敗戦投手への手紙 | 話の種(仮)

話の種(仮)

「ハッキング」から「今晩のおかず」までを手広くカバーする・・・?
ひねくれすぎて素直・・・?な、徒然ブログ。

「ゲームセットが宣せられた瞬間の/初めてくずれたきみの表情が/忘れられません」
高校野球を愛した作詞家、故・阿久悠の心も動かしたあの試合。「きみ」と語りかけた相手は、宇部商(山口県)の元2年生エース藤田修平。阿久悠から贈られた詩↑「敗戦投手への手紙」は、藤田の自宅玄関に今も飾られている。
1998年(平成10年)8月16日。第80回の夏の甲子園大会。
“平成の怪物”松坂大輔擁する横浜(東神奈川)が、準々決勝で、上重聡(PL学園→立教大→現・日本テレビアナウンサー)擁するPL学園(南大阪)との延長17回の死闘(9-7で勝利)、準決勝・明徳義塾(高知)との試合での6点差逆転勝利(8回まで0-6から7-6でサヨナラ勝利)、決勝・京都成章(京都)戦ではノーヒット・ノーランで優勝&春夏2連覇達成、と、まさに松坂大輔のためにあったような大会。
その2回戦。
古木克明(豊田大谷→横浜→オリックス→ハワイ・スターズ→引退)擁する豊田大谷(東愛知)対、藤田修平、上本達之(宇部商→協和発酵→西武)、嶋村一輝(宇部商→九州国際大学→オリックス→横浜→横浜コーチ)の宇部商の試合。
宇 0 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 =2
豊 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0 1x =3
延長15回裏、豊田大谷の攻撃。無死満塁。
宇部商・藤田の211球目、セットポジションに入り腕を少し前に出したが、キャッチャーの複雑なサイン動作に、藤田は無意識に投球動作を中断して腕を後ろに戻してしまった。
球審・林清一は「ボーク」を宣告。
「ボーク」・・・ピッチャープレートに触れているピッチャーが、投球に関連する動作を起こしながら投球を中止した場合、投手の反則行為として、各走者は一個進塁。
3時間52分に及んだ試合は甲子園大会史上初の「サヨナラボーク」という呆気ない結末となった。
マウンドに立ち尽くした藤田は、「悲劇のヒーロー」として話題になった。
『負けたことはすぐにわかりましたが、頭の中が真っ白で、何でボークなのか全然わからなかったんです。原因がはっきりわかったのは、地元に帰って試合のビデオを見てからじゃないでしょうか』と・・・・当時を振り返る。
『あの試合は明らかにサインがバレていた。それでランナーがいるときは2度サインを出して、ひとつはダミーにすることを決めたんです。
ただ、急遽やったので、バッテリーの呼吸が合わなかった。
ボークを取られた時は1回目のサインで自分がうなずいたので、もう決まったと思って投球動作に入ってしまった。
だけど、まだサインが出ていたので、『あれ?』みたいな感じでとっさに腕を戻してしまった。振り返ると今でも悔しい。打たれるか抑えるか、はっきり決着をつけたかったので。 それと3年生には申し訳ない気持ちでした』と・・・・語る。
その3年生からは「悔しかったら来年行けばいい」と激励され、地元に帰っても藤田を悪く言う者は一人もいなかったという。
『うれしかったですね。自分は周りの人に支えられているんだなって、すごくわかりました。だから感謝する気持ちを忘れず、謙虚にひたむきに頑張らないといけないと思いました』
翌年は地方大会で敗退。雪辱はかなわなかった。
その後。福岡大に進み中退。三井金属鉱業系列の「彦島製錬」(山口県)の軟式野球部に所属。強豪の軟式野球部に所属するには、人事異動がある大卒ではなく、高卒として入社する必要があったため。
左肩の故障のため、投手として試合に出ることはほとんどないが、「雑用とか、自分にできることをやって、できる限り野球部にいたい。今でも野球が好きなんです」
2006年に結婚し、3人の子供を授かっている。
