• 17 Aug
    • 第1回 ⑧「開目」——大聖人に目を開け 民衆に目を開け

       『万人の仏性を開く「開目の連帯」    結論して言えば、「開目抄」を拝することは、日蓮大聖人を末法の成仏の「手本」とし、成仏の道を確立した「末法の教主」として正しく拝することにほかならない。また、文底(もんてい)の民衆仏法の眼(まなこ)から拝せば、「開目抄」を拝することは、「人間への信頼」に立つことであると言えます。  そう拝した時、「開目抄」を真に正しく拝読した者がいずこにいるのか。あらためて、恩師・戸田先生の慧眼(けいがん)が光を放つと言えるでしょう。講義の第1回を結ぶにあたって、恩師・戸田先生の次の一節を紹介しておきたい。  「私が大聖人の御書を拝読したてまつるにさいしては、大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏(みほとけ)の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈なる大衆救護(たいしゅうくご)のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである。  私の胸には御書を拝読するたびに、真夏の昼の太陽のごとき赫々(かっかく)たるお心がつきさされてくるのである。熱鉄(ねってつ)の巨大なる鉄丸(てつがん)が胸いっぱいに押しつめられた感じであり、ときには、熱湯のふき上がる思いをなし、大瀑布(だいばくふ)が地をもゆるがして、自分の身の上にふりそそがれる思いもするのである」(「謹んで開目抄の一節を拝したてまつる」『戸田城聖全集』第3巻)  この戸田先生の拝読の御精神こそが、創価学会の御書拝読の永遠の指針であると確信する。御書を拝することは、民衆救済の大慈悲と哲理に触れることであり、日蓮大聖人の広宣流布の御精神に浴することに通じます。  私たちも、地涌の勇者として、全人類の無明の目を開き、万人の仏性を開く「開目の連帯」を築いていきたい。今、世界中で、日蓮大聖人の人間主義の仏法を待望しています。私たちの平和と文化と教育の大運動を見つめています』   (「開目抄講義」 池田大作 聖教新聞社)より          「開目抄」を拝することは、「人間への信頼」に立つことである――と。  何でもそうかもしれませんが、人も、一生懸命に努力し、苦難を乗り越えるごとにモノの見方や、考え捉え方等もより深まるもののように思います。  ここで言われる、「人間への信頼」というのも、ある意味、そういうこともあるのかなと、思います。  私自身、子供の時から現在に至るまで、面倒なことから逃げてきてしまったので鍛えられることもなく、人間としてかなり薄っぺらな自分になってしまいました。  なので、自分自身が自分に対して「信頼」が薄い。  そうなると、どうしても人に対しても「信頼」が薄くなってしまうように感じました。  「信頼」しているようで、なにかあると信じ切れずに、相手を断ってしまう自分に気が付いたからです。そうではない人もいらっしゃるかもしれませんが、私的には、そう感じました。  これを踏まえて思うことは、「人間への信頼」に立つにしても、先ずは、自身の確立が大事になってくるのかな、ということです。  しかし、自身の確立を待っていたのでは、どうしようもない。  なので、自身の確立を目指しながら、「人間への信頼」に立つ挑戦を同時に進めていくことが、結局は、実践での学びになるし、鍛えにもなる。それが、今の私にできる事なのかなと、思いました。  また、教学を学ぶにつけ、『大聖人様のおことばの語句をわかろうとするよりは、御仏(みほとけ)の偉大なるご慈悲、偉大なる確信、熱烈なる大衆救護(たいしゅうくご)のご精神、ひたぶるな広宣流布への尊厳なる意気にふれんことをねがうものである』とありますように、拙い感性ながらも、精一杯、心のアンテナを立て、受け止めていける自分を築き上げながら、戸田先生の拝読の御精神に一歩でも近づけるよう、開目抄を拝し、先生の講義から学んでいきたいと思います。  『結論して言えば、「開目抄」を拝することは、日蓮大聖人を末法の成仏の「手本」とし、成仏の道を確立した「末法の教主」として正しく拝することにほかならない』――と、仰せですから。    なかなか、本文までたどり着けなかったけど、これで、やっと、次から本文に入ることができます。  どうなることやら(笑い)。               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 16 Aug
    • 第1回 ⑦「開目」——大聖人に目を開け 民衆に目を開け

       根底は民衆への慈悲と信頼    題名の「開目」の意義は、以上のように重層的に拝することができますが、「大聖人に目を開け」ということが基調になっているといえます。そして、その根底には、さらに民衆への慈悲と信頼がある。それは「民衆に目を開け」と、表現できるものです。  大聖人の仏法は「師弟不二の仏法」です。大聖人は御自身が身をもって確立した末代凡夫の即身成仏(そくしんじょうぶつ)の道を、弟子たちにも勧められています。  「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕(ちょうせき)教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつた(拙)なき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」(御書234㌻)  ここでは、無疑曰信(むぎわっしん)〈注26〉・不惜身命(ふしゃくしんみょう)の「信」を同じくすることをもって、大聖人と弟子たちとの師弟不二の道とされています。この「信」には、「疑い」を退けていることから明らかなように、生命にひそむ魔性や外からの悪縁となる障魔との闘争が含まれていることは言うまでもありません。  そして、大聖人の戦いに連なっていけば「成仏」の果(か)も間違いないと保証されております。いかなる人も、因行(いんぎょう)・果徳(かとく)ともに大聖人と不二になれるからです。  このことは、本抄に一貫して拝することができる「大聖人に目を開け」という呼びかけが、実は人間・民衆への深い信頼の上に成り立っていることを意味しているのです。  そこで私は、本抄の「開目」の意義として「大聖人に目を開け」の呼びかけとともに、「人間に目を開け」 「民衆に目を開け」との熱い呼びかけがあることを明言しておきたいと思います。   語句解説 〈注26〉【無疑曰信(むぎわっしん)】 心に疑いのない状態を信という、との意。『法華文句(ほっけもんぐ)』第10上の文(もん)で「疑い無きを信と曰(い)う」と読み下す。   (「開目抄講義」 池田大作 聖教新聞社)より          「開目抄」の「開目」の意義は、「大聖人に目を開け」ということが基調。  しかし、その根底は、民衆への慈悲と信頼が。  人間・民衆への深い信頼の上に成り立っている。  「人間に目を開け」 「民衆に目を開け」――と。  『第1回 ① 「開目」』に、「閉ざされた心の目を、どう開いていくのか。無明(むみょう)の闇を、いかなる光明で照らしていくのか。その解決の道を開かれたのが、末法の御本仏・日蓮大聖人であられます」とありました。  さらに、『第1回 ② 「開目」』では、「日蓮大聖人は、言語に絶する逆境のなかで、どうすれば全人類を仏にすることができるかを思索され、「開目抄」「観心本尊抄(かんじんのほんぞんうしょう」を認められ、その方途を明確に築かれた」  と、ありましたし、『言語に絶する逆境のなかで』、濁世末法を生きる、未来の民衆のために、書き残してくださったんです。早く、本抄を学びたいです。(笑い)。  実は、何回か、先の方も読んでみましたが、とても難しそうで、こんな私でも大丈夫なのかな。正直、ちょっと、いや、かなり不安になります(汗)。  ともあれ、大聖人の仏法は「師弟不二の仏法」。  無疑曰信・不惜身命の「信」をおなじくして師弟不二の道。  大聖人との共戦によって、因行・果徳ともに大聖人と不二、ゆえに「成仏」の果を保証されています。  大聖人が自身の身をもって確立した末代凡夫の即身成仏の道です。そして、この道を勧められている。大聖人が仰る通りにやればいいだけのことなのに、頭で分かったとしても、なかなか、そうはいかないこともあります。  なんでだろうと考えると、結局は、題目なんですよね。  いつも、同じようなところで迷走するけど、自身の生命に潜む魔性はもとより、外からの悪縁となる障魔等にも打ち勝っていかなければならないからです。  題目を唱えて、自身の生命を磨き、そして、鍛えていく以外ない。  御書に、こうあるではないか。  『一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり』(御書384㌻)  只南無妙法蓮華経と唱へていくだけなのに、つい、怠け心に負けてしまうけど、転んでは起き、また転んでは起きして、また、三日坊主で持続が出来なくても、それを何度も繰り返し挑戦して、誰にどう言われようとも、信心を諦めずにしがみついていくんだ。  勉強、教学は駄目だったとしても、大聖人の御精神、御心を少しでも自身の生命に刻み込むことができたらな、と思います。  ともあれ、学んだことを実践できなければ意味を成しませんね。  私にとって有り難いのは、やっぱり頭が良くないことかもしれません。もし、教学がバリバリだとしたら、私の性格なら、「慢」に陥ることは間違いなく、人を見下して嫌な奴になっているかもしれませんし、それこそ、それがゆえに退転するかもしれません。  とは言っても、なんとか人並みには、理解、納得できるような自分になりたいです。                 ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 14 Aug
    • 第1回 ⑥「開目」——大聖人に目を開け 民衆に目を開け

