人類皆兄弟と言ったりする人がいるビックリマーク
兄弟であり平等であると言ったりもする。
国連は人、一人の命は地球より価値があり重いと言うパー
ホントに平等だろうか?
イヤそれは違う爆弾
生まれながらに裕福の家庭に生まれれば金銭的に人生は楽だしそうでなければ金銭的な努力がつきまとう。

美人はいつも優遇され、残念ながらそうでなければそれなりに努力が必要かもしれない。
結局平等ではないんだ。

才能は物事を有利に進められる、でも、その舞台が無ければ使う才能も無い。
舞台に上がる為には何が必要か?
チャンスだビックリマーク
チャンスを獲る為には生きるのが最低条件だ。
生きるとは暖かい家と食べ物とチャンスを獲得する為の金が必要かもしれない。
アジアの世界では特にそれを感じる。

貧困は罪だろうか?
アジアではよくスリや置き引きの被害に遭う日本人が多いとか言う話を聞いたりする。
俺に言わせれば間抜けなんんだけなんだけどね。
貧困に喘ぐ地域の人々に取っては生きるスベなのだから仕方がない。
つまり、生きる術(すべ)とは仕事と言う言葉にいい換えられる。
職業がスリ、置き引きとしているヒトたちはかなりの地域で存在する。

また、南アフリカでサッカーワールドカップが開かれる直前の様子がテレビ取材で観ることが出来たが、やはり職業がスリと言う現地人がいた。
勿論、誉められた仕事ではない。
しかし、彼等にも家族が居て養うべき存在の為にそれを職にしなくてはいけないと言う場合、あなたはどう理解するだろうか?全力で職業スリ、置き引きを責められるだろうか。
DASH!
ではこれはどうか?
職業、売春はどうだろうか?彼女達は生活、やはり誰かの生活の為に、誰かを養う為に身体を商品にしている。
それでもあなたの軽蔑の眼は100%目を反らすことなく罰するだろうか?
欧州のある国の売春婦は働いているのだからと言う理由でしっかり国は彼女達から税金を搾り取っていると言う国も存在している。
つまり国によっては法律にのっとった職なのだ。
スリや置き引き、売春を肯定する氣はない。
しかし、なぜアジアにこの様な世界が多いのだろうか?
あるヒトは貧困だから仕方が無いといい、あるヒトは教育を受けていないせいだと言いきる。前者は変化を諦めた意見だし、後者はその人々を見下した意見に聞こえてしまう。では、なにから着手スべきなんだろうか?

俺には分からない。
でも、俺に出来ることは何か無いだろうか?
だから、手始めに孤児院の子供達の「足長おじさん」からはじめてみることにした。
分からないながら動くことにしてみたんだ。
その活動は砂漠にコップの水を撒いてオアシスを作る様な作業かもしれない。
コップの水を撒いて砂漠ではあっという間に蒸発してなかったことになってしまうかもしれない。
しかし、


しかし、そこに仮に種が埋まっていたとすれば僅かながらの成果があるかもしれな
い。
手を差し伸べ続けた中に大木になる種が埋まっているかもしれない。
出来る範囲で手を差しのべて俺が出来る何かをやり続けてみたいと思ってる。仮に大木にならなくても、種自体が埋まってなかったとしても俺は続けるつもりだよ。貧困だからと諦めさせない。教育を受けてナイせいだからとか言わせない。
自分に何が出来るのか、世界の何を変えられるのか実験中なんだ。
俺の舞台とは何か
俺に才能はあるのか?
世界は俺を必要とするのか?
そんなことを考えながら社会貢献活動、国際貢献活動に着手したところ。
俺が踊る舞台なんか無いかもしれない
俺の才能なんか無いかもしれない
世界が必要となんかしてないかもしれない

でも、そんなのやってみないと判らねーじゃねーか。



あっ、俺?
今ねフィリピンに来ているよ!
フィリピン日記をアッップして行きます。こっちみてねー
http://www.ken-yamamoto.com/?cat=7ー