、座ってるこっちが不機嫌になります。


そして、問題は、それを静止しない親。


そう、問題は世間的常識を身につけていない、子ども以下の親です。


席を譲る人もいるわけですから、譲ってもらう子どももいるわけです。


「ありがとうございます」と丁寧にお礼の言葉を言う親御さんがいます。


返答が違うでしょ。


「すみません、ありがとうございます。でも結構です。子どもは元気ですから」


もちろん、わがままを言ったら、先にたしなめるのが親の務めでしょ。


席を譲らなければならない人たちはもっと別にいるはずです。







どうして、子どもに席を譲らなければならないのか、

論証するほうが難しいです。


皆さんが、幼稚園、小学生のころ、


「あ~、つかれた・・・」なんて経験ありますか?


私にはそういう記憶はありません。


田舎だったので、山や川を走り回っていた経験しかありません。


疲れるのは、夕方まで遊びに遊んだ遊び疲れくらいです。



実は昨年まで、小学校の4、5、6年の少年サッカークラブの監督とコーチを6年程していました。


自分や身内には甘いのですが、他人には厳しいという、

嫌な性格ののコーチでした。


練習は楽しく厳しく、試合は全力を出し切り、勝利に向けて力いっぱいプレーさせることが、基本の教え方でした。


私は体育会系では絶対ないのですが、規律を大事にしました。


それは、小学生だろうが一緒です。


練習が小学校のグランドなのですが、やる気のない態度や練習そっちのけで遊んでいる子ども、必ずいるんです。


恒例のお叱りタイムです。


まず、対象の子どもを呼びつけ、どうして呼びつけられたかを質問します。


当然、子どもは理解しているわけです。


そして、申し訳なさそうな顔をします。


先生だったら、静かに諭すかもしれないし、脇に呼んで話しかけるかも知れません。


残念ながら、私の場合は違います。


「おーい、●●、ちょっと来い」 と大きな声で呼びつけます。


すると、自然と他の子供たちの練習のプレーが止まります。


そして、全員を呼びつけ整列させ、呼びつけた子どもに大きな声で理由を話させます。


大事なのは、目を見て話させることです。


呼びつけた理由は簡単です。


「みんなが上手くなりたいと一生懸命練習しているのに、

君は何をしているの。

ここはお友達が集まってわいわい騒ぐ場じゃないよ。

君が遊んでいたり、やる気のない態度はみんなに悪影響を与える。

君はここにいる何十人の一人と思ってるかもしれないけど、

一人でもそんな気持ちでいるとチームはバラバラになってしまう。

それほど、君も重要なんだ。

遊び気分なら、家に帰ってゲームでもしてなさい」


と、腕をつかんでコートの外に出します。


組織の一員であることの自分の責任を教えます。



でも、これで家に帰った子はいません。


こんなことは日常茶飯事の光景なのですが、幸か不幸か、


まだ、保護者にも訴えられたことはありません。


※言い訳ですが、教え方は楽しさが80%、厳しさ20%ですグッド!



ちょっと、話が飛びましたが、


少年サーカーには月の土日に数回遠征試合があります。


移動は電車です。


子どもたちは旅行気分で、楽しそうです。


初めての遠征試合で電車に乗ったとき、

空いている席に子ども達が進んで座ろうとしました。


「えっ、何で座るの?」と思い、

席に着いた子どもを立たせ、車内での着席は禁止しました。

試合に臨もうとする意識が低く、立って電車に乗れないような子ども達は試合に出せません。意識も低く、体力もないと思っているなら辞めるべきです。


「大きな声で話さない」


「全員で固まらず、数グループに分かれて車内に空間を空けること」


これって、常識でしょ。



子どものわがままを聞いていては、将来、この子が苦労します。


大丈夫です。


30分や1時間立っていたって、子どもはへっちゃらです。


席を譲って良いのは、


お年寄り

乳幼児を抱えた母親


怪我の療養中と思われる人

いかにも具合悪そうな人


自殺しそうな人


でしょう。



子どもを甘やかす愚かな親になるのは辞めましょう。


子どもを溺愛することはOKです。


でも、親バカのあなたも子どもも、


将来、後悔することになりますよ、きっと。



夜眠れずにネットをググっていたら、


ますます眠れなくなった話題をひとつ。





この問題の答えわかりますか?



