久しぶりです。テレワークな毎日の私です。
最近は健康的な生活を送れていて(タバコもやめたし)、とても前向きです。

連休の締めに、アウトプット大全という本を読んでいる。

どうやらインプットよりもアウトプットが大事だというぞ。アウトプットすることで初めて脳は大事な情報だと記憶するようだ。
インプット頼りの学びをしてきたのだが、たしかにそうかもしれない。

というわけで、このブログを活用していこう。我が家にはいま、パソコンがないので打つのに苦労するのだが、パソコンを買うまでの辛抱だ。。


ちなみに、前回書いた試練は、ほぼほぼ乗り越えられました。人生これからだ。僕は今年生まれたようなものだ。頑張った自分を褒めてやりたい。
前にブログを書いてから結構な時間が経った。
書くタイミングを伺っていた、と言った方が正しいかもしれない。

いろいろなことがあって、いまもその渦中だったりする。

端的に言えば、僕は本当に前向きになった。
昔の記事を読むと、こんな後ろ向きなことを考えていたのかと、驚く程に。

人はどうやら、変われるらしい。
生まれ変われる程に、人は変わることが出来る。

以前僕は、この世の中は地獄で、その中で天国を見つけることが大切だと書いた。
それはそれできっと、間違ってはいない。完全に否定はしない。だけど今は、ちょっと違うふうに思っている。

世界は、天国で溢れている。
すぐそばに、天国はたくさんある。
ただ、それに気づかず、また、地獄色のメガネをかけて生きていると、地獄に見える。
そのメガネを外してみよう。容易には外れないこともあるかもしれないが、勇気を持って、外してみよう。そうするとすぐそばに、天国は溢れている。

メガネを外すにはどうしたらいいか。
生きるって決めることだ。もしそれまで、生きることに消極的だったなら、貪欲なまでに生きることに食らいつくことだ。呼吸が上手くできること、よく眠れること、食べ物が美味しいこと、どんな状態であっても今この瞬間に生きていられること。そんな当たり前が当たり前じゃなくなったとき、地獄色のメガネはすんなり外れる。

天国に戸惑うこともあるだろう。こんなに近くにあったなら、今までの苦労はなんだったんだ!なんて思うこともあるだろう。そう思うことは、自然なこと。受け入れていくことが大事。地獄色のメガネを外せたなら、もう幸せになっていい。長い苦労は終わり、新しい人生が始まってゆくのを、その事実を、受け入れていい。

抽象的で申し訳ないが、今の僕に言えるのはそんなところだ。

いま僕は、難しい課題と向き合っている。
正体の見えない、とても難しい課題だ。
だけど僕は、今度こそは必ず、乗り越えてみせるよ。生きるってことを諦めないよ。大げさかもしれないけど、そう思っている。僕にら生きる理由が、生きたいと思う理由がたくさんある。この課題をクリアしたらやりたいことがたくさんある。希望がたくさんある。だから諦めない。ただひたすら、自分の可能性を信じて、やり遂げてみせる。

今日はどうやら眠れない夜だが、そんな時でも、希望は捨てない。

生きてます。

ここ数ヶ月、本当に大変だった。
まだ過去形にするには早いけど、本当に大変だった。
体調をくずした。僕自身の考え方も変わった。

人を避けた。心を守るために。

これは転機なのかもしれない。



メリークリスマス。世界。

少し早いけど。 

疲れてコンタクトレンズを外した裸眼の瞳に、街の灯が滲んで映る。

水面に浮かぶネオンライトをぼんやり見つめながら、生きている理由を説明する。

死にたいと言っているやつに限って随分と生きながらえるものらしいから、そういった意味では心配は無いよ。

また少し生きた分だけ、髪の毛が伸びた。
また少し生きた分だけ、服が少しほつれた。

それを僕らはなんと言う。なんと呼ぶ。

また少し生きたから、今年が終わる。

その積み重ねを、人生と言う。


ちょうど1年前の今頃、ぼくは、こんな記事を書いていたことをamebaの通知によって知った。そしてそれについて考えていた。嗚呼、もう1年前なんだと思った。

ただ、1年前とは思えないほど鮮明に思い返すことのできる、この思い。この気持ち。

今も変わらないそんな心は、どこから生まれたのだろうか。人は何ゆえに生き、何ゆえに暮らすのか。それが不可思議でならないほどに、人の暮らしから程遠いところにぼくの感覚は未だに在る。

