《 芸術はすべて、「自分」と「自分の魂」との「対話」である。》 

   高田博厚



《 年月は仕事に熱中している高田さんをおいて進行した。だから歳をとったのは年月であって、高田さんは青年のままでいる。オーソドックスで古典的なるが故にみずみずしい、これが高田さんの彫刻である。》

   矢内原伊作



《 高田博厚さんとのおつきあいの始まりは、NHK総合テレビのインタビュー番組「女性手帳」にご出演いただいた時からですから、もう、かれこれ十二、三年前のことになります。その時は、彫刻の話を五日間のシリーズでじっくりうかがいました。
 戦前から戦後にかけての三十年間をパリで過ごされた高田さんには、何ものにもとらわれない自由な精神が身についていらっしゃるように思えます。お話の内容の面白さもさることながら、孫のような年齢の私に、一個の人間として、対等に接してくださったことが忘れられない感激でした。
 それ以来、すっかり高田ファンになってしまった私です。暇を見つけては、鎌倉の高田さんのお宅へお邪魔するようになっていました。高田さんはいつも機嫌よく迎えてくださり、文学や美術の話から、戦時中のヨーロッパでの体験談、食物談義に至るまで、さまざまなお話を聞かせてくださいます。加えて、高田さんの作品の数々を拝見できることが楽しみでもありました。四、五年たった頃でしょうか、高田さんから突然お手紙をいただきました。
「お願いがあります。顔のモデルになってくれませんか」
・・・・・・
 はたしてうまくモデルが務まるかどうか不安ではあったのですが、好奇心も手伝ってお引き受けすることに決めました。
 夏の暑い盛りの一日、車を運転し、鎌倉の高田邸へうかがいました。高田さんのアトリエの内部は、天井が高く、かなりの広さで、そこここに、大きなブロンズのトルソがおかれていたり、描いたばかりらしい裸婦のデッサンが並べてあったりします。中央にはモデル台。その上の椅子に恐る恐る座りました。
 作業台の上のビニールのおおいがはずされ、さらにぬれた布がはがされますと、高さ四十センチ足らずの粘土の像が現れました。首から上の女性像です。写真をもとに、私の顔の感じがつかんであり、ほぼでき上がりかけているよう見えたのには驚きました。
 高田さんのお仕事中、座っていても初めは肩に力が入って困りましたが、おしゃべりをしているうちに緊張もほぐれ、気づいた時には一時間ほどたっていました。
「ご苦労さま。もういいですよ」
 私の目には、像はもう完成かなといった印象でした。ほっと息をついたとたん、
「ここまでは簡単。これからが難しいんだよ。また来てください」
 とおっしゃいます。
 高田さんの手は一本一本の指ががっしりと力強く、不思議に表情があります。スイスでロマン・ロランの像を作った時、ロランから「タカタは指で思索する」と言われた手です。
 高田さんのおっしゃる通り、大変なのは確かにそれからでした。
「これからは、作品としてどう面白くなるか、澄子さんという人をどう出すかということに悩むんだ」
 それからは、二十日に一度くらいのペースで、定期便のようにアトリエにうかがうことになってしまいました。それが半年間続き、待望のブロンズができ上がったのは、なんと翌年の五月でした。
「これで完成と思ったことは一度もないよ。もうこれ以上はどうにもならなくなるんだね」
 創るということの厳しさをつくづく感じさせる高田さんのつぶやきでした。
 いま、いただいたブロンズ像は、私の部屋にあります。
 その横顔は少し寂しそうで、しかし意志は強そうで。前方を見つめる視線には迷いがないかのよう。向き合うと、私自身の内面の未熟さを指摘されているように思えてなりません。そして、高田さんのこわい言葉がいつも聞こえてきます。
「あと二十年たったら、こういう顔になりなさいよ」
 モデルになったことは良かったのか悪かったのか。ともかく、いい加減な生き方だけはできなくなったと感じています。》

   室町澄子
 
 

 出典: 高田博厚著作集II 月報(1985.7)



室町氏の文は全体にわたって内容が貴重で高く評価される。NHKは高田先生の記録フィルムが残っていたら作品にして直接ぼくに知らせてください。最近の報道は間延びして品もなく見る気がしないから(大衆迎合が甚だしい)。