次の割り算の答えは、

何のだんの九九を使ってもとめればよいですか。


(1) 21÷7


(2) 56÷8

























答えは出ましたか。



(1)の問題を3の段と答えた方いましたか。


3の段と7の段と答えた方はいますか。


答え 7の段です。


(2)の問題を7の段と答えた方はいましたか。


8の段もOKと答えた人は。


答え 8の段です。




これは小学校3年の算数の問題です。



(1)の問題を中心に考えると、


多くの生徒が、3の段という答えに落ち着くという推測によるものでしょう。



3の段と答える理由には、


7×○=21


21を7の段で割っているので、


3の段を掛ければ答えの21が導き出される。


よって、3の段が正解。






しかし、この問題を小学校3年生の子供たちに理解させるには、


残念ながらこの文章は不親切すぎるように感じる。



でも、しっかりと読めば7の段が答えとすぐに解かる。



この問題の本質はかける数かけられる数を理解させる問題のようだ。


覚えていますか?




普通に問題文を読み解けば、


次の割り算の答え ⇒何の段の九九を使って ⇒求めるか?




ここでは、答えがという結果は何処にも出てきていないのに、


3だという答えの推論が結果を誤らせる。



答えが3になるこの式で導き出される九九の段は7の段しかない。


7×1、 7×2、 7×3


つまり、7つの集合体が3つあるわけだ。


7 × □ = 21


かける数がどうというより、問題の本質を理解させる問いの問題文にもっと気遣いが欲しい。




この問題はどうだろうか?



長いすが6つあります。 1つのいすに7人ずつすわると、

みんなで何人すわれますか?


しき


答え






















答え 7人ずつ × 6つ分  42人




この生徒は、答え5点。式は0点のようだ。



これも、かける数とかけられる数の問題だろうが、


先生はしっかりと、式の誤りを生徒たちに教えているのだろうか。


それがないと、算数嫌いになりそうだ。



私が教師だったら、式にも5点あげたいな~。



そして、大人である私はこう考えてしまう。



この問題の本質的な意図と設計はどのようになされ、


それが子どもたちにも理解されているのか?


これは単なるひっかけ問題か?


つい、そんな風に勘ぐってしまう。


この問題の問題は答えが出てしまっていると言うこと。



そのため、子供たちだって当たり前すぎる答えを疑ってしまう。


これは、思考力や論理性を求める問題ではなく、


単に間違いを引き出そうとする引っ掛け問題の域を出ないのではないか。


そう思ってしまう。





繰り返しになるが、


そもそも教育の目的というのは、


物事の本質を分かりやすく教え、


そして、様々な問題提起をし、


その解決法を導き出させる手伝いをすることだと思う。




残念ながら、今回の問題を読み解くには、


あまりに文章が陳腐すぎて、


問題の本質を理解させようとする発想に無理があるように思う




この問題の目的は知識と理解のようだが、


数学的な論理的思考力を試そうとするのか、


問題文を読み解く力を試そうとするのかを、


ハッキリしないと、子ども達が可哀想だ





こういう問題は、


学生を一人でも多く落とすことを使命とするような受験で出題してもらいたい。




子供たちの将来設計を担う、初等、中等教育の現場が、


逆に、学問や算数嫌いとなる問題を作成して一体どうするのか?