藤田は、以前、雑誌の取材に対して、「あの炎天下の中で、ボークを宣告した林さんはすごいと思う。あの状況で冷静な判断が出来ることがどれだけ難しいか。いろいろ言って下さる方もいましたが、結果的にミスをしてしまったのは自分ですから。できれば林さんとお話してみたい」と笑顔で語っていたと言う。
◆現代ビジネス スポーツ裏方NAVI
(2014.5.14)
林清一(日本野球連盟国際審判員)<前編>「信念の“延長サヨナラボーク”宣告」
「私たちはルールの番人ですから」。詰め寄る記者に、審判委員幹事(当時)の三宅享次は、落ち着き払った態度でそう言い切った。その言葉に、隣席の林清一も深くうなずいた――。
1998年8月16日、第80回全国高校野球選手権大会。第11日第2試合、2回戦の宇部商(山口)-豊田大谷(東愛知)の試合後、甲子園史上初の“延長サヨナラボーク”宣告をした球審・林のジャッジが物議を醸した。翌日、スポーツ紙の一面には林の顔と名前が掲載され、高校野球連盟には林への抗議の電話が殺到した。だが、それでも自らが行なったジャッジに、林の気持ちが揺らぐことはなかった。そこには、審判員としての信念があった。
◇悲劇と化したフェアなジャッジ
「ボーク!」
球審の林が両手をあげると、甲子園の空気が一変した。5万人が見つめる中、林はスススッとマウンドに向かって歩を進め、ピッチャーとキャッチャーの間に入って三塁走者を指した。そして、生還を促すジェスチャーを2度、繰り返した。延長15回。3時間半を超える大熱戦に終止符が打たれた瞬間だった。
炎天下の中始まったその試合は、2-2のまま延長に入ったが、両校ともに得点を挙げることができず、なかなか決着がつかなかった。迎えた延長15回裏、豊田大谷はヒットと相手のエラーで無死一、三塁と、一打サヨナラのチャンスとした。ここで宇部商は次打者を敬遠し、満塁策をとる。無死満塁。ここまでひとりで投げ続けてきた宇部商の2年生エース藤田修平は、ボールカウントを2ストライク1ボールとして、追い込んだ。そして勝負の211球目を投げる……はずだった。
キャッチャーのサインを確認した藤田は、セットポジションに入ろうと、腰部分に構えていた左手を下ろし、右手のグラブに収めかけた。ところが、藤田はその左手を再び腰へと戻してしまったのだ。左足はプレートから外されてはおらず、明らかな投球モーションの中断である。ボークが宣告され、三塁走者が生還。3時間32分の熱戦は思いもよらない幕切れとなった。
この“延長15回サヨナラボーク”は、多くの高校野球ファンには“悲劇”と映った。試合後、林は記者に囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられた。ほとんどが、藤田に同情を寄せるような内容だった。林は「藤田くんがプレートを外さずに、動作を中断した。明らかにボークでした」と繰り返し説明した。それでも「注意でも良かったのでは?」と食い下がる記者もいた。収拾がつかない場に幕を引いたのは、同席していた三宅の言葉だった。
「我々はルールの番人ですから、それはできません」
林はようやく記者から解放された。
◇お茶の間を納得させた言葉
しかし、相変わらずお茶の間では“悲劇”のまま、林への否定的な意見が蔓延していた。まるで犯人扱いされる林を救ったのが現在、巨人の監督を務める原辰徳だった。当時、野球解説者だった原は、テレビのスポーツ番組に出演した際、こう言ったのだ。
「あれは完全なボークです。的確にジャッジした審判員を、私は称えます」
この言葉で林への世間の見方が変わった。
「それまでは世間の風当たりは非常に冷たかったんです。ところが、原監督がテレビでそう言ってくれたおかげで、逆に『よく、ボークをとった』なんて言われるようになったんですよ。本当にありがたかった。今でも原監督に会うと、あの時のお礼を言わずにはいられないんです」
そして、林はこう続けた。
「選手たちが一生懸命にやっているからこそ、我々審判員も真剣にジャッジするし、情に流されることなく、容赦なくペナルティを与えるんです。それが審判員の務め。あの時、ボークをとっていなかったら、私は審判員をやめていたと思います」
