いやー、最近もう昼間はバッチリ起きてまして、超健康っすよ!!!( ̄▽+ ̄*)
なんせ、いつ応募先からの電話がかかってくるかわかんないし、あと、昼間はもうエアコンかけっぱでも超暑くて、26度までしか室温が下がりましぇ~ん(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
まそれはともかく、先日、またNHKの「戦後史証言プロジェクト」をやってまして、第一回が、湯川秀樹博士の話だったんですが、ノーベル賞物語とかじゃなくて、日本の原子力ムラ誕生にまつわる、凄まじいお話でしたんで、例によって紹介します。
日本人初のノーベル賞受賞者・湯川秀樹
そして武谷が提唱する原子力平和利用の三原則「自主・公開・民主」を採択します。
しかし、1954年、アメリカがビキニ環礁で初の水爆実験に成功。
日本の漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴びて被爆し、乗組員の久保山愛吉さんが亡くなったり、マグロから放射能が検出されたりで、日本はパニック。
湯川は、新聞紙上で「原子力は制御できない凶暴性を発揮し始めた。」と発言。
さらに、哲学者のバートランド・ラッセルからの呼び掛けに賛同し。核兵器廃絶を謳った、ラッセル・アインシュタイン宣言に署名します。(その2週間後、アインシュタインは死去。)
その後も、湯川は積極的に、核問題にコミットし、日本では原水爆禁止運動が盛り上がります。
「左翼政権が出来る!」とあせる米帝。
吉田茂内閣もピンチ。
米帝必殺の原子力安全キャンペーン映画を全国で上映( ̄□ ̄;)↓
さらに1955年(昭和30年)、アメリカは、ビキニ被爆の賠償として200万ドルを日本に支払いますが、ただでは引っ込まない米帝は、それとセットで日本に「原子力協定」を押し付けてきます。それは、西側で原子力技術を共有し、ソ連に対抗するためのものでした。
そこに登場するのが、若ハゲ中曽根。
新聞紙上で武谷博士と論争します。
その後、米帝は、東大の御用学者を動員するなどして工作し、ついに、55年6月、日米原子力協定は仮調印となります( ̄□ ̄;)
そして国会工作が実り、12月に協定は承認( ̄□ ̄;)
続いて「原子力基本法」が成立するんですが、内容的には、例の「自主・公開・民主」の三原則を踏まえていたので、とりあえず、学者たちも評価します。
しかし…。
さかのぼる55年11月に、自由党と民主党が合同し、自民党が結成されました。
右が岸。
いわゆる「55年体制」のはじまりです。
そして、ほぼ同時に、日本全国10箇所で、↓
「原子力平和利用博覧会」なるものが開催され、260万人もの観客を動員します。
さらに自民党は間髪を入れず、56年1月に「原子力委員会」を立ち上げますが、その委員長こそが、当時の鳩山一郎内閣の原子力担当大臣↓
そうです、CIAのコードネーム「ポダム」でおなじみ、巨人軍では「大正力」と呼ばれているハゲ野郎が就任!! ハゲ野郎は、委員に湯川を指名。
実は、さっきの博覧会も、読売新聞が総力を挙げて開催したんですよ( ̄□ ̄;)
わかりやすすぎる~~~(ノ´▽`)ノ
湯川は早速、委員会に備えて、各国の現状や、専門外である原子炉の形状まで踏み込んだ勉強会を、学者仲間や学生と立ち上げ、準備万端で委員会に臨むんですが…。
第一回の委員会の会合は、いきなり、正力の大演説から始まります( ̄□ ̄;)
いわく「とにかく5年後には絶対に原子炉を動かすぞゴルァ!!!」
それを延々と聞かされた湯川は、「まず日本での基礎研究から始めるべき」という、強い信念を持っていたので、もう完全にブチ切れ!!
早速、知人に、委員を辞めたいと話します。
とはいえ、知人の説得もあり、なんとか委員に踏みとどまり、安易に外国から購入するのではなく、まず日本で基礎研究を行って、技術的基盤を持つべきと、粘り強く主張します。
しかし、ハゲ野郎はそんなこと聞く耳持たん( ̄□ ̄;)
結局、体調を壊してしまった湯川は、翌年の3月、委員を辞任…。orz
あとはもう、現在に至るまで、野となれ山となれですよ…( ̄□ ̄;)( ゚ ▽ ゚ ;)(-_\)(/_-)三( ゚Д゚)
で、9年後の1965年、東海村で、イギリスから買った原子炉が初めて臨界に達するんですが、その時期になると、高度経済成長ということもあり、
また、当時から、↓
安全審査を行う専門部会は、推進組織である原子力委員会の中に設置されており、武谷らが批判してたんですが、もはやハゲ連中の暴走は止まらない( ̄□ ̄;)
そして、当時建設された原発のひとつが…、
(1974年の新聞らしいです。)
っていうか、もしかして、自民党って、原発作るために作ったのかなw。
311の有様を見て、湯川先生も、草葉の陰で嘆いてらっしゃる事でしょう('-^*)/