国語力も高めながら、数学的思考力や論理力を試したいなら、




問い


「次の割り算の答えを求める為には、何の段の九九を使って求めますか」

という問題が出ました。



21÷7



先生のヒントは3の段ではないということでした。



どうして3の段では間違いなのか、説明してください。



いろんな興味深い答えが返ってくるはずだ。


小学生って、とても大人では発想できない考えや見方を持っている。


そういう個性を大事に育て上げることこそ重要だと思うが。



そして、間違った結果にたどり着かないように、


問題文の意図をしっかりと教え、答えさせる必要があるはずだ。




教育者の使命は、


人生や学問に対して、


間違いを起こさないで人生を送ることを教えるものではない。



学びという場の中で、


困難な命題を読み解く力を教え伝えていくことだ。



そして、


教育者は「なぜ?」という質問に、答え続けていくことだ。



それこそが、教育という現場に携わる人の使命ではないかと思うのだが?


そのためには、今の教育は画一化しすぎていて個性がない。


欧米では個性を持つことが普通だが、日本では集団化が普通だ。




教育者は、単に間違いを指摘するだけでなく、


なぜ、間違ったのかを具体的に分からせる必要がある。



これは?


どこが、間違いだか分かりますか?







もう少し、の点が左よりだとOKだそうです。


とすると、このPCのワープロ文字、×です。



×なんて誰でも簡単につけることはできるけれど、


をつけるという行為はなかなか難しいものだ。



非難や批判はそんなに難しくはないが、


人を褒めるということにはなかなかできないもの。

でも、子どもたちの将来を考えたら、


できるだけ個性を尊重して、


を選択したい。















親は子供に対して、ついつい甘やかしすぎる。


そして、「もの」を買い与えて子供たちにご機嫌をとる。


何のために?


それが「愛情」というもの・・・。




子どもたちの物質的欲求を満たすこと、それが本当の愛情?


「子どもに認められたいから」


「いつも遊んであげられないから」


「自分が子どものころ親から十分な愛情を得られなかったから」


いろんな理由がある。


でも、子どもに何かを買ってあげても、親の埋め合わせにもならないし、


子供の満足感なんて長続きなんかしない。



人は多くを与えれば与えるほど、多くを期待し、ありがたみは薄れるもの。


概して、甘やかされて育った子供は大人になると、自己中心的になり、


愚痴っぽく、わがままに育ちそうだ。むっ



ある心理学者は、


「甘やかされて育った子どもは、


将来、浪費や借金に悩まされ、金銭的に独立できない、無責任な大人に育つ


可能性が高い」と云う。



確かに言われてみれば・・・自分のことか叫びガーン




それでは、子どもを甘やかさずに育てる方法はあるのだろうか。



親は、子どもにお金のことをあまり話さないのではないだろうか。


特に、日本ではお金に対する嫌悪感がどこかにあり、躊躇するように思う。


子どもたちがお金に執着するようになって欲しくないという思いもあるだろう。



でも現実はどうだろうか。


家ではどうだろうか。



「ともだちの●●さん、家を買ったんだって。それに比べて・・・」


「●●さん、ボーナスすごい出たんですって。それに比べて・・・」


「●●さん高級なバック買ったみたい。それに比べて・・・」



比較ネガティブ思考って感じですよね。


特に、女性の人って多くないですか、家でこんなこと言う人。


※女性の方すみません(・_・;)




子どもたちは、そんな会話を聞きながら大きくなる。


子どもだってそんな会話から、金銭感覚が身についていく。



金銭格差だけで、人を評価したり、価値観を図っていたら、


子どもだってそれに気づく。



そして、モノの欲求は心の痛みや欲望を和らげるものと、


子どもに伝えてしまいかねない。



「子どもは、親の日頃の振る舞いを観察することで、お金に対する姿勢を学ぶ」



店に連れて行ったら、


子どもがものを欲しがって、


予算よりはるかにオーバーなおもちゃが欲しいとせがまれた親も多いでしょう。


「はいはい、わかりました」と買ってあげたら天井知らずの買い物になっていく。



こういう、甘やかされた子どもに育てたくないなら、答えは簡単。



「No!」と言うことだ。



もちろん、夫婦一緒なら、答えは一致が原則。


特に、お父さんはご注意を!


