【死は潔いのか?】そもそも武士道って何よ?&ドイツの場合など | 優しい世界・還暦の逆襲

優しい世界・還暦の逆襲

コロワクのせいで死にかけました。生きてるうちに、言いたいことを言わせていただく!

ども~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!

いやー、みなさん、おかげさまで、今日、ノルマンディー上陸作戦70周年ですが、ボクは52歳になりましたよо(ж>▽<)y ☆キャッホ~~~~イ年寄りだwww。

せっかくノルマンディーなんで、ドイツSS戦車隊大活躍の巻でも書きたいとこですがw、昨日以来の疑問、やたらと自決を強要する日本軍のノリはどっからきているかという点について、まあ、例によってボク流ですが、考えてみましたよ。

まあ、一番に連想するのが、「武士道」の影響。

有名なのは、「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」という、江戸時代の佐賀藩士・山本常朝の「葉隠」っていう本。

でもね、これが書かれたのは、1716年、大坂の陣から100年後ですよ。平和な時代ですよ。

例によって司馬遼太郎の幕末ものを読んでると、よく書いてあるんですが、たとえば、刀は武士の魂とか、そういうのは全部、江戸時代、平和でヒマだったから考えられた、戦国時代までは全く存在しなかった後付の倫理とか哲学だと。

なので、幕末になると、そういうのにドップリつかって、毎日なにもしなくても、藩から給料もらえて、家来を養うのが仕事のような武士ほど、「鉄砲は足軽の持つものだ、俺には無用!」とかゆって、近代化をいやがった。

典型的なのが、徳川幕府の直属親衛隊・直参旗本、通称「旗本八万旗」と呼ばれた高給取りの人々。実際は幕末で約3万人いたそうですが、優雅な生活が260年続いたせいか、もう全く戦力にならなかったとのこと。

なので、幕府はせっかく、フランスから教官を呼んだはいいが、困ってしまって、結局、火消しやとび職、博徒を集めて作った西洋式軍隊が「幕府歩兵」ですよ。

最新兵器を装備した幕府歩兵


でまあ、ご存知のとおり、幕府の宿敵・長州藩でも事情は似たり寄ったりで、下関で外国船と戦ったときも、長州の既存の武士は役に立たなかったので、高杉晋作が奇兵隊を作った。

で、第二次長州征伐で、幕府と長州は本格的に激突するんですが、長州の正面玄関というべき、広島との国境で、最初に侵攻してきた幕府軍は、井伊彦根藩(&越前高田藩)だったんですが、井伊藩は、関が原以来の伝統の「井伊の赤備え」と呼ばれる、鎧甲冑の完全装備で、ゾロゾロやってきたところを、待ち伏せしていた長州奇兵隊の猛射撃を浴びてあっけなく敗走。

関が原でも活躍した、井伊直正の甲冑。
これが幕末にも大量に出現したという(  ゚ ▽ ゚ ;)



このときの長州藩の服装はもう、鎧とか一切なしの運動性を重視した、ジャージみたいなもんですよ。なので、この状況を評して、勝海舟は「長州人は紙くずひろいのような格好でやってきた。戦はこうでなくっちゃいけねえ。」と言ったそうですw。

ま、だいたいこんな格好ですよw。変な元総理が約1名、混ざってますがw。



そしてその後、第2陣として現れた幕府歩兵と、長州奇兵隊は、互角の勝負となり、停戦まで続きます。

まあとはいえ、薩摩、会津、長岡みたいに、農民、町人は一切使わないで、藩士を近代化したとこも多いですけどね。

じゃあ、戦国時代はどうだったかと、強引にジャンプしますが、たとえば、関が原で対決した、徳川家康と石田三成。

家康なんて、もう武士道もなにもなく、あの手この手で相手に、いちゃもんをつけ、挑発し、だまし、裏切りも上等、みたいな感じで勝ち残った人だしw、石田三成は、関が原で負けても、山中を逃げ延びて、自分の領地に潜伏し、見つかって捕らえられて、さらし者になっても、まだ生きようとしました。

有名なエピソードですが、三成の処刑も近いころ、見張りの兵士が、三成に、柿を差し入れしたところ、三成は「渋柿は体に悪いから食べない!」と言ったそうで、兵士は「もうどうせ死ぬのに変なやつw」とあざ笑ったそうですが、三成はそれに対して「俺ほどの大物になると、ほんのわずかでも生き延びる可能性がある限りは、体をいたわるんだ。お前ら雑魚にはわかるまい。」と言ったそうです。

とにかく生きて生きて生き延びて、いつか家康を倒してやるという凄まじい執念ですよね。

ふぅー、ここでやっと日本軍に話を戻しますが、東条英機が止めをさすように「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱めを受けず」と言ったことで、捕虜になれない日本軍という図式が定着したようですが、昨日のジュネーブ条約でも出てきましたけど、果たして、捕虜になれると思ったら、兵士はやる気がなくなってしまうのでしょうか?

千坂さんじゃないけど、捕虜になっても、すきあらば脱走し、また戦線に復帰すればいい、という考え方が、欧米の兵士には見られるような気がします。「大脱走」っていう映画もあるしw。

実際、ナチス武装親衛隊の名物男「パンツァー(戦車)マイヤー」ことクルト・マイヤー(ドイツ軍で最年少で少将になった人)も、あっさり捕虜になってるし。

ロシア戦線や、ノルマンディーでの勇戦敢闘で有名なクルト・マイヤー。
武装SSの権化のような人w。
ノルマンディー戦後の1944年9月、ベルギーのリエージュで、
レジスタンスに捕らえられ、捕虜になった。
また、ドイツ軍では「元帥は捕虜にならない」という不文律があったとされるが、
パウルスとルントシュテッドの二人の元帥は生きて降伏した。


もちろん、キリスト教が自殺を禁じているのは大きいと思いますけどね。

あと、どっかで読んだけど、捕虜にならず自決するという、日本軍の「掟」は、逆に、日本軍の作戦を縛っていたという説。

つまり、戦略上、ある地域から撤収したいと上層部が思っても、そこが、たとえば、島とかで、物理的に撤収が難しい場合、撤収命令は、すなわち、自決を促す事になるので、うかつに出せなかったという…。

強引な結論ですけど、明治になって、武士は消滅し、なにか軍の倫理観のよりどころはないか、ということで、わかりやすい、江戸時代の「武士道」を、タテ社会に都合のいい形で取り入れちゃったんじゃないでしょうか?

一応、Wikipedia「武士道」 にも、武士道の再評価は、日清戦争後から、とあります('-^*)/

まとめ

戦国時代「え?ブシドー?? 何それ?? あ、捕らえた女子供は軽くのこぎりで引いて、あと串刺しでwww。」

江戸時代「あー、ひまひま、超ひまwwww。ってゆーか、そうだよねー、やっぱ、武士は潔くぅ、死ぬのがかっこよくね≧(´▽`)≦」

幕末「え? 鉄砲撃ちたくない?? あ、じゃ、帰っていいっすよ(・∀・)町人呼ぶしw。」

日清戦争のあと「やっぱ、日本帝国軍人は武士道だよねо(ж>▽<)y ☆とっとと死ね! …ってことにするでアリマス!!」