言いたいことがまとまらない。最近はあまり。

ただとにかく、天国探しは続くだろう。
憂いを抱くことはもはや、やむを得ない。その中で、天国を見つけること。ただそれだけ。ただそれだけを楽しみに。


帰り道に立派な金木犀が咲いてる。
僕は近頃、それを胸いっぱいに嗅いでその道を通るのを密かな楽しみにしている。

金木犀の香りとは、どうしてあんなにも、心の奥底に染み渡っていくのだろうか。金木犀には縁もゆかりもない筈なのに、忘れていたはずのいろんな記憶に香りが届くような思いがする。

誰にとってもそうだろうか。
そうだとしたら、それはとても素敵なことだ。
世の中に散りばめられた宝物の一つだ。
世界の秘密に、触れた気がする秋の夕暮れ。


また今夜も眠れぬ夜になりそうだ。

夜はしんしん 静けさに

そそのかされて 思いが膨らむ。

夜はしんしん 侘しさに

在りし日の私を 憐れと思ふ。



故郷の空は、ゴジラ雲。

その熱い炎で、あの人の憂鬱、灼いてくれ。


故郷の空は、ゴジラ雲。

その大きな足で、あの町の閉塞感、ふみつぶせ。


故郷の空は、ゴジラ雲。

僕は故郷を捨てたけど、忘れたわけじゃあないんだよ。

どうかどうか、お救いください。

故郷に浮かんだ、ゴジラ雲。

 

 

 

 

 

最近また、森山直太朗さんを聴いています。

ロックも勿論好きですが、最近、こういうアコースティックな感じというか、しんみりした曲も好きです。

 

「躊躇いがちな人生でしたが、自分の素直な気持ちと向き合い決心しました」

 

こちらは、森山直太朗さんの、結婚に際してのコメント。

こういうことが言えるのが、いいなあ。

 

 

 

夏休みも、もうすぐ終わりです。

 

どんなに粘ってみても、
導火線のようにじわりじわりと時間は過ぎゆき、
日をゆっくりと食べてゆきます。
せっかくなので「銀河鉄道の夜」の中で、
好きな表現をひたすらに書いていきます。
 
 



ジョバンニは、口笛を吹いているようなさびしい口付きで、檜の真っ黒にならんだ町の坂を下りて来たのでした。

 
ほんとうにこんなような蝎だの勇士だのそらにぎっしり居るだろうか、ああぼくはその中をどこまでも歩いてみたい。

 
空気は澄みきって、まるで水のように通りや店の中を流れましたし、街燈はみな真っ青なもみや楢の枝で包まれ、電気会社の前の六本のプラタヌスの木などは、中に沢山の豆電燈がついて、ほんとうにそこらは人魚の都のように見えるのでした。
 

あああの白いそらの帯がみんな星だというぞ。ところがいくら見ていても、そのそらはひる先生が云ったような、がらんとした冷たいとこだとは思われませんでした。それどころでなく、見れば見るほど、そこは小さな林や牧場やらある野原のように考えられて仕方なかったのです。

 
ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。

 
そしてジョバンニはすぐうしろの天気輪の柱がいつかぼんやりした三角標の形になって、しばらく

のように、ぺかぺか消えたりともったりしているのを見ました。それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、鋼青のそらの野原にたちました。いま新らしく灼いたばかりの青いの板のような、そらの野原に、まっすぐにすきっと立ったのです。