「それくらい買ってやれよ」なんて言って、


怒られた経験があるお父さん、多いのでは。



しかし、子どもは大げさに泣き喚くに違いない。



でも、こんなわがままに負けては駄目だ。



自分たち家族のお金に対する価値観や現実についてしっかり話すことだ。



もし、あなたが、


「モノには愛ほどの価値はない」と思っているのなら、


その思いを子どもと共有し、


お金より大事だと思うものについて話して、それを共有するのもいい。



もちろん、お金を否定する必要はないし、


生きていく上でとても重要なものであることは理解させる。



でも、その使い方で人は立派な人間にも駄目な人間にもなることを教えたい。




カラオケに行くと、自戒の念をこめて、必ず歌う歌がある。


長渕剛の「RUN」だ。



『金 カネ カネ とカネ追いかけたら


           一夜にして 幸せが すりぬけた』♪



こんな人生だけは送りたくない。





親の子に対する愛は「無償の愛」とも言われています。


それはさまざまな形に現れるけれど、


どんな時もやさしく見守っていてくれる、


それが子を思う親の愛情。





就活に落ち続ける娘の姿を通して、母の愛を描いたCM。





しかし、突如このCMが打ち切りになりテレビから姿を消しました。


ネット上でCMに対しての批判的な書込みが原因のようです。


「まさかの展開。これは辛すぎるでしょ。心暖まるとこもあるけど、どちらかというと辛すぎる。

東京ガスのお涙頂戴CMなのはわかるけど、やりすぎた感がある。」

「アカン。女の子かわいそう過ぎる。自分も就活苦労してる最中だから、

自分のことのように感じてしまう。就活生の心理を悪用している気が・・・」


こんな気持ちで、厳しい世の中渡って行けるんだろうか?


でも、感動したというコメントもいっぱいありました。


「これは泣いた。自分も就活で辛かった時にお母さんが優しく励ましてくれたのを思い出した。

内定出た時に自分よりもお母さんが泣いてたのを見たときは、感謝の気持ちでいっぱいだった。」

「俺も、まだまだ頑張れる!仕事で辛い時あるけど、何も言わずに支えてくれる母親や嫁に感謝しなきゃ。残業ばっかりで家帰る時は嫁も子供も寝てて、一緒にご飯食べれてないけど、たまには家族団らんでご飯食べたくなった(笑)
就活生も社会人も辛いこと多いけど、みんな、まだまだここからやれる!