       『忍難・慈悲に目を開け    関連して、御文をもう一つ拝したい。  「されば日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台・伝教〈注25〉には千万が一分(いちぶん)も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書202㌻)  多くの同志の心に刻まれているこの御文もまた、「大聖人に目を開け」と呼びかけている御文であると拝することができます。  ここで大聖人は法華経の智解(ちげ)については天台等よりも劣ると御謙遜(ごけんそん)されているが、先に述べたように、末法の一切衆生の成仏を実現する要法(ようほう)を把握されるという最高の智慧を本抄では示されている。  しかし、この要法は衆生一人ひとりの一念において十界互具(じっかいごぐ)・仏界涌現(ぶっかいゆげん)を実現するための究極の法であり、説明することはもとより難しいが、衆生一人ひとりに弘め、実現していくことは、さらに困難なのです。  それは前人未到の戦いであり、時代は悪世、法は難信の要法、そして弘める人の姿は凡夫であるゆえに、大難は必定なのです。そこで、大聖人は、相次ぐ大難に耐えられながら、仏界の生命を凡夫の我が身に開き顕していかれた。その大聖人の生き方・実践を手本として提示し、万人に弘めていく方途を確立されたのです。  その戦いを貫き、完遂された原動力は「誓願」です。そして、そのさらなる根底には一切衆生への大慈悲があられた。  この大慈悲こそ、私たちが大聖人を「末法の御本仏」と拝するゆえんなのです。  大聖人御自身も、末法の一人ひとりの人間を根底から救う折伏の戦いの本質は慈悲であるとして「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり」(御書237㌻)と仰せられています。これは「開目抄」の結論であり、「大聖人の慈悲に目を開け」との呼びかけであると拝することができます。  戸田先生は、「開目抄」の御文を引きながら、万人の成仏、全人類の境涯変革こそが「如来事(にょらいじ)」(如来の仕事)であるとして、その実践を同志に呼びかけられています。  「全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります。  大聖人が開目抄に、『日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし』(御書202㌻)と仰せられた深意(じんい)は、一切衆生をして仏の境涯をえさせようと、一生をかけられた大聖人のご心中であります。  これこそ面前に見た『如来の事』であります。学会のみなさまよ、われわれも『如来の事』を行わなくてはなりませぬ。しからば、いかにして全人類に仏の境涯を把持(はじ)いたさせましょうか」(『戸田城聖全集』 第1巻)  大聖人は万人の成仏、全人類の境涯変革を目指し、法体(ほったい)の確立・流布のために忍難・慈悲の力を現されました。学会は、この大聖人の精神を受けて、牧口初代会長の時代より、大聖人の仏法を現実変革の法として受け止め、民衆救済の戦いに邁進してきたのです。   語句解説 〈注25〉【天台(てんだい)・伝教(でんきょう)】 中国・隋代(ずいだい)に『法華玄義(ほっけげんぎ)』 『法華文句(ほっけもんぐ)』 『摩訶止観(まかしかん)』等を講述(こうじゅつ)して南三北七(なんさんほくしち)の諸宗を破折し、法華経を宣揚した天台大師智顗(てんだいだいしちぎ)と、日本の平安時代初期に南都六宗(なんとろくしゅう)を破折し、法華経を宣揚した伝教大師最澄(でんきょうだいしさいちょう)』   (「開目抄講義」 池田大作 聖教新聞社)より          「されば日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台・伝教には千万が一分(いちぶん)も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書202㌻)    『したがって、法華経を理解する日蓮の知恵は、天台や伝教の1000万分の1にも及ばないけれども、難を忍び慈悲がすぐれていることには、だれもが恐れさえ抱くであろう』(「開目抄講義」 池田大作 聖教新聞社)    つまり、『法華経に対する智解の深さは、仮に、天台・伝教のほうが勝っているとしても、「忍難」と「慈悲」においては、はるかに大聖人が勝っているとの仰せです』(「開目抄講義」 池田大作 聖教新聞社)    もしかしたら、まったく関係なく、ピントがずれているのかもしれませんが、『大聖人御自身も、末法の一人ひとりの人間を根底から救う折伏の戦いの本質は慈悲であるとして「日蓮は日本国の諸人にしう(主)し(師)父母(親)なり」(御書237㌻)と仰せられています』、そして、これを拝して、戸田先生が言われるように、『全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする』『如来の事』は、法を信ずる心と、また、民衆一人ひとりの無限なる可能性を信ずる「心」からなっているのだと思います。  この、法と、今はまだ、唯一無二の法を知らぬがゆえの不幸の輪廻を脱却できないでいる無知の民衆一人ひとりの、本来、無限なる可能性を信ずるがゆえの慈悲、なのかな、と思いました。  とは言っても、日本国中から憎まれることって、私は、とても、耐えきれないことです。命さえも危うい状況の立場にあります。  いわば、私にとっては、意味のわからない怨嫉と感じてしまうからです。  『難を忍び慈悲がすぐれていることには、だれもが恐れさえ抱くであろう』と、大聖人が言われるように、、その通りです。  だからこそ、『私たちが大聖人を「末法の御本仏」と拝するゆえん』なんですね。  『戸田先生は、「開目抄」の御文を引きながら、万人の成仏、全人類の境涯変革こそが「如来事(にょらいじ)」(如来の仕事)であるとして、その実践を同志に呼びかけられています。  「全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります。  大聖人が開目抄に、『日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし』(御書202㌻)と仰せられた深意(じんい)は、一切衆生をして仏の境涯をえさせようと、一生をかけられた大聖人のご心中であります。  これこそ面前に見た『如来の事』であります。学会のみなさまよ、われわれも『如来の事』を行わなくてはなりませぬ。しからば、いかにして全人類に仏の境涯を把持(はじ)いたさせましょうか」(『戸田城聖全集』 第1巻)  大聖人は万人の成仏、全人類の境涯変革を目指し、法体(ほったい)の確立・流布のために忍難・慈悲の力を現されました。学会は、この大聖人の精神を受けて、牧口初代会長の時代より、大聖人の仏法を現実変革の法として受け止め、民衆救済の戦いに邁進してきたのです』  この戸田先生の御言葉、精神を、改めて魂で拝して、私たちが受け継いで、後継へとバトンを渡していかなければなりませんね。               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 12 Aug
    • ボクが思うこと

      ボクのなかにもあることだけど   人をおびやかすことのない世界です。   小さなこともあるかもしれませんが、とにかく、嫌です!               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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    • 迷惑

      めいわく【迷惑】   迷い戸惑うこと。 迷とは事理に暗いこと。 惑とは是非を取り違えること。 方便権教の邪法に執着し、経教の勝劣、正邪を判別できないこと。真実を明らかにできない愚痴の凡夫の迷い。   「御書」立正安国論(20㌻)」   (仏教哲学大辞典 第三版 創価学会)より         学ぶことは楽しいです\(^o^)/               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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    • 大丈夫だよ\(^o^)/

            激励のコメントありがとうございます。 私は、大丈夫です。   それよりも、   極悪と戦えば極善となる   への、持続の応援をよろしくお願いします。 m(__)m           ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 09 Aug
    • 学会を支えてくださっているのは誰か

       『「学会を支えてくださっているのは誰か。表舞台に立つ人よりも、陰で黙々と頑張ってくださっている方々です。その人こそが仏であり、真の勝利者です。まさに皆さんです。皆さんあっての学会であり、広宣流布です」  目を腫らしながら、一言一言に大きく頷く同志たちに、伸一は深い親愛の情を覚えながら、力強く呼びかけていった。  「皆さんは、さまざまな悩み、苦しみと、日々格闘しながら、希望に燃えて折伏・弘教に奔走されている。ここに真実の人間の輝きがあり、これこそが地涌の菩薩の姿です。再び新しい決意で、私と共に前進しましょう!」  「はい!」という決意の声が響いた。』   (2017年7月13日 聖教新聞 新・人間革命 雄飛)より          学会員の一人ひとりが、学会を支え合っている。  『表舞台に立つ人よりも、陰で黙々と頑張ってくださっている方々です』  たとえば、ネットという世界であっても、、、ではないでしょうか。  ネットなんか! と言われながらも、悪戦苦闘は強いられます。  見てください。今のネット状況を。  同志でさえも、軽々しく同志誹謗満載ですよ。    ともあれ、大事中の大事な学会を。  その中に、私も入っているのだろうかは微妙ですが(たくさん失敗もしてきたけど、なんとか入れてほしい 汗)。  私が言うのもなんですが、これからも、永遠に、何が起ころうとも、私たち一人ひとりが、学会を支えていくことでもって、師のこの御心に報いていきたいと思うものでありす。      先生 : 再び新しい決意で、私と共に前進しましょう!    私 : ァィ(。・Д・)ゞ ぐわんばるもん!                     ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 06 Aug
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて (完)