2013年7月、林は32歳となった藤田とともに、明治大学阿久悠記念館の来館者3万人を記念して行なわれたトークイベントに出演した。実に15年ぶりの再会だった。そこで2人の秘密が明かされた。“あの日”ボークを宣告された藤田は試合後、持っていたボールを球審の林に渡そうとした。勝利チームに記念として渡されるのが通例だからだ。だが、林は「そのまま持っておきなさい」と受け取らなかったという。かつて林も甲子園を目指した高校球児だった。藤田の気持ちは痛いほどわかっていたに違いない。だからこそ、投げることを許されなかった211球目、そのボールを藤田から奪うことはできなかったのだろう。そして、それが審判員の林に許される精いっぱいの情だったのではないか。
◇判定に限らない審判員の役割
審判員は何もペナルティを与えることだけが仕事ではない。選手の気持ちを和らげ、持っている力を十分に出せるような工夫もしているのだ。
「例えば、9回2死で代打に送られた選手のほとんどは、足が震えているんです。球審に自分の名前を告げるのに、緊張のあまり『代打、僕です』なんて言う子もいる。そんな時は、やさしく『名前は何て言うの?』と聞いてあげるんです。そうすると『あっ、○○です』と答える。『じゃあ、深呼吸して、2、3回バットを振ってね』と言って、たいして汚れてもいないホームベースをはきながら、少し時間を与えてあげるんです。その子にとっては、最初で最後の舞台かもしれない。いや、もしかしたら野球人生最後の打席になるかもしれないわけですからね」
そして、こう続けた。
「そんな子に、いい加減な気持ちでストライクやボールをジャッジすることはできませんよ。それは地方大会の初戦でも同じです。我々審判員は選手が気持ちよくプレーできるようにすることが何より重要。だからこそ、どんな試合でも真剣に、ルールに乗っ取ったフェアなジャッジをしなければいけないんです」
林がそんな風に思えたのは、甲子園の審判員を務め始めてから、約10年が経った頃だったという。それまでは、自分のことで精いっぱい。とにかくミスのないようにしなければいけないという思いが先行していたからだ。
「最初は、軽い気持ちで審判員を引き受けたんです。ところが、やればやるほど大変だということがわかった。ミスをしないのが当然で、ちょっとでもミスをすればスタンドから『林! へたくそ!』って、名指しで容赦なく罵声を浴びせられる。帰り道、涙が出るくらい悔しくてね……」
そんな時、林がいつも思い出す言葉があった。
「名前を覚えられないのが名審判」
日本のアマチュア野球界きっての名審判であった、郷司裕からの訓示だった――。
◆阿久悠氏「“甲子園の詩”を語る」…15年ぶりの再会
(2013.7.21スポーツニッポン)
明大阿久悠記念館の来場者3万人記念イベント「“甲子園の詩”を語る」が20日、東京都千代田区の明大駿河台キャンパスで行われた。
07年に他界した作詞家・阿久悠氏が79年から06年までスポニチに連載した「甲子園の詩」をテーマにしたトークショー。「林さんに会って、元気でやっていますと言いたくて山口から来ました」。98年、豊田大谷戦で延長15回にボークでサヨナラ負けした宇部商の元投手・藤田修平氏は、ボークを宣告した球審の林清一氏と15年ぶりの再会を果たした。
藤田氏の言葉に「感無量です」と声を震わせた林氏は「試合後、藤田君がボールを渡しに来た。普通は勝利チームに渡すが、彼に“そのまま持っておきなさい”と言った」と当時の秘話を披露。「あのときボークを取れなかったら審判を辞めていたかもしれない」と振り返った。
阿久氏が書いた「敗戦投手への手紙」という詩がきっかけで実現した、悲運のエースと元審判の心の交流。高校野球ファンが詰めかけた会場は感動に包まれた。




藤田修平君
しかし きみは
敗戦投手になりました
幕切れは
熱闘のフィナーレにしては
あっけないものでした
ゲームセットが宣せられた瞬間の
初めてくずれたきみの表情が
忘れられません
きっと永く忘れられないでしょう
一九九八年の夏を終わらせる
きみの哀しい表情でした
藤田修平君
来年また逢いましょう