悲しいときや心が折れたとき、いつも見守ってくれる親がいるから頑張れる。


それが親子の愛情というものではないのかな。



この女子大生の就活はきっと成功したと思うよ。


だって、こんなに頑張り屋さんで、


あんなにやさしいお母さんがいるんだから。



人は感動する生き物だから、強くもなれる。



親子の愛を綴ったタイのCMはどれも心を打つけれど、


日常のせわしさの中で、


ふと忘れてしまう本当に大切なことを教えてくれる。

親子の関係って、いつもはこんな関係だけど、


必要なときにいてくれる、それが親というもの。






人生のゴールはきっとある。


そして、そのゴールとは誰かを幸せにすること。












夢を叶えるために、

私たちはつい大きなことを考えてしまう。

思うこと、目指すことは自由だけど、


叶えることが難しそうだったら、


もう少し、小さなことから始めても良いと思う。


  世界一の会社をつくる



  世界中が認めるアーティストになる



  ベストセラー作家になる



  世界中の貧しい子どもたちを救う


でも、


  小さい会社だって大きくすることができる



  いい曲だねって、恋人に認めてもらってもいい



  最初は自分の書きたいものを書く



  身近な親切からはじめたって遅くない



夢を叶えるために、多少、回り道したって良いと思う。


小さな積み重ねが、いずれ


大きな山となって、あるいは大海となっていくことを信じたい。


人に何を言われてもいい、自分を信じて前に進もう。



でも、どんなに有名になっても優しさという気持ちを忘れてはだめだ。



自分を見失わないために、ちいさなことやささいなことに眼を向ける。



きっと、あなたを見ている人がいる。





いつもこんな気持ちでいたい。




  壁に落書きをする少年たち



  それを見ている少年



  学校で小さなこどもが突き飛ばされる場面を目撃



  どうするか



  そして、突き飛ばされた少年に手を差し伸べる



  落書きされた壁を消しに行こう



  ここからストーリーが始まる





  日常で接する、ほんのささいな出来事



  知らないふりをすることは簡単なこと



  でも、ほんの小さなことでも自分にできることはある



  あの人に優しくしてもらったから、あの人に優しくしよう



  でも、優しさや親切は誰に返したっていいはず



  誰かがした行動に共感したら



  自分を変えて行動を起こそう



 ちいさなことから始めよう



人を引きつけるということは、何かしら自分に魅力があるのだろうか?


容姿


意見


感情


それは、紛れもなく「共感」という感情だ。


あなたに心を揺さぶられる思いを共に感じること。




音楽の世界で「共感」によって「夢を叶えた」アーティストを紹介したい。


「X-Factor」という歌手のプロデビューをプロ審査員が評価し応援する番組が外国にある。

予選から優勝までは何回も審査をクリアしなければならない。


有名すぎる動画だが、その「奇跡の歌声」を。




あまりに歌が楽曲と完璧にかみ合うため、審査員が口パクではないか?と疑い、

アカペラで歌わせる。

戸惑いを隠せない本人と観客。

結局、その美しい歌声に、審査員も「すばらしい」の声しかなかった。

観客はすでに彼女に共感し感動を共有している。


彼女のファイナルステージだ。




すでに、スター性がどうのこうのではなく、ただただ聞き入るしかない。


彼女、アイーダ・ニコライチュークは当然のようにその後も審査を勝ち抜き、見事優勝。

歌手としてデビューし、その美声は今でも変わらない。



これも、X-Factorと同種の人気アーティスト発掘番組「Britain's Got Talent」 からの、友情と信頼の歌声だ。




登場した二人に向けられるのは、嘲笑だ。審査員からも笑いが。

しかし、それを跳ね除ける大きな二人の友情と信頼。もちろん、驚かせるほどの歌声とすばらしいデュオ。もう誰も二人を嘲笑したりしないし、共に感動し祝福している。

残念ながら、準優勝に終わったが、彼らの美しい歌声と友情に、多くの人々が共感した。

その後、このデュオには多数のメディアからオファーが殺到した。



日本でもかつて、「スター誕生」という番組があり、数々の有名歌手を送り出したが、山口百恵もその一人だ。また「いかすバンド天国」というアマチュアバンドのプロ登竜門番組、ヤマハの「ポピュラー音楽コンテスト」、通称「ポプコン」という、プロデビューのための音楽審査番組があった。


残念ながら、今はこういう才能あるアーティストを発掘する番組が無くなってしまった。


現在、プロの業界人が売り込みのための企画作りをし、

大衆を操作することによって売りのマーケット戦略を模索している。


しかし、世の中に埋もれている、本当に才能豊かな逸材を発掘できているかは大いに疑問だ。

ほとんど密室状態で、アーティストの才能を見極め、マーケットを把握することなどできないし、まして自分の業界での経験実績など通用しない時代なのだ。


本当に必要なのは「市場がセレクトした馴染みやすさとファンの数」だ。


大衆の意識を読み取れなければ、世の中の多くの才能が埋没し地下に埋もれてしまう。




昨日、映画「セント・オブ・ウーマン / 夢の香り」を久しぶりに見て感動!


全盲の退役軍人と心優しいエリート苦学生との、


年齢差を越えた友情を描き出した感動作だ。


何度見ても、つい生きる意味を考えてしまう。


生きるということは、人との関わり


それは、人に与え、分かち合い、優しくあること


共に感じあえたら、生きていることはすばらしい



タイのこのストーリーは、そのことを教えてくれる。





夢を持って生きることはすばらしい


たとえ困難な道でも、前に進む


それが、生きていることの証



ゴルゴ松本の秀逸な講義がそのことを教えてくれる