       池田先生は、高山に入る前から、一人で歩くことすらままならないほどだったようです。  先生は、体調がすぐれなくても、いつも、会員を思って、一生懸命に尽くしてくださいます。そして、振る舞いを示してくださいます。  では、私自身は、どうかといえば、たった今の私は、それに叶ったことは、何一つできてはいない、もしくは、学会員らしくない、まだまだ未熟な、どうしようもない自分だと思います。  だからこそ、先生の、私たち会員を思う御心に、自身の成長でもって報いていきたいと思うのです。  なかなか、思うように学んだことも身に付かず、学会の足を引っ張るばかりの私ではありますけど、学会員の皆さまには、ご迷惑をおかけするばっかりの私ではありますけれども、一生懸命に精進してまいりますので、今後ともよろしくお願いいたします。    今回、高山の研修会に参加させていただき、「新・人間革命」12巻の愛郷の章を研鑽させていただくことができました。  そのなかで、高山の歴史を、江戸時代から学ぶことができました。  私たちがいつも学んでいる、大聖人の時代(1222年~1282年)は、鎌倉時代の只中です。  その、約500年後の、江戸時代の明和8年(1771年)から、寛政元年(1789年)にかけて、明和、安永、天明と、悪政を糾弾する三回の騒動、総称して「大原騒動」といわれるようですが、村の人々の、悲惨な状況からの悪戦苦闘。  権力者たちと、生死をかけて交渉する人々、残された家族や村の人々の思い。  胸が締め付けられる思いで読んでいました。  働いても 働いても、食べていくことすらままならないなんて、どれほど、日々が不安だったことか。  代官の、「うそは世の宝」の言葉は、まさに、村人を下に見下した「見本」のようです。  しかし、その村人の生死をかけた必死の努力の先に、転機はおとづれました。  ともあれ、そういう歴史的背景から、高山の人々の命に刻まれたことは、「互いに結束を固め、自分たちの身は自分たちで守り合うこと」でしたが、それがかえって、住民の閉鎖性となり、旧習の根深さともなったようです。  身を守るための知恵が、今度は、未来には、妨げになる――。  なんか、難しいけど、より善くしていくためには、時に即して変えていかなくてはならないことってありますね。  そんな、飛騨地方に初めて妙法の火がともったのは、1958年(昭和33年)。  閉鎖性をもつ旧習深い地域での弘教は、これまで仲良く生活を営んできた人たちと、思想の違いから、相手の理解が深まるまでは、壮絶な仕打ちを受けることになるわけですが、もし、私が、ここでいわれる、学会員の立場だとしたら、本来、「幸せになれる」と信じてはじめた信仰を、今度、それを弘め始めた瞬間から、地域の人たちとの人間関係がごちゃごちゃして、村八分にされたり、水道を止められたり、親から勘当されたりすれば、耐えられることができるだろうかと、ふと、そんなことをよぎりました。  そういうなかで、信心を貫き、題目根本に、自身の実生活に努力を積み重ねていかれるのです。  なかなか結果も顕せない苦闘の歳月もあるようで、今の私もそうで、ああ、やはり、なんでもかんでも、そうそう「つっとぱっとぴっ!」とは、いかない。そういうもんなんだな、と思いました。  それよりも、結果も大事だけれども、悪戦苦闘の日々、つまりは、どんな状況にあっても、夢や、希望を失わないで、力強く、前を見据えて、たとえ1ミリでも、前進していくことの大切さに気が付きました。  「愛郷 43~44」のなかでの先生の指導が私の心に強く刺さりました。    『一国(いっこく)の歴史を見ても、さまざまなことがある。個人の一生のうちにも、いろいろなことがあるでしょう。幾多の苦難にも遭遇するでしょう。それが人生であり、生きるということです。だから信心をしたからといって、悩みや苦しみがなくなるということではありません。  要は、その苦難に負けずに、悠々と乗り越えていけるのかどうかです。それによって、人生の勝敗も、幸・不幸も決まってしまう。  人間としての偉大さや強さと、社会的な地位や立場とは、別問題です。どんなに大変な状況や最悪な事態になっても、挫けることなく、希望をもち、勇気をもって前進できる人こそが、真の勇者です』    と、ありました。  今もまだ、生活も「ぱっ」としないけれど、苦難に負けずに、悠々と乗り越えて、どんなに大変な状況や最悪な事態になっても、挫けることなく、希望をもち、勇気をもって前進できる人になれるよに、日々の一瞬一瞬が、私を鍛えてくれる! との思いで、この先の人生を、生きていきたいと強く思いました。  そして、そのためには、持続の信心です。不退転の信心です。    『そして、いかなる苦難に直面しようが、いかに宿命の嵐が吹き荒れようが、それらを全部、打開し、転換していく力の源泉が信仰なんです。また、そのための御本尊なんです。  したがって何があろうが、生涯、御本尊を持ち続け、学会から離れず、粘り強い信心を貫き通していってください。そうすれば、必ず功徳の花が咲きます。何ものにも負けぬ自己をつくり上げ、崩れざる幸福を築くことができます。  御書には『人の心かたければ神のまほり必ずつよし』(一二二〇㌻)とあります。信心の心が強ければ強いほど、諸天善神(しょてんぜんじん)の守りも強くなるんです。  御本尊には、無限の仏力(ぶつりき)、法力(ほうりき)が具わっています。その大功徳(だいくどく)を引き出していくのが、大聖人の仰(おおせ)せ通りの信心と実践、つまり、信力(しんりき)、行力(ぎょうりき)なんです。  ところが、唱題に励んでいても、『こんなに大きな願いは、叶いっこないだろう』などと、御本尊の力を疑っている人が、よくおります。だめだと思いながら祈っているんですから、これでは願いが叶うわけがありません。皆さんだって、『どうせ、あなたに頼んでもむだでしょうが、力を貸してください』なんて言われたら、絶対に協力するものかと、思ってしまうでしょう。  ですから、御本尊への純粋にして強き信の一念が、また、感謝の祈りが、功徳を引き出していく要諦になるんです。御本尊の偉大な功徳力からすれば、皆さんの願いなど、まだまだ、小さなものです。  どうか、もっともっと強い信心に立って、もっともっと大きな功徳を受けてください。今度、私が来る時は、女性はすばらしい着物を着て、男性は超高級の背広を着て、ピカピカの新車に乗って、『こんなに幸せになれました』と言って、駆けつけていただきたい』    ここに、 大聖人の仰(おおせ)せ通りの信心と実践、つまり、信力(しんりき)、行力(ぎょうりき)と、言われているように、日々、瞬間瞬間をこの基本で生きていきます。  「愛郷 45」では、丸山圭子さん(当時10歳)の少女のお話になっていきますが、私は、子どもの心の自由さと、それを制する大人の心の窮屈さみたいなものを、ある意味において、「愛郷 39」での、歴史的背景から、高山の人々の命に刻まれたことは、「互いに結束を固め、自分たちの身は自分たちで守り合うこと」でしたが、それがかえって、住民の閉鎖性となり、旧習の根深さともなった。身を守るための知恵が、今度は、未来には、妨げになることと、少しかぶって感じました。  よく、先生の指導の中には、形式主義、官僚主義ではいけない、といった内容の趣旨のものが多くありますが、それと真逆を走っているのが、大人だったり、また、組織だったりするように思います。  先生は、どこまでも、自由にしてあげたいのだと思います。  大聖人もそうでしたし、当然、仏法も、そう訴えています。  と、話が大きく反れてしまいましたが、ともあれ、圭子さんは、両親の言うことに背いたわけですが、そのおかげで、念願の先生との出会いを果たすことができ、先生からの激励を受け、彼女の人生のドラマは大きく転換されていきました。  「自分に負けないで、生涯、広布の道に邁進してほしいと思った。皆のために、黙々と、謙虚に、誠実に働き、誰からも信頼されるリーダーに育ってほしかった。  信頼こそが、地域広布を推進(すいしん)する力となるからである」  「皆さんの手で、必ず飛騨に、『幸福の花園』を、『人間共和の故郷』を築いていってください。これだけの同志が本気になって立ち上がれば、絶対にできます。断言しておきます」  ここでは、「飛騨」と、言われていますが、私たちの生活するそれぞれの地域として捉えています。  こうして、高山の同志は、奮い立ち、地域広布に邁進し、地元愛でもって、地元を盛り立ててこられ、今の高山があるわけです。  並々ならぬ努力の結晶です。  それは、信心したら努力をしなくても叶うのではなくて、信心してるからこそ、より一層の努力を惜しまず、必ず成し遂げる! との強き一念と執念と努力の上に咲く花ということだと思いました。    私は、とにかく、厄介な人間ですので、自業自得で散々な目に遭いますが、また、人様にも、ご迷惑をおかけしながらの日々ですが、この信心で、宿命転換し、人間革命しゆく人生にしていきたいと思います。  また、研修会は、地方の同志の方との出会いの場でもあります。  次行くときは、私の方からどんどん声をかけて、楽しい今生人界の思い出をつくっていきたいな、と思いました。               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 05 Aug
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 8

      愛郷 四十八 『束の間の出会いであったが、山本伸一の励ましは、丸山圭子という一少女の幼い胸に、使命の光を注いだ。 彼女は、山本会長の期待を感じ、“頑張ろう。勉強にも挑戦しよう”と、心に誓いながら、家路を急いだ。 それから十一年後の、一九七八年(昭和五十三年)七月、圭子は、名古屋の中部文化会館で行われた中部の記念の幹部会で、再び、伸一の激励を受けることになる。 伸一は、この時、地元の幹部から、高山訪問の折に励ました少女が、高山の女子部本部長として、幹部会に集って来るという報告を聞いた。 彼は、飛騨の地に植えた種子が、花開いたような喜びを覚えた。 そして、すぐに句を認(したた)め、会合の席上、担当の幹部から、手渡してもらうことにしたのである。  あな嬉し 花の広布の 君が舞  幹部会で名前を呼ばれ、壇上(だんじょう)に立った圭子に、伸一は懐かしそうに語りかけた。 「高山に行った時には、あなたは小学校の五年生だったね。よく覚えているよ。私はこれからも、ずっと見守っていきます」 伸一は、彼女の成長と幸福を、心から願った。自分に負けないで、生涯、広布の道に邁進してほしいと思った。皆のために、黙々と、謙虚に、誠実に働き、誰からも信頼されるリーダーに育ってほしかった。 信頼こそが、地域広布を推進(すいしん)する力となるからである。  高山会館で伸一は、魂をとどめる思いで、メンバーに声をかけながら、指導を重ねていった。 冷房のない、人でぎっしりと埋まった部屋は、窓を開け放ってはいても、蒸し風呂のようであった。同志を激励し続ける伸一の体は、びっしょりと汗に濡れ、何度か、軽いめまいを覚えた。 だが、彼は、力を振り絞るように、皆に語りかけた。 「皆さんの手で、必ず飛騨に、『幸福の花園』を、『人間共和の故郷』を築いていってください。これだけの同志が本気になって立ち上がれば、絶対にできます。断言しておきます」』愛郷 四十九 『最後に、山本伸一は、こう語って話を結んだ。 「私は、皆さんのことは、永遠に忘れません。飛騨には、なかなか来ることはできませんが、皆さんのご健康とご長寿を、また、ご一家と飛騨の地域の繁栄を祈っております。お題目を送り続けます。お元気で!」 伸一が高山会館を後にしたのは、午後二時過ぎであった。 空には、夏の太陽が燃え、うだるような暑さであったが、メンバーは、シャワーを浴びたような爽快さを感じていた。 涼風(りょうふう)が生気を蘇らせるように、伸一との出会いが、新しい活力を呼び覚ましたのである。 ところで、飛騨は、このころから観光の名所として人気を集め、飛躍的な発展の軌跡を描いていくことになる。 行政も本格的に観光に力を注ぎ始め、この年には、高山市の観光用の映画も作られた。さらに翌年には、高山地区が中部圏都市開発区域(ちゅうぶけんとしかいはつくいき)の指定を受け、国の補助が出され、道路整備など、開発が進められることになった。 そして、江戸時代の郡代(ぐんだい)・代官所(だいかんしょ)の高山陣屋(たかやまじんや)をはじめ、数々の文化遺産(いさん)をもつ高山市や、合掌造(がっしょうづく)りで知られる白川郷(しらかわごう)などが、“心のふるさと”として、脚光を浴びるようになっていった。また、何よりも、飛騨地方の風光明媚(ふうこうめいび)な大自然が、多くの人びとを魅了していったのである。 高山市を見ても、伸一が訪問する前年の一九六六年(昭和四十一年)には、観光客は年間約十九万人にすぎなかったが、六八年(同四十三年)には二倍の約三十八万人に増加。七四年(同四十九年)には約二百万人となり、日本有数の観光地として人気を博していったのである。 こうした繁栄の陰には、地域の発展を祈り、わが使命としてきた、多くの同志の知恵と献身が光っている。 昔から村に受け継がれてきた伝統文化を復興させようと、塾を発足させた婦人もいる。村の旅館組合の組合長や連合町内会の会長、村の社会教育委員などとして、地域の振興に尽力してきた学会員も少なくない。』愛郷 五十 『やがて、飛騨の山河(さんが)には、功徳(くどく)の花々が咲き薫っていった。 総支部長だった土畑良蔵(つちはたよしぞう)も、後年、新たに始めた運送関係の仕事が軌道に乗り、生活も安定。後継者にも恵まれ、意気揚々(いきようよう)と、飛騨の広布に走り続けた。 旅館業で成功を収めた人もいる。家庭不和や病を乗り越えた人もいる。それぞれが見事な幸福の花園を築き上げていったのである。 村(町)おこしや地域の活性化は、どこでも切実な問題であるが、特に過疎(かそ)の村や山間(やまあい)の地などにとっては、存亡をかけた大テーマであろう。だが、住民が、その地に失望し、あきらめをいだいている限り、地域の繁栄はありえない。地域を活性化する源泉は、住民一人ひとりの愛郷(あいきょう)の心であり、自らが地域建設の主体者であるとの自覚にある。いわば、住民の心の活性化にこそ鍵がある。 大聖人は仰(おお)せである。 「今(いま)日蓮等(にちれんら)の類(たぐい)い南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)と唱(とな)え奉(たてまつ)る者の住処(じゅうしょ)は山谷曠野(さんごくこうや)皆(みな)寂光土(じゃっこうど)なり」(御書七八一㌻) いかなるところであろうが、私たちが信心に励むその場所が、仏のいる寂光土となる。 ゆえに創価の同志は、現実を離れて、彼方に理想や幸福を追い求めるのではなく、自分のいるその地こそ、本来、宝土(ほうど)であるとの信念に生き抜いてきた。 そして、いかなる逆境のなかでも、わが地域を誇(ほこ)らかな理想郷に変え、「幸福の旗」「勝利の旗」を打ち立てることを人生哲学とし、自己の使命としてきた。 地域の繁栄は、人びとの一念を転換し、心という土壌(どじょう)を耕(たがや)すことから始まる。そこに、強き郷土愛(きょうどあい)の根が育(はぐく)まれ、向上の樹木が繁茂(はんも)し、知恵の花が咲き、地域は美しき幸の沃野(よくや)となるからだ。また、そのための創価の運動なのである。』 (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より  『今、高山市内には、二〇〇二年(平成十四年)の完成をめざして、「二十一世紀研修道場」の建設が進んでいる。敷地内には、高山文化会館も誕生する。 それは、飛騨の新しき栄光の未来を築く、光源となるにちがいない。(この章終わり)』 (聖教新聞 「新・人間革命」 愛郷 五十 法悟空)より       ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡にほんブログ村

