『斉藤 御本尊には、まさに釈尊をはじめ、あらゆる仏が本尊とした根源の妙法が、御図顕されているのですね。
名誉会長 以前にも確認したが、釈尊が成道の時に詠(よ)んだ詩があります。それによれば、釈尊は根源の妙法の太陽が自身の生命に赫々(かっかく)と輝き自身と一体であることを覚知(かくち)して、仏となったのだね。
森中 はい。たとえば、こう謳(うた)っています。
「実にダンマが、熱心に瞑想しつつある修行者に顕(あら)わになるとき、かれは悪魔の軍隊を粉砕して、安立(あんりゅう)している。あたかも太陽が虚空(こくう)を輝かすがごとくである」(玉城康四郎著、『仏教の根底にあるもの』、講談社)
名誉会長 また、この悟りの境地を確立する直前には、縁起の法を知り、迷いの縁起の消滅を知って、一切の疑惑が消滅したとされる。
そして、この一連のことが「法」(ダルマ、ダンマ)の顕現によって起こったとされています。根源の妙法の顕現です。
斉藤 迷いの縁起の消滅と根源の妙法の顕現には、密接なつながりがあると言えますね。「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」という釈尊の言葉があります。
名誉会長 迷いの縁起とは、心に突き刺さった「一本の矢」に譬えられる、根底の欲望、小我の保存欲によって引き起こされる生死の流転です。根源の迷いである「無明」からの縁起であり、「煩悩、業、苦の三道(さんどう)」であり、六道輪廻(よくどうりんね)です。
根源の迷いから、種々の煩悩を引き起こし、種々の悪業を積んで、苦悩の境涯をめぐる。そういう流転を根源から断ち切って、還(かえ)ってすべて滅し去っていくことが、迷いの縁起の消滅です。そのカギが、根源の妙法へ立ち返ることなのです。
根源の妙法とは、「無明」に対していえば、「法性(ほっしょう)」、すなわち根源の悟りです。
「煩悩、業、苦の三道」という生死流転の縁起に対するのは、「法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳(さんとく)」という成仏の道です。
根源の法(法身)に目覚め、智慧(般若)を発揮し、苦悩からの根源的解放(解脱)を得る。そして、無始以来の久遠の生死の流転をついにとどめて、常楽我浄(じょうらくがじょう)の仏の境地へ至るのです。
森中 「一生成仏抄」には、生死の流転を止めるには「衆生本有(しゅじょうほんぬ)の妙理」(383㌻)を観ずべきであり、それは妙法蓮華経と唱えることにほかならないと仰せです。
斉藤 「始聞仏乗義(しもんじょうぎ)」には「我等(われら)衆生無始曠劫(こうごう)より己来(このかた)此の三道を具足(ぐそく)し今法華経に値(あ)つて三道即三徳となるなり」(983㌻)と仰せです。
同抄では、『大智度論(だいちどろん)』の「変毒為薬(へんどくいやく)」の譬を引かれて、煩悩・業・苦の三道に沈む私たちが妙法を信受することによって法身・般若・解脱の三徳をこの身のままで得て成仏できると述べられています。
名誉会長 根源の法を信じれば、己心に妙法が現れ、自身の境涯が根底から変革するのです。迷いの縁起が消滅し、妙法が自身の生命を潤し、さらに環境へと横溢(おういつ)していくのです。世界が根本から変わるのです。これが、御本尊の功徳の根本です。
森中 虚空会で妙法の光明にてらされる十界の衆生は、どのような苦悩に陥っている衆生も、御本尊の功徳で、妙法の当体としての自身を表し、救われることを表している、と拝することができますね』
(御書の世界 人間主義の宗教を語る 【第2巻】 池田大作 聖教新聞社)より
『御本尊には、まさに釈尊をはじめ、あらゆる仏が本尊とした根源の妙法が、御図顕されている』
わずかとか、ある一部の、というのではなく、釈尊をはじめ、あらゆる仏が本尊とした根源の妙法ということです。
『根源の迷いから、種々の煩悩を引き起こし、種々の悪業を積んで、苦悩の境涯をめぐる』
根源の迷い、すなわち、無明ということ。この「無明」をいかにして断ち切っていくか。
やはり、南無妙法蓮華経のお題目、唱題でしか断ち切ることはできない。唱題しかないです。
根源の法、すなわち、南無妙法蓮華経を信じ、唱題に励めば、どうして迷いの縁起も消滅されないことがありましょうか。
わかっているようで、いざという時には、唱題よりも先に、策に走り、行動に移してしまう。
このおかしな流れこそを変えていきたいと思います。
自分が変われば、一切は必ず変わる。
確信を持って進んでいきたいものです。