震災復興プロジェクト気仙沼ミサンガのプログ

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震災復興プロジェクト「気仙沼ミサンガ」についての近況やイベントなどを紹介しています。

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あんなに必死に”生きた”のは初めてでした。
”生きる”ことはあんなにも辛く難しいことなのだと思い知りました。


自宅であの瞬間を迎えたとき、最初に頭をよぎったのは2階で1人眠る我が子のことでした。
次々と物が倒れ、落ちる大きな揺れの中を、子供の事だけを考えて私は階段を駆けあがりました。
子供の無事を確認し、抱きかかえながら、恐怖心を覚えることも自分の心配をすることもなく、まっしぐらにベビーベッドへ走った自分の姿にふと気が付き、揺れの中で私は、私自身が”母親”であることを改めて実感していました。


大津波警報が出ていることは知っていましたが、高台に位置する我が家からは市街地の様子は分からず、停電でテレビもつかなかった為、情報は得られませんでした。
家族の無事以外の被害の様子が分からないまま夜を迎え、私は戦慄することになります。
赤々と燃え上がる遠くの空、轟く爆発音…大変なことになっていると、この時初めて理解したのです。


職場が津波に浚われた夫は失職、自宅では得られない支援や商店の営業再開の情報を行き交う人々から集める為毎日早朝から国道に立つ日々、私達家族の生きる為の戦いの日々はこうして始まりました。


作り手:佐々木亜希
いつもと変わらぬ普通の金曜日を突然襲った激しい揺れ。
必死に戸棚を抑える私達を嘲笑うように、揺れは中々止まなかった。


大津波警報の報を聞き、職場の同僚達とお年寄りの手助けをしながら高台を目指す。
やがて津波がやってきた。
「これくらいなら大丈夫」と思ったのも束の間、大きな音を伴いながら第一波を上回るうねりが押し寄せ、小泉大橋を流し去り、街を呑み込んでいった。
慌てて更に高台へ逃げて難を逃れた。
ビニールシートを数人で持ち上げ屋根にして吹雪を凌いだ。
18時頃に波が落ち着いたのを見て避難所へ。


駆け込んだ400人近い住民に対して食糧は100人分。
近所の農家の備蓄を提供して貰い、炊き出し係をかってでた。
手を止めると、安否の分からない母と娘の心配が頭をよぎる。
溢れだす涙を堪えるため、他の事で頭を一杯にしておきたかった。


翌日、通れる道があることが分かり2時間かけて帰宅した。
私を見た娘が抱きついてきてずっと離れなかった。
母に聞くと娘は丸1日「お母さん」と口にしなかったそうだ。
聞くのが恐かったのだろう。


職を失い、その後交通事故にも遭って後遺症で働けずにいる。
ミサンガ作りは私達の希望。
「普通」の生活が戻る日を夢見て編みます。


作り手:岩渕恵子
今までに感じた事のない激しく大きい揺れと、自分の立っている地面がみるみる液状化していく光景を目にして、「これは普通の地震と違う」と直感しました。


急いで職場から家に帰り、息子達を迎えに行きました。
中学校で息子たちと無事合流でき安心したのも束の間、私たちはそこで、黒くて大きいものが家と家の間から迫ってくるのを見ました。
恐怖と寒さの中、大きな津波が町を飲み込んでいくのをただ見ていることしかできませんでした。


幸い、家は津波の被害がなく無事でしたが、ライフラインも止まっていて頻繁に起こる余震にとても不安でした。
しかし、トラックのドライバーをしている夫はあの日三重県にいました。
それでも、高速道路が規制されているにも関わらず、次の日の午前に再会でき本当に安心しました。


息子の送迎があるため、家で出来る仕事としたいと思っていたところに、ミサンガプロジェクトを見つけました。
少しでも前向きに、前進したいです。
いつまでも暗い気持ちを持っていてはいけないですよね。
日本中、お互い助け合って生きていきたいです。


作り手:熊谷ふみ子