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  • 04 Aug
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 7

      愛郷 四十五  『会館の中にいたメンバーが退場すると、山本伸一は、縁側まで出て、外にいた人たちに、手招きして言った。  「どうぞ、中にお入りください」  「ワーッ」という歓声があがった。場内は、たちまち、新しい笑顔で埋まった。  伸一は、このメンバーとともに、二度目の勤行をした。  その伸一の後ろで、歓喜に頬(ほお)を紅潮(こうちょう)させて、懸命に唱題する、一人の子どもがいた。丸山圭子(まるやまけいこ)という、十歳になる少女であった。  彼女は、今、自分がここにいることが、夢のように思われた。  ――圭子は、物心ついた時から、信心に励む両親の唱題の声を聞きながら育った。  彼女が、自ら題目を唱えるようになったのは、“いじめ”を苦にしてのことであった。  赤ん坊の時に、棚の上から落ちてきた植木鉢が左手の中指にぶつかり、怪我をした。それがもとで指が不自由になったことから、幼稚園に入ると、“いじめ”にあったのである。周りの子どもたちから、好奇の目で見られ、日々、心ない言葉を浴びせられ続けた。仲間外れにもされた。圭子は、自分の左手が呪わしかった。  だんだん引っ込み思案になっていき、小学校では、授業中に発言することもなくなっていった。  そんな圭子を、両親は、こう言って励ました。  「人を差別したり、いじめたりする子は、心の貧しい子なのよ。しっかり、お題目を唱えなさい。そうすれば、そんなことで挫けない、強い子になれるわよ」  また、女子部の先輩も激励を重ねてくれた。  「山本先生は、学会っ子は“獅子の子”だって言われているのよ。“獅子の子”は、何があっても泣いたりしちゃいけないわ。圭子ちゃんも、絶対に負けないで頑張ってね」  その励ましが、圭子に希望を与えた。  彼女は真剣に祈った。すると、勇気がわいてくるのを感じた。もう泣くまいと思った。  唱題を続けるなかで、次第に明るさを取り戻していった。授業中も、進んで手をあげるようになった。』 愛郷 四十六  『丸山圭子にとって、左手の中指が不自由であることは、やがて、何も苦にならなくなった。  圭子は、女子部の先輩から、よく山本会長の話を聞かされた。  「山本先生は、社会の平和と人びとの幸福のために、世界を駆け巡っていらっしゃるのよ。  先生は、私にとって人生の師匠なのよ」  先輩から話を聞くうちに、圭子は、ぜひ、自分も山本会長に会いたいと思った。  「どうすれば、山本先生にお会いすることができるんですか」  「そうねー。祈りとして叶わざるはなしの御本尊なんだから、しっかりお題目を唱えれば、必ずお会いできるわよ」  以来、圭子は、山本先生とお会いできますようにと、真剣に唱題を始めたのである。  そして、数日前、支部長、支部婦人部長をしている両親の語らいから、八月の十五日に、山本会長が高山に来ることを知ったのである。  彼女の唱題は、ちょうど、百五十万遍になんなんとしていた。  「ねえ、私もその会合に行っていい?」  両親に尋ねると、母親が答えた。  「だめよ。この日は、子どもは参加できないことになっているの。あなたは、おうちで妹と留守番をしていてね」  十五日の当日、両親は朝から、会館に出かけていった。  圭子は、家で題目を唱えていると、どうしても山本会長に会いたくてたまらなくなった。  “一目だけでも、山本先生にお会いしたい。そうだ。会館に行く国道に立っていれば、先生の乗った車を見ることができるかもしれない。行ってみよう!”  彼女は家を出た。三十分ほどで、ようやく国道に着いた。もう少し、会館の近くに行ってみようと、国道を歩いていった。途中のグラウンドに、大勢の人が並んでいた。皆、学会員のようだ。  ここは、高山会館に行くメンバーの、待機場所になっていたのである。  圭子は、母親との約束を思い出し、両親に会わないように、木陰に身を潜めていた。ところが、整理役員の青年に見つかってしまった。  「あなたも、ちゃんと列に入って、並んでいてください」』 愛郷 四十七  『しばらくすると、待機していたメンバーは、高山会館に移動することになった。  丸山圭子は、留守番をしないで、ここに来てしまっただけに、気がとがめた。でも、皆が動き始めると、自分だけ列から抜け出し、家に帰るわけにはいかない気がして、一緒に歩いていった。両親に会ってしまうのではないかと思うと、胸がドキドキした。  会館に着くと、しばらく庭で待機したあと、入れ替えとなり、会場に誘導された。  彼女は後ろから押され、いつの間にか、最前列になっていた。  その目の前に、会いたいと祈り念じてきた山本会長の姿があったのだ。    伸一の真後ろで勤行をしながら、圭子は、信じられない気持ちだった。  “御本尊様はすごい!  願いが本当に叶ってしまった!”  唱題しながら、感激で胸がいっぱいになった。  伸一は、勤行が終わり、皆の方を振り向くと、最前列に、かしこまるようにして座っている圭子に声をかけた。  「私の横にいらっしゃい!」  ところが、圭子は、緊張して、その言葉も耳に入らなかった。  伸一に同行してきた清原かつが、圭子に向かって手招きした。それに気づいた彼女は、清原の方に歩み出て行った。  「あら、私の方じゃないわよ。山本先生が横にいらっしゃいと言ってくださっているのよ」  その声に、場内には、明るい笑いが広がった。  圭子が、ようやく伸一の横にやって来た。  「何年生?」  「五年生です」  「そうか。お父さん、お母さんを大切に。また、しっかり、勉強するんだよ」  伸一は、未来を担うのはこの子たちだと思うと、声をかけずにはいられなかったのである。彼は、記念として少女に何か贈りたいと思ったが、あいにく何も用意していなかった。  そこで、宝前に供えられていた、菓子を取ると圭子に渡した。  「さあ、お土産だよ」  圭子は、菓子をもらうと、嬉しさと恥ずかしさに顔を赤らめ、礼を言うのも忘れて、元の位置に戻った。』   (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 03 Aug
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 6

      愛郷 四十二  『土畑良蔵(つちはたよしぞう)の家に借金の取り立てに来る人は、座談会が開かれている時間を狙ってやって来た。この時ならば、逃げ隠れしないだろうと計算したようだ。座談会の最中に、土畑は、何度も座を外して、返済の延期を頼み込まなければならなかった。  経済苦の宿命は、容易には転換できなかった。  彼は、黙々と、懸命に働き続けた。譲(ゆず)り受けたトラックを使って、屑鉄(くずてつ)の運搬の仕事にも携(たずさ)わった。トラックといっても、左のドアが閉まらず、ドアをサイドブレーキに縄で縛りつけねばならないような、壊れかけた車である。  もちろん、スピードも出なかった。ある時、名神高速を走行中、「スピード違反」で捕まってしまった。時速五十キロメートル以上で走行しなければならないのに、三十五キロメートルで、のろのろ運転していたからだ。屑鉄を積むと、それしかスピードが出ないのである。  土畑は、そのオンボロ車で、意気軒昂(いきけんこう)に、飛騨の山道を駆け巡った。  そして、支部長、さらに総支部長として活躍するようになり、この一九六七年(昭和四十二年)八月十五日、山本会長を高山に迎えたのである。だが、まだ土畑は、苦境からは脱しきれず、必死に試行錯誤(しこうさくご)を繰り返していた時であった。    山本伸一(しんいち)は、飛騨の人びとが、長い間、いかに苦悩の辛酸をなめてきたかを、よく知っていた。また、飛騨の同志が、大変な環境のなかで、郷土(きょうど)の人びとの幸福を願い、いかに黙々と奮闘し続けてきたかも、よくわかっていた。  だからこそ、その同志を、生命の限り、励ましたかった。その胸中に、勇気と希望の火をともしたかった。  伸一は、飛騨の安穏と繁栄を祈り念じて、緑深き山々に題目を染み込ませる思いで、車中、懸命に唱題を重ねた。  彼が高山会館に到着したのは、午前十一時過ぎであった。会館は人で埋まり、路上にまで、メンバーがあふれていた。  伸一の姿を見ると、歓声があがった。  彼は、語りかけた。  「お世話になります。飛騨は、美しい、いいところだね。さあ、飛騨の夜明けを開きましょう!」』   愛郷 四十三  『やがて、厳粛(げんしゅく)に勤行(ごんぎょう)が始まった。  この部屋にはクーラーはなく、扇風機が回っていたが、会場を埋め尽くした参加者の熱気で、温度は急上昇し、うだるように暑かった。  伸一も体中に汗をかきながらの勤行であった。  勤行、同行の幹部らのあいさつなどのあと、伸一は、懇談的に話を進めた。  「遂に、念願の飛騨にやって来ました。皆さんとお会いできて、大変に嬉しい」  またしても歓声があがり、大きな拍手が鳴り響いた。  「ところで、今日、八月十五日は、あの悲惨な戦争にピリオドが打たれた、終戦の記念日です。日本は、その敗戦のなかから立ち上がり、今日の繁栄を築いてきた。  一国(いっこく)の歴史を見ても、さまざまなことがある。個人の一生のうちにも、いろいろなことがあるでしょう。幾多の苦難にも遭遇するでしょう。それが人生であり、生きるということです。だから信心をしたからといって、悩みや苦しみがなくなるということではありません。  要は、その苦難に負けずに、悠々と乗り越えていけるのかどうかです。それによって、人生の勝敗も、幸・不幸も決まってしまう。  人間としての偉大さや強さと、社会的な地位や立場とは、別問題です。どんなに大変な状況や最悪な事態になっても、挫けることなく、希望をもち、勇気をもって前進できる人こそが、真の勇者です。  そして、いかなる苦難に直面しようが、いかに宿命の嵐が吹き荒れようが、それらを全部、打開し、転換していく力の源泉が信仰なんです。また、そのための御本尊なんです。  したがって何があろうが、生涯、御本尊を持ち続け、学会から離れず、粘り強い信心を貫き通していってください。そうすれば、必ず功徳の花が咲きます。何ものにも負けぬ自己をつくり上げ、崩れざる幸福を築くことができます」  伸一の顔にも、参加者の顔にも、大粒の汗が光っていた。だが、メンバーは、暑さなど忘れたように、瞳を輝かせながら、真剣に伸一の話を聞いていた。』   愛郷 四十四  『伸一は、言葉をついだ。  「御書には『人の心かたければ神のまほり必ずつよし』(一二二〇㌻)とあります。信心の心が強ければ強いほど、諸天善神(しょてんぜんじん)の守りも強くなるんです。  御本尊には、無限の仏力(ぶつりき)、法力(ほうりき)が具わっています。その大功徳(だいくどく)を引き出していくのが、大聖人の仰(おおせ)せ通りの信心と実践、つまり、信力(しんりき)、行力(ぎょうりき)なんです。  ところが、唱題に励んでいても、『こんなに大きな願いは、叶いっこないだろう』などと、御本尊の力を疑っている人が、よくおります。だめだと思いながら祈っているんですから、これでは願いが叶うわけがありません。皆さんだって、『どうせ、あなたに頼んでもむだでしょうが、力を貸してください』なんて言われたら、絶対に協力するものかと、思ってしまうでしょう。  ですから、御本尊への純粋にして強き信の一念が、また、感謝の祈りが、功徳を引き出していく要諦になるんです。御本尊の偉大な功徳力からすれば、皆さんの願いなど、まだまだ、小さなものです。  どうか、もっともっと強い信心に立って、もっともっと大きな功徳を受けてください。今度、私が来る時は、女性はすばらしい着物を着て、男性は超高級の背広を着て、ピカピカの新車に乗って、『こんなに幸せになれました』と言って、駆けつけていただきたい」  このころ、飛騨のメンバーのなかで、車を持っている人は、極めて少なかったし、多くの会員が経済苦と戦っていた。だから、皆には、夢のような話に思えた。しかし、それが、希望の光源となっていったのだ。  伸一は、話が一段落すると、言った。  「今日は、外にもたくさん人があふれていますので、今、この部屋にいる方は、外に出て、入れ替わっていただきたいんですが、よろしいでしょうか」  皆が、笑顔で頷いた。  彼は、会場に入れないでいるメンバーのことが、ずっと気になっていたのだ。  「では、大変に申し訳ありませんが、静かに立ち上がってください」  伸一は、整理役員に早変わりした。』   (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 02 Aug
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 5