 

するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションとう声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中にめたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざとれないふりをして、かくして置いた金剛石を、かがいきなりひっくりかえして、ばらいたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼をってしまいました。

 

そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどきの加減か、ちらちらいろのこまかな波をたてたり、のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き、野原にはあっちにもこっちにも、燐光の三角標が、うつくしく立っていたのです。遠いものは小さく、近いものは大きく、遠いものは橙や黄いろではっきりし、近いものは青白く少しかすんで、いは三角形、或いは四辺形、あるいはの形、さまざまにならんで、野原いっぱい光っているのでした。ジョバンニは、まるでどきどきして、頭をやけにりました。するとほんとうに、そのきれいな野原中の青や橙や、いろいろかがやく三角標も、てんでに息をつくように、ちらちらゆれたりえたりしました。

 

「ぼくわからない。けれども、だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おっかさんは、ぼくをゆるして下さると思う。」カムパネルラは、なにかほんとうに決心しているように見えました。金剛石かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、や草のやあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光のした一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもうった北極の雲でたといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立っているのでした。

 
カムパネルラのは、まるで熟した苹果

のあかしのようにうつくしくかがやいて見えました。

 


そして島と十字架とは、だんだんうしろの方へうつって行きました。向う岸も、青じろくぽうっと光ってけむり、時々、やっぱりすすきが風にひるがえるらしく、さっとその銀いろがけむって、息でもかけたように見え、また、たくさんのりんどうの花が、草をかくれたり出たりするのは、やさしい狐火のように思われました。
 

窓の外の、まるで花火でいっぱいのような、あまの川のまん中に、黒い大きな建物が四ばかり立って、その一つの平屋根の上に、もさめるような、青宝玉黄玉の大きな二つのすきとおった球が、輪になってしずかにくるくるとまわっていました。黄いろのがだんだん向うへまわって行って、青い小さいのがこっちへ進んで来、間もなく二つのはじは、重なり合って、きれいな緑いろの両面レンズのかたちをつくり、それもだんだん、まん中がふくらみ出して、とうとう青いのは、すっかりトパースの正面に来ましたので、緑の中心と黄いろな明るいとができました。それがまただんだん横へれて、前のレンズの形を逆にり返し、とうとうすっとはなれて、サファイアは向うへめぐり、黄いろのはこっちへ進み、また丁度さっきのような風になりました。銀河の、かたちもなく音もない水にかこまれて、ほんとうにその黒い測候所が、っているように、しずかによこたわったのです。

 


「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。そしてわたしたちの代りにボートへ乗れた人たちは、きっとみんな助けられて、心配して待っているめいめいのお父さんやお母さんや自分のお家へやら行くのです。さあ、もうじきですから元気を出しておもしろくうたって行きましょう。」
 

ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のようでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い点点をうった測量旗も見え、野原のはてはそれらがいちめん、たくさんたくさん集ってぼおっと青白い霧のよう、そこからかまたはもっと向うからかときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のようなものが、かわるがわるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとおった奇麗な風は、ばらのでいっぱいでした。

 


ああそのときでした。見えない天の川のずうっと川下に青ややもうあらゆる光でちりばめられた十字架がまるで一本の木という風に川の中から立ってかがやきその上には青じろい雲がまるいになって後光のようにかかっているのでした。汽車の中がまるでざわざわしました。みんなあの北の十字のときのようにまっすぐに立ってお祈りをはじめました。あっちにもこっちにも子供がに飛びついたときのようなよろこびの声や何とも云いようない深いつつましいためいきの音ばかりきこえました。そしてだんだん十字架は窓の正面になりあの苹果の肉のような青じろい環の雲もゆるやかにゆるやかにっているのが見えました。 

 


「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなののためならば僕のからだなんか百ぺんいてもかまわない。」「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいながうかんでいました。

 


「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力がくようにふうと息をしながら云いました。