      愛郷 三十九  『近代になっても、飛騨地方の民衆は、貧苦(ひんく)を強いられてきた。  この地方の、多くの乙女たちが、野麦峠(のむぎとうげ)を越え、諏訪地方(すわちほう)などの製糸工場(せいしこうじょう)に働きに行き、過酷な労働条件のなかで“女工哀史(じょこうさいし)”を綴ったことはよく知られている。  飛騨に鉄道が通り、ようやく岐阜・富山間の全線が開通したのは、一九三四年(昭和九年)のことであった。  この山深い飛騨の地に住む人びとにとっては、互いに結束を固め、自分たちの身は自分たちで守り合うことが、生きるための知恵であった。しかし、それが閉鎖性となり、旧習の根深さともなっていた。  飛騨地方に初めて妙法の火がともったのは、五八年(同三十三年)のことである。  六〇年(同三十五年)には、飛騨地方初の地区として高山地区が誕生し、六四年(同三十九年)には、飛騨支部が結成されている。  だが、自分たちの伝統を守り抜こうとする意識が強い土地柄だけに、弘教を進めることは容易ではなかった。入会して、村八分にされ、水道を止められてしまった人もいれば、親から勘当された人もいた。  それでも、同志は負けなかった。  “飛騨の宿命を転換し、幸福の花咲く里にしていくのが、私たちの使命だ。だから、何があっても挫けるわけにはいかない!”  こう自らに言い聞かせながら、メンバーは、粘り強く、勇んで広宣流布の道に邁進してきたのである。  そして、山本伸一が高山を訪問する、六カ月前の六七年(同四十二年)の二月には、飛騨に念願の総支部が誕生したのだ。  総支部長を務める土畑良蔵(つちはたよしぞう)は、四十一歳の純朴(じゅんぼく)そうな、やや小柄の壮年であった。  土畑は飛騨の農家の生まれで、生後十カ月で父親を亡くしていた。以来、母親が懸命に四人の子どもを育てた。  幼心に、彼は思った。  “母ちゃんに少しでも楽をさせたい!”  母親の手助けをしようと、七歳になったころから、朝早く起きて、草刈りをした。慣れぬ野良仕事に、鎌(かま)で手に傷をつけることも、しばしばあった。』   愛郷 四十  『土畑(つちはた)は十八歳になると、陸軍を志願した。彼の兄は、少年航空兵となり、戦死していた。その敵を討ってやりたいとの思いから、志願したのである。  しかし、翌年には終戦となった。  やむなく、松根油製造(しょうこんゆせいぞう)の会社に勤務した。松根油とは、松の木からつくった油のことで、溶剤や防腐剤、自動車の燃料などに使われていた。  その会社の経営は、至って苦しかった。松根油の需要(じゅよう)は減り続ける一方であったからだ。  土畑は低賃金に甘んじてきたが、やがて、友人と薪製造(まきせいぞう)の工場を共同で経営することにした。そして、結婚すると、自分で薪製造の会社を始めた。  数年は、会社は順調であったが、薪も、石油やプロパンガス、電気などのエネルギーに取って代わられ、次第に経営は行き詰まっていった。  土畑は、努力をすれば幸せになるとの信念で、人一倍働いてきた。しかし、時代の大きな波の前には、自分の努力は、あまりにも無力なものに感じられた。  毎日、必死で金策に走り回ったが、そんな自分が、沈没する船のなかを駆けずり回る、ネズミのように思えた。もともと大好きだった酒の量が一段と増え、収入の大半は酒代に消えた。夫婦仲も険悪(けんあく)になっていった。  飛騨の山々が新緑に染まり始めても、彼の胸には、吹雪が吹き荒れ続けていた。  そんな土畑の一家を見るに見かねて、学会員であった親戚が、折伏にやって来た。  彼は、「神の国」とされてきた日本が、戦争で負けて以来、“宗教はまやかしだ。神も仏もあるものか。騙されてたまるか!”と思ってきた。  だから、信心の話が始まると、すさまじい勢いで怒鳴りつけた。  「俺は宗教なんか大嫌いだ。二度と来るな!」  だが、それでも、親戚の学会員は、何回も通って来た。そして、真心を尽くして、人間の宿命や、仏法とは何かを、諄々(じゅんじゅん)と語っていった。  理路整然(りろせいぜん)とした話であった。また、何よりも確信にあふれていた。  土畑の宗教観が、揺らぎ始めた。「誠実さ」と「粘り強さ」が、人の心を動かしていくのだ。』   愛郷 四十一  『土畑(つちはた)が妻の康子とともに、入会に踏み切ったのは、一九五八年(昭和三十三年)の十一月のことであった。学会員の語る「人間革命」という話に、共感したのである。  入会前、夫婦の争いの種は、たいてい良蔵の飲酒であった。乏しい収入を酒につぎ込むことが、康子は我慢できなかったのだ。  良蔵も、内心は酒をやめようかと思ってはいたが、飲まずにはいられなかった。いつも彼の傍(かたわ)らには、一升瓶が置かれていた。  ところが、信心を始めて四日目、酒を口にすると、妙な苦味を感じた。昨日も飲んでいた、同じ酒である。どこか、体が悪いのではないかと考えたが、体調は至ってよかった。  以来、酒はほとんど飲めなくなり、結局、やめてしまった。  あれほど手放せなかった酒を断てたことに、土畑夫妻は信心(しんじん)の功徳(くどく)を実感した。  また、勤行(ごんぎょう)・唱題(しょうだい)し、学会活動に励むと、生命力が体中にみなぎり、歓喜が込み上げてくるのを感じた。  しかし、仕事の方は、なかなか上向きにならなかった。  やむなく、薪(まき)の製造工場を閉め、証券や保険の営業の仕事をして、どうにか食べていった。康子も保険の集金の仕事を始めたが、それでも子どもの学校の給食費さえ、満足に払えないようなありさまだった。借金もかさんでいった。  しかし、土畑良蔵の胸には、既(すで)に仏法への確信と、広宣流布への使命感が芽生えていた。  “俺は負けんぞ。この信心で貧乏の宿命を乗り越えてみせる。そして、自分が幸せになるだけでなく、この飛騨を、幸福の里にしていくんだ!”  彼は、弘教に、同志の激励にと、全力で走り抜いた。  一九六一年(昭和三十六年)には、土畑は地区部長になったが、このころが、最も生活が厳しい時であった。広布の活動のために、自宅に引いた電話であったが、その電話料金も払えず、止められてしまうことも多かった。  同志から、いつかけてもつながらないと苦情が出ると、土畑は、こう笑顔で答えるのであった。  「すいませんね。故障しているもので……」』   (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 01 Aug
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 4

      愛郷 三十七 『騒動で逮捕された村人の処罰が行われたのは、安永三年(一七七四年)の十二月のことである。磔(はりつけ) が四人、獄門(ごくもん)七人、死罪(打首)二人、そのほか、遠島、追放に処せられた人もあり、過料(かりょう)は九千人を超えている。 若き指導者として勇敢に戦った、十八歳の善九郎(ぜんくろう)も獄門と決まった。 彼には、十六歳の若妻がいた。できることなら、生きて妻のもとへ帰りたいとの思いはあった。だが、その望みは絶たれた。 しかし、彼は泰然(たいぜん)としていた。もとより死を覚悟のうえで臨んだ戦いであった。だからこそ、何ものも恐れなかった。 “覚悟の人”は強い。人びとは、年は若くとも、その決定(けつじょう)した生き方に、指導者として信頼を寄せ、敬服(けいふく)してきたのであろう。 獄門を言い渡された者は、牢屋の前で、次々と首を斬られていった。 いよいよ、善九郎の番である。彼は名前を呼ばれると、役人に辞世(じせい)の言葉を書き留めてほしいと、丁重に頼んだ。 「寒紅(かんこう)は 無常の風に さそはれて 莟(つぼ)みし花の 今ぞちり行く」 「常盤木(ときわぎ)と 思ふて居たに 落葉(おちば)かな」 彼は、役人に一礼すると、自ら太刀取(たちと)りに、合図の会釈(えしゃく)をした。 いさぎよい最期と、称えぬ者はなかったと、史書(ししょ)は伝えている。 一方、代官の大原彦四郎(おおのひこしろう)は、検地を行って増石した功績によって郡代(ぐんだい)へと昇格した。また、代官側についた者には、名字帯刀(みょうじたいとう)が許されるなど、論功行賞(ろんこうこうしょう)があったのである。 民衆の決起を何よりも恐れる権力は、巧みにアメとムチを使い分ける。そして、決起の芽を徹底して摘み取るために、弾圧は、執拗(しつよう)、凄惨(せいさん)を極めるのだ。 だが、飛騨の人びとの、権力の横暴と戦わんとする、魂の火は消えなかった。苦渋の灰のなかで、抵抗の埋(うず)み火(び)は燃え続けていったのである。 大原彦四郎が亡くなると、天明元年(八一年)に、子の亀五郎正純(かめごろうまさずみ)が郡代となった。 その翌年ごろから、大凶作による深刻な飢饉(ききん)が始まった。「天明の大飢饉」である。 草の根や木の皮まで食わねばならぬような、悲惨なありさまであった。』 愛郷 三十八 『大飢饉による苦悩に追い打ちをかけるように、天明四年(八四年)の三月に、高山で大火が起こった。被災者は六千数百人に及んだ。 人びとが窮乏(きゅうぼう)のどん底であえいでいる、このさなかに、郡代(ぐんだい)の大原亀五郎は、本来、返すべき年貢の過納金を献納するように申し渡すなど、無理難題を押しつけてきたのである。 民衆は、三(み)たび立ち上がった。 郡代の不正を明らかにするために、代表が江戸に赴(おもむ)き、天明八年(八八年)、老中となっていた松平定信(まつだいらさだのぶ)※1の屋敷などに、たびたび訴状(そじょう)を張りつけ、直訴することに成功したのだ。いわゆる「張訴(はりじょう)」である。また、領内を監察する幕府の巡見使(じゅんけんし)が飛騨を訪れた折にも、飛騨の窮状(きゅうじょう)と郡代の不正を訴えることができた。さらに、江戸では、松平定信に駕籠訴(かごそ)もするなど、直訴が繰り返されたのである。 この命がけの訴えが、遂に幕府を動かした。 郡代(ぐんだい)の大原亀五郎正純(おおはらかめごろうまさずみ)が江戸に召喚(しょうかん)された。そして、寛政元年(八九年)十二月、取り調べの末に、とうとう判決が下ったのだ。 不正を働き、農民を苦しめた大原亀五郎は、八丈島に送られることになったのである。ほかの役人たちも、二人が死罪になったほか、遠島、追放など、厳しく処罰された。 一方、農民の側は、一人が死罪になりはしたが、全体的には、至って軽い裁(さば)きとなった。 悪名高い田沼時代※2が終わり、松平定信による綱紀粛正(こうきしゅくせい)が行われていた時とはいえ、農民側の訴えが、ほぼ全面的に受け入れられ、処置も寛大であったのは、異例のことといってよい。大原父子(ふし)の二代にわたる暴政(ぼうせい)に、遂に民衆が勝利したのである。 文豪(ぶんごう)・魯迅(ろじん)は言った。 「歴史に記録されている改革事業の多くは、倒れては立ち、また倒れては立ちして、来者(らいしゃ)(後進の徒=編集部注)に引きつがれる」(『魯迅文集』 第三巻、竹内好訳、筑摩書房) この飛騨の民衆の凱歌(がいか)も、数多(あまた)の犠牲者の屍(しかばね)を乗り越えて、闘魂が受け継がれ、成し遂げられた壮挙であった。 敗れても、敗れても、また立ち上がる、怒濤(どとう)のごとき不屈の闘争のなかにのみ、民衆の勝利の栄光は輝くのだ。語句の解説※1松平定信(まつだいらさだのぶ) 一七五八~一八二九年。江戸後期の老中(ろうじゅう)。田沼時代の悪政を正す寛政(かんせい)の改革を断行。倹約(けんやく)を奨励(しょうれい)して、社会の気風を引き締め、幕府の財政難を救い、農村の復興をはかるための諸政策を推進した。※2田沼時代 田沼意次(たぬまおきつぐ)(一七一九~八八年)が、側用人(そばようじん)、さらに老中として幕政を握り、約二十年間にわたって、権勢をほしいままにした期間(老中の時代に限定したものなど諸説ある)。賄賂政治(わいろせいじ)を横行させるなど社会の腐敗を招いた。』 愛郷 三十九 『近代になっても、飛騨地方の民衆は、貧苦(ひんく)を強いられてきた。 この地方の、多くの乙女たちが、野麦峠(のむぎとうげ)を越え、諏訪地方(すわちほう)などの製糸工場(せいしこうじょう)に働きに行き、過酷な労働条件のなかで“女工哀史(じょこうさいし)”を綴ったことはよく知られている。 飛騨に鉄道が通り、ようやく岐阜・富山間の全線が開通したのは、一九三四年(昭和九年)のことであった。 この山深い飛騨の地に住む人びとにとっては、互いに結束を固め、自分たちの身は自分たちで守り合うことが、生きるための知恵であった。しかし、それが閉鎖性となり、旧習の根深さともなっていた。 飛騨地方に初めて妙法の火がともったのは、五八年(同三十三年)のことである。 六〇年(同三十五年)には、飛騨地方初の地区として高山地区が誕生し、六四年(同三十九年)には、飛騨支部が結成されている。 だが、自分たちの伝統を守り抜こうとする意識が強い土地柄だけに、弘教を進めることは容易ではなかった。入会して、村八分にされ、水道を止められてしまった人もいれば、親から勘当された人もいた。 それでも、同志は負けなかった。 “飛騨の宿命を転換し、幸福の花咲く里にしていくのが、私たちの使命だ。だから、何があっても挫けるわけにはいかない!” こう自らに言い聞かせながら、メンバーは、粘り強く、勇んで広宣流布の道に邁進してきたのである。 そして、山本伸一が高山を訪問する、六カ月前の六七年(同四十二年)の二月には、飛騨に念願の総支部が誕生したのだ。 総支部長を務める土畑良蔵(つちはたよしぞう)は、四十一歳の純朴(じゅんぼく)そうな、やや小柄の壮年であった。 土畑は飛騨の農家の生まれで、生後十カ月で父親を亡くしていた。以来、母親が懸命に四人の子どもを育てた。 幼心に、彼は思った。 “母ちゃんに少しでも楽をさせたい!” 母親の手助けをしようと、七歳になったころから、朝早く起きて、草刈りをした。慣れぬ野良仕事に、鎌(かま)で手に傷をつけることも、しばしばあった。』 (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より       ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡にほんブログ村

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  • 31 Jul
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 3

      愛郷 三十四  『農民たちは、約束を違えて、古い田畑まで測量するのは不当であると、代官所に申し出た。  だが、代官は、「うそは世の宝」と平然と答え、取り合おうとはしなかった。  “なんとしても、新田(しんでん)だけの検地にしてもらわねばならぬ!”  それが飛騨の農民たちの悲願であり、また、誓いであった。  悪辣なる権力への怒りこそが、民衆運動の原動力となる。  皆、ワラにもすがる思いで、必死になって対策を講じた。検地に来た検地奉行(ぶぎょう)に願い出るなど、あらゆるつてを使って、検地の中止を幕府に嘆願しようとした。だが、いずれも失敗に終わった。  しかも、その動きを知った代官は幕府に報告。関与した者は勘定奉行所(かんじょうぶぎょうしょ)に召喚(しょうかん)され、徒党強訴(ととうごうそ)として、拷問にかけられたのである。このころ、幕藩体制(ばくはんたいせい)の政治、経済面などの矛盾が露呈(ろてい)し、各地で百姓一揆(いっき)などが頻発(ひんぱつ)したことから、幕府は、徒党強訴を厳禁し、取り締まりを強化していた。また、直訴(じきそ)を行った場合は、死罪などの厳罰に処していたのである。  しかし、飛騨の農民たちの、幕府への嘆願は続けられた。  江戸にも、飛騨三郡(ぐん)の村々の総代として、二十余人(よにん)を潜行(せんこう)させていた。幕府の要人(ようじん)に、検地の取りやめを直訴するためである。  村人たちは、彼らに、残した家族の面倒をみることを約束した。また、いかなる事態になっても、「決して犬死にはさせない」と固く誓って、彼らを送り出したのである。  江戸に潜(ひそ)んでいた農民は、嘆願の機会を狙っていた。  安永二年(一七七三年)七月、牧ケ洞村(まきがほらむら)の善十郎(ぜんじゅうろう)ら六人は、登城途中(とじょうとちゅう)の老中筆頭(ろうじゅうひっとう)である松平右近将監武元(まつだいらうこんのしょうげんたかちか)の行列の駕篭(かご)に、嘆願(たんがん)の書状を渡すことに成功した。  彼らは、その場で逮捕された。  一方、前原村(まえばらむら)の藤右衛門(とうえもん)らも、勘定奉行・松平対馬守忠郷(まつだいらつしまのかみたださと)の屋敷に、嘆願書を持って駆け込み、捕らえられたのである。  それでも、農民たちは、訴えが、ともかく幕府に届いたことに、一縷(いちる)の希望をいだいた。』   愛郷 三十五  『江戸での出来事を知った代官の大原彦四郎は、駕籠訴(かごそ)の六人を出した村々の名主(なぬし)、組頭(くみがしら)、百姓代(ひゃくしょうだい)の三役、さらに、飛騨の三郡(ぐん)二百八十三カ村(そん)の三役を呼び出した。そして、江戸で直訴(じきそ)した者は、飛騨の村々の総代(そうだい)ではなく、また、検地は妥当な処置で苦情は申し立てない旨の文書を作らせ、捺印させたのである。  農民が皆、検地に反対となれば、代官の責任が問われることになる。それを恐れてのことにちがいない。  各村の三役も、自分たちがどんな咎(とが)めを受けるかと思うと、恐れが先に立ち、代官に屈(くっ)してしまったのである。地位ある者たちの、わが身かわいさの卑劣な裏切りであった。  いつの世も、保身に汲々(きゅうきゅう)とする臆病者の姑息さこそ、悪を肥大させていくのである。  だが、この裏切りに 憤(いきどお)り、敢然(かんぜん)と捺印を拒否した人びとがいた。その中心人物の一人が、本郷村(ほんごうむら)の青年・善九郎(ぜんくろう)であった。  「決して、犬死にはさせないと言っておきながら、なんだ!」  善九郎の若々しい五体(ごたい)には、煮えたぎるような義憤(ぎふん)が脈打っていた。  善九郎は、決然と立ち上がった。  村で集会が開かれた。一人の青年の勇気が、正義の炎の叫びが、村人の心を燃え上がらせた。そして、九月下旬から、大野郡宮村に、各村の農民が合流し、大集会を開き、ここを根城として、気勢をあげた。  夜には随所に篝火(かがりび)が焚(た)かれ、皆の怒りを表すかのように、紅蓮(ぐれん)の炎が空を焦がした。  宮村には、時には、数千人とも、一万人ともいわれる人びとが集った。彼らは、徹底して団結を呼びかけた。団結こそが、権力に抗(こう)し得(う)る、民衆の唯一の力であることを知っていたからだ。  農民たちは、暴力に訴えようとはしなかった。代官側に立つ高山の町民に対しても、米や炭、野菜など、生活必需品等をいっさい売らないという不売同盟を結び、経済封鎖をもって戦った。  また、協議の末に、三千人が代官のもとに行き、年貢の延納(えんのう)や拷問の中止などを嘆願(たんがん)したのである。』   愛郷 三十六  『大原代官は、農民の数に圧倒されてか、事を荒立てまいと、まことに色好(いろよ)い返事をした。  農民たちは、あまりにも純朴(じゅんぼく)であった。願いは叶えられたと思い、「ありがたい」「ありがたい」と、声をあげて喜び合ったのである。  だが、代官は、近隣諸藩(しょはん)に出兵(しゅっぺい)を要請し、請願運動の大弾圧に踏み切ったのであった。  悪に騙されてはならない。奸智(かんち)を見抜けぬ人のよさは、正義の無残な敗北の原因となる。  十一月半ば、武装した数百人の武士が、農民たちが集っている宮村を急襲した。  宮村(みやむら)の水無神社(みなしじんじゃ)にいた農民は、ここは聖域であり、役人といえども、踏み込むことはないと信じていたが、武士たちは容赦なく襲いかかった。  武器も持たず、逃げ惑う農民に、鉄砲が火を噴(ふ)き、槍(やり)が唸(うな)り、剣(けん)が振り下ろされた。境内(けいだい)は血に染まり、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄絵図が現出(げんしゅつ)した。結局、死者、そして、数多くの負傷者を出し、数百人が捕らえられた。若きリーダーの善九郎も逮捕された。  これが世に言う「安永騒動(あんえいそうどう)」である。  逮捕者の多さから、牢屋(ろうや)を新築しなければならないほどであった。取り調べは、過酷を極め、前にも増して激しい拷問が繰り返された。  鎮圧(ちんあつ)から約一カ月後の十二月十八日、江戸で駕篭訴(かごそ)や駆込願(かけこみねがい)をした村人が処刑された。その首は塩漬けにされ、年の瀬も押し詰まった二十七日、高山に送られて来た。  首は、刑場の桐生川原(きりゅうがわら)にさらされた。数日前から降り続いていた雪は、この夜、一段と激しさを増したが、人びとは続々と、弔(とむら)いのために刑場を訪れた。  自分たちのために殺された、無残な同胞(どうほう)の姿を目にした村人の胸には、悲しみと、怒りと、絶望が交錯(こうさく)していた。雪で凍(い)てた目から、熱い、悔し涙があふれた。  年が明けた、安永三年(一七七四年)二月、中断されていた検地が再開された。  この検地によって飛騨は五万五千余石(よこく)となり、約一万一千石が増石された。さらに重い年貢が、農民の暮らしを圧迫することになった。  農民の悲痛な訴えは、何も聞き入れられなかったのだ。』   (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より             ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 2

      愛郷 三十一  『山本伸一は、常に望んでいた。  “最も大変な環境のなかで、苦労を重ねながら黙々と奮闘している同志を、草の根をかき分けるようにして見つけだし、讃(たた)え励ましたい”と。  だから彼は、大都市だけでなく、小さな町や村も訪問したかった。  だが、限られた日程のなかで、多くの会員と会い、激励しなければならないことから、なかなか思うに任せなかった。  それでもスケジュールを調整しては、可能な限り、中小都市にも足を運んだ。  六月二十三日の、長野県の小諸(こもろ)や松代(まつしろ)の訪問も、そうして実現したものであったし、その九日前には、滋賀県の彦根を訪問している。  伸一は、七月には、九州、中部、東北を回り、二十四日からは伝統の夏季講習会に出席した。  八月の十一日に講習会が終わるや、十二日からは兵庫、福井、富山を回って、終戦記念日にあたる十五日には、岐阜の高山会館を訪問するため、高山市を訪れたのである。  高山は、緑の山々に囲まれた、美しく静かな街であった。  伸一が、高山訪問を決意したのは、前年の二月のことであった。  岐阜会館での記念撮影の折、高山から参加した一人の婦人が言った。  「先生! ぜひ、高山に来てください!」  その声には、胸に秘めた思いを凝結(ぎょうけつ)させたかのような、必死な響きがあった。  「わかりました。必ず伺います!」  そして、幹部に、高山方面の人びとの暮らしなどについて尋ねた。  「高山のある飛騨地方は、風光明媚なところです。しかし、交通の便は、いいとはいえません。  木工業や林業などが主な産業ですが、経済的に厳しい状態のなかで、苦闘しているメンバーが多いんです」  すると、伸一は、即座に決断した。  「そうですか。それなら、皆さんが活動しやすいように、高山に会館を設置しましょう。  飛騨の同志は、宿命転換の模範となって、全国に幸福の風を送ってもらいたいんです」  リーダーが人びとの声に素早く反応するところには、喜びと希望の前進がある。』   愛郷 三十二  『山本伸一は、なかなか高山に行く時間はとれなかったが、同志のことを思っては、題目を送り続けてきた。  一方、高山では、会館設置の準備が始まり、既存(きそん)の二階建ての民家を購入し、改築工事が進められていった。  そして、前年の十月、飛騨地方(ひだちほう)の中心都市として栄えてきた高山市に、飛騨広布(こうふ)の牙城(がじょう)・高山会館が誕生した。  伸一は、この日、高山駅から、青年部員が運転してくれる車で会館へ向かった。  薄雲(うすぐも)のなかに、乗鞍(のりくら)、穂高(ほたか)など、北アルプスの秀峰(しゅうほう)が浮かんでいた。  この高山市と吉城(よしき)、大野、益田(ました)の三郡(ぐん)を擁(よう)する飛騨地方は山間の地であり、冬は深雪(みゆき)に覆(おお)われ、かつては“陸の孤島(ことう)”といわれてきた。人びとの気質は、素朴(そぼく)にして従順(じゅうじゅん)で、黙々と働くが、困窮生活(こんきゅうせいかつ)を強(し)いられてきた地域であるといわれている。  この飛騨には、民衆の辛酸(しんさん)と闘争、そして、勝利と栄光の歴史がある。  江戸時代の元禄年間(げんろくねんかん)、森林資源や鉱山(こうざん)資源が豊富であった飛騨(ひだ)は、幕府直轄(ばくふよっかつ)の領地(りょうち)である天領(てんりょう)となった。以来、人びとは、貧しいなかにも、天領民(みん)の誇(ほこ)りをもって暮らしてきた。  その飛騨で、明和(めいわ)八年(一七七一年)から、寛政(かんせい)元年(八九年)にかけて、明和、安永(あんえい)、天明(てんめい)と、悪政(あくせい)を糾弾(きゅうだん)する三回の騒動が起こっているのである。  この悪政の元凶(げんきょう)である代官(だいかん)・郡代(ぐんだい)が、大原彦四郎紹正(おおはら ひこしろうつぐまさ)・亀五郎正純(かめごろうまさずみ)の父子であったことから、三回の騒動を総称(そうしょう)して「大原騒動」といわれる。  大原彦四郎が飛騨の代官として着任したのは、明和三年(六六年)のことであった。大原代官は、米の代わりに金納(きんのう)していた年貢(ねんぐ)の納期を、それまでより二カ月も繰り上げた。また、山林の乱伐(らんばつ)を防ぐ幕府の方針に則(のっと)り、伐採(ばっさい)を五年間休止することを通達した。それは、伐採の手当として米を支給され、生活していた山村民(さんそんみん)にとっては死活問題であった。  さらに、年貢の金納分の価格は、近隣諸国の米の時価から計算される変動値段制(へんどうねだんせい)であったが、代官は、豊作(ほうさく)・凶作(きょうさく)による米価(べいか)の変動を無視して、値段を定めようとしたのである。』   愛郷 三十三  『そのうえ、代官は、年貢の金納分(きんのうぶん)を定値段制(ていねだんせい)に改定するための、幕府への運動資金として、農民たちに三千両を要求してきた。さらに、新しい夫役(ぶやく)(強制的な労働)を課(か)すことを申し渡した。  農民たちの怒りは、頂点に達した。  明和(めいわ)八年(一七七一年)十二月、対策を協議する集会が開かれた折、遂に農民の一部が暴徒化(ぼうとか)し、代官と結託していた商家(しょうか)を打ち壊すという、騒動が起こった。  また、飛騨(ひだ)の四十六カ村(そん)の名主(なぬし)・百姓代(ひゃくしょうだい)九十数人は、年貢の金納分の定値段制、新しい労役(ろうえき)の拒否を申し合わせた連判状(れんばんじょう)を作成した。この連判状は、傘連判状(からかされんばんじょう)といわれ、傘を開いたように、円形に、署名、捺印(なついん)が並んでいる。これは、誰から署名したのかわからないようにして、首謀者(しゅぼうしゃ)の特定を防ぐとともに、皆が平等の立場に立って団結するためであった。農民たちの知恵といえよう。  騒動に続いて、代官所への嘆願(たんがん)が行われると、代官は躍起(やっき)になって弾圧を開始した。騒動に参加した者を次々と捕らえ、凄惨な拷問を行っていったのである。  やがて、安永(あんえい)三年(七四年)に、この騒動の判決が下るが、農民たちの一人が死罪(しざい)、三人が遠島(えんとう)に処せられたほか、四十人以上が過失の償(つぐな)いとして金銭(きんせん)を出させる、過料(かりょう)などの罰(ばつ)を科せられることになる。  まだ、この処罰も決まらぬ安永二年(七三年)、幕命(ばくめい)によって検地(けんち)が行われることになった。検地は年貢の徴収等(ちょうしゅうとう)のために実施される土地の測量調査である。  飛騨国(ひだのくに)は、八十年前の元禄時代(げんろくじだい)の検地で四万四千石(ごく)となっていたが、再検地によって石高(こくだか)を増やし、増税することが、その狙いであった。  当初、代官は、検地は新しく開墾(かいこん)した田畑だけであると明言していた。ところが、実際に測量が始まると、古い田畑もすべて厳格に検地が行われていった。  “ただでさえ、食うや食わずの生活である。そのうえ、情け容赦のない検地で、年貢を増加されれば、死ぬしかない”  名主(なぬし)、百姓代(ひゃくしょうだい)らは、古い田畑の検地を取り止めるよう、願い出ることを決議した。』     (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 30 Jul
    • 高山 21世紀研修道場から感動をうけて 1

      『愛郷 三十    撮影の入れ替えの合間、山本伸一は、皆に気づかれないように、会場の体育館横の出入り口から、一人で外へ出た。息苦しさを覚え、外の空気を吸って、休みたかったのである。  伸一が外に出ると、注意深く彼の行動に目を光らせていた、聖教新聞のカメラマンが追いかけてきた。  伸一の周りには、常に感動のドラマがあった。だから、聖教新聞のカメラマンや記者は、彼の動きから、一瞬たりとも目を離すわけにはいかなかったのである。  カメラマンが後についていくと、伸一は、表のコンクリートの階段に、一人で座っていた。疲れきっているのが、よくわかった。積み重なった疲労が、伸一を押しつぶそうとしているかのようにも思えた。  人の気配を感じた伸一は、カメラマンの方に視線を向けた。そして、微笑(びしょう)を浮かべて言った。  「見られてしまったか……。ぼくが、こんなに疲れた姿を見せてはいけないよね」  それから彼は、深呼吸をし、自分を鼓舞するように、「さあ、行くぞ!」と言って、さっそうと、会場に入っていった。  伸一の姿を見ると、撮影台に並んだメンバーから、嵐のような拍手が起こった。  「ありがとう!  本当にご苦労様です。今日は、ゆっくり休んでください!」  力強い声であった。  「皆様方の敢闘(かんとう)、そして大勝利の様子は、全部、報告を受けており、よく存じ上げております。広宣流布は、永遠の闘争です。ゆえに、何があっても、戦い続けていくことです。  昨日、しくじったならば、今日、勝てばよい。今日、負けたなら、明日は必ず勝つ。そして、昨日も勝ち、今日も勝ったならば、勝ち続けていくことです。  人びとの幸福のために、戦い抜いていくなかにこそ、仏の生命の脈動があるんです。そこにこそ、大歓喜があり、崩れざる幸福の大道が開かれていくんです。  さあ、また今日から、戦いを起こしましょう! 新しい希望の前進を開始しましょう!」  獅子吼を思わせる指導であった。  伸一の指導旅は、自己自身との壮絶な闘争であったといってよい。』   (「新・人間革命」12巻 池田大作 聖教新聞社)より          高山の21世紀研修道場での研修から、新・人間革命12巻 愛郷の章を読んでいます。  本当は、聖教新聞に掲載された「愛郷 31」から、高山のお話になるのですが、この愛郷の章をはじめから読んで、もっともっと紹介したい個所も沢山ありましたけど、特に、この先生のシーンは、とくに私の胸を強く打ちましたので、ここから紹介させていただきました。  このあと、高山のお話へとなります。  いただいた資料の聖教新聞の「新・人間革命」の記事の流れにに合わせて、「新・人間革命」12巻から掲載していきます。               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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  • 29 Jul
    • 夏季フリー研修会

       今日は、生まれて初めて、ひとりで「特急列車」というのに乗った。  私は、「ひとり」が、この上なく嫌いだ。  そんなことはどうでもいいが、目的地に行くために、この列車に乗らなければならないのかどうかは、ぶっちゃけ、頭の悪い私には分からないけど、鈍行列車ではなく、多分、この列車に乗らなければならないのだと思う。  ともあれ、「乗車券」と「自由席券」という2枚の切符を握りしめてホームに入った。  しばらくして、列車がホームに入ってきた。  ん?列車に乗り込む間際に目に飛び込んだ文字が「指定席」。  どれもこれも「指定席」「指定席」「指定席」・・・。マジかよ。  自由席、ねーぢゃんか!ちゃんと切符売り場で聞いてこればよかった。まいったな・・・  と、その時、私の真後ろに並んでいたおじちゃんが、「この列車は、指定席ばっかりじゃが、ワシは自由席の切符じゃから、この列車は違うのかのう」と、私にたずねてきた。  すかさず、「私も、はじめて特急列車というものに乗るから、わからないんです(汗)。他の人に聞いてみますね」と、列車から降りてきた人にたずねてみたところ、この列車で間違いないとのことで、おじちゃんと私は、オロオロしながら乗り込んだ。  おじちゃんは右へ。わたしは左へと別れて、自分が座る席を探す。  が、、、だ。やはり、どの車両にも頭上に「指定席」と表示されている。  車両を後ろへ後ろへと、渡ってみたが、どの車両も「指定席」と。  席は、たっぷりと空いている。だが、そこに座るわけにはいかない。  「指定席」だから。  一番後ろまで行ってみたが「指定席」。  今度は、前へと進む。  ありました。1番車両が、「自由席」でした。たぶん、アナウンスでも言っていたような気がしました。おバカな私です。  大自然の恵みを車窓から眺めながら、へっぽこハピちゃんは、一人旅の不安を癒して、途中、先生の「開目抄講義」を読み、学びながら、心を落ち着かせていました。  すると、通路を挟んだ席の女性が、声をかけてきました。  「すいいません。学会の方ですか?」と。  私は、しどろもどろで、  「あ、はい・・・(汗)」  と。  彼女は、  「私も、学会員です(≧▽≦)♪ 今日は、どちらまで?」  と。  彼女の席には、聖教新聞らしきものが置かれていました。  私は、ますます オロオロしながら  「今日は、高山まで研修会に参加しに・・・」  ろれつが回らない(汗)  「あ、私もですぅ♪」  と。  ふたりして、「あはは、あはは」と――。  だけど、今の私には、この状況を楽しめるだけの気力はなく・・・。  ともあれ、10時30分、「高山駅」に到着。  せっかくなので、道場までタクシーで行くんだから、一緒に乗り合わせていけばいいかな?と、思ってみたり、いや、変に思われちゃうかも、なんて思っているうちに、彼女を見失ってしまい、そのままタクシーに乗って、いざ、道場へ!  タクシーの運転手さんは、今週に入って、何回かお客さんを乗せて道場に行ってますよって。   「あ、帰りは、どうしようかな」  と、言うと、運転手さんが、  「領収書に電話番号が書いてあるから、電話くれたら、10分ぐらいで迎えに行きますよ♪」  だって^^ 優しいな♪  私の父も、タクシーの運転手やってるから、「ああ、きっと、おやじも、こんな風にお客さんに心を尽くして働いてるんだなぁ」そんなふうに思えて、運転手さんの背中と、父の背中がかさなり、なんともいえない素敵な時間でした。  15分から20分ほど走って、道場に到着。  ちなみに、高山駅から21世紀研修道場まで、1780円(新興交通株式会社)でした。  受付には、女子部の方が立っておられ、資料を配り、案内をしてくださいました。  待合室で、とりあえず席の空いてるテーブルで、ひとりのご婦人に「こちらに同席させていただいてもよろしいですか?」と、声をかけ、「どうぞ、どうぞ」と、笑顔でこたえていただき、席につくと、その後すぐに、一緒に参加されてるふたりのご婦人の方がみえられまして、三人のご婦人に囲まれて、またまた緊張(汗)。  こちらの方達は、山梨県からみえたそうです。  ゾーン副婦人部長さん達3人のご婦人等と、うっかり交わって、しばしの会話。      予定通り、11時から、勤行会がはじまりました。  ビデオ鑑賞。  受付でいただいた資料には、新・人間革命のプリントがあり、高山の歴史を学ぶことができました。  壮絶すぎる歴史があるんですね。  私は、新・人間革命も、全巻読めていないので、今回、読んで、あまりにも残酷すぎる過去を知って、恐怖を感じました。と、同時に、怒りを覚え、そして、とても悲しかったです。  それにしても、先生は、よく、あそこまで調べて、そして、それを今度は、書いて教えてくださいますよね。  どこまでも、どこまでも、会員のことを思って、その姿、行動で、私たちに惜しみなく示し、リードしてくださっています。  私たちは、その「心尽くし」を、漏らすことなく、学び取って、実践していかなくては勿体ないですし、それでこそが、報恩感謝ではないだろうかと思います。  こちらのビデオでも、先生は、仰っていました。  「学会員同志は、仲良く」と――。  また、「近隣の方々とも仲良く」と――。  今回参加されたメンバーは、覚えているだけでも、東京、山梨、富山、愛知、三重、大阪、兵庫から、皆さん意気揚々と参加されていました。  所要時間は約30分くらいでしょうか。終了して、会場の広間を出ると、電車で知り合った彼女が、たった今、到着したようで、受付のお姉さんと階段を上がってきました。  「あれー!どうしたの?姿が見えなかったから心配してたよ!」  と、私。  声は届かなかったみたいだけど(笑い)、お互いに、「来るとき、電車でね♪ 電車でね♪」と、受付のお姉さんに、「ね♪」「ね♪」と(笑い)。  そうそう、その時の、受付のお姉さん、新・人間革命にも出てくる方のようで、どのあたりに出ているのか、私もまだ、確認できていませんが、とっても嬉しかったです。私の聞き違いだったら、申し訳ありませんが・・・。とても、親切で、本当に細やかに皆さまにも、お心配りをされていました、素晴らしい女性でした。  外に出ると、また、山梨のご婦人たちがベンチに座っている私に、声をかけてくださいました。  「ひとりなの?よかったら、私たちの車で一緒に行きませんか?」  と。  とても、嬉しかったですけど、一緒に回りたかったんですけど、タクシー呼んぢゃったから・・・。  ほんと、皆さん、どこまで優しいの♪(泪)  道場には、ゴルフ場にあるような、カート(運転手も合わせて4人乗れます)が2台あって、敷地内を案内していただけます。  みんな、めっちゃ楽しそうに回っていましたよ^^  思ったことは、一人が苦手な人は、やはり、一人では、こうどうはんいというか、思考も狭くなるように思います。  それにも増して、タクシーの移動ともなると、不便です。  一人でも楽しもうとするなら、車で参加が良いです。自在に回れますから。  高山は、涼しいところですし、曇り空でも湿度も高くありませんでした。  うまいものも沢山あるし、観光にぶらっと来るには、最適だと思います。  その後、皆さん、各々に高山を散策。      私は、ひとりだと、どうもダメで、そそくさとタクシーで、運転手さんお勧めの、駅前の高山中華そば(高山ラーメンは中華そばのことだそうです, まぁ、もっとも、中華そばと、ラーメンは同じですけどね 笑)の、大盛りを食べて、帰路に着きました。  あ、そうそう、ホームで、ちゃ~んと流れていました。  「自由席は1番車両になります」  と――(笑い)。  帰りは、迷わずに、自由席に乗りましたとさ^^        追伸    今回のひとり研修会の旅・・・。  本当は、3人で行くはずでした。  だけど、短気な私は、ちょっとしたことで、一旦、それを白紙にし、だけど、その後に、支部長が、「ハピネスさんに連絡いただいていた『フリー研修参加者証』を本部長にハンコをいただいてきましたよ」と、持ってきてくださって、これは、無駄にはできないよね、ってことで、ひとりで行くことになりました。  そんなことを振り返りつつ、私は、過去から、こうやって、人と人との「縁」を、自ら断ち切ってきたんだな。  電車で「縁」した方とも、道場で「縁」した方とも、はたまた、運転手さんとも、さらに、T副総県長とも、せっかくの「縁」を、自ら放棄してしまう、「勇気」の無さ!    誰かが、最近、言ってたぞ!    嫌われる覚悟を持ったら変われるって――。  その通りだと、心から思い、猛省しているところです。               いつも、だらだらと長々しい、当ブログを読んでいただき、誠に恐縮をしております。m(__)m ともあれ、ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいのです♡♡♡あはは にほんブログ村

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  • 25 Jul
    • みんなで応援してほしいな\(^o^)/

      そして、そこから学んでほしい。 極悪と戦えば極善となる 私の、最上の友人が、「意を決して綴(つづ)る」ブログです。        ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡にほんブログ村

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  • 24 Jul
    • マジかよ!

      先生から、書籍をいただきました。 うれしいけど、なんだか実感がわかない(汗) なにかの間違いぢゃ・・・ だけど、私の名前も入ってる。 (感涙) メッセージカードも (号泣)   今から、また頑張る!       地元組織の皆さん、そして、ちよさん(たえさん) & ブログで応援してくださる皆さん、はたまた、縁したすべての皆さまに、心からの御礼を申し上げます。 本当にありがとうございます。 そして、私の家族みんなに、心から、「ありがとう」の心をおくります。               ぽちっとしていただけたら、ハピちゃんは嬉しいです♡♡♡ にほんブログ村

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    • ぼくの妹に

          彼のように   出来た人間ではないから   申し訳ないけど   出来の悪い兄には   いい妹がつくもの(笑い)   『よかったな!   うれしいよ!   どんなことがあっても くじけるなよ   ぼくの妹だろ』   そんなふうにいつも思っているよ   いつかまた   会おう!   笑顔だけあれば他には何もいらないよ   キミが幸せならいい         今日は、座談会があって、地区担の方が、ギター演奏をしてくださいました。 その一曲に、こちらの曲がありました。 ギター演奏もうっとりでしたけど、歌声も、まさに、加山雄三に負けずと劣らずの、あまい声で、皆さんも、うっとりされていました^^                 最近は、「いいね」も、コメントもできない状況で、本当に申し訳なく思っています。 それなのに、いつも、「ぽち」をしていただいて、、、本当にありがとうございます。 心より、感謝申し上げます。m(__)m にほんブログ村

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