福田健太郎のブログ【太陽まで、あと一歩】

福田健太郎のブログ【太陽まで、あと一歩】

少しずつでも、前に進んで生きていきたい「ジブン」のためのブログ。
私も、そして、あなたも。

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久しぶりに書いてみる。

何かを伝えたいことがある、というわけでなく、自分の整理のために。



最近、頭がちぎれるほどに、ずっと考えていることがある。

今後の生き方について、だ。



なんというか、ヒマなのかもしれない。

そんなことを考えている間にも、時間は過ぎるのだから。



しかし、今。

考えなければならない局面に、差し掛かっている。



目先のこととして、「中国輸入ビジネスで、一定の売上を作る」というね。

やるべきことがあるから、それに集中しているけれど。



なかなかに不器用で時間もかかってはいるけれども、それでも。

形になってきたのだ。



おそらく、今月は250万ほどの売上になるのではないかな。

それは、確かに積み上げてきた成果だ。

時間がかかりながらも、着実に積み上げ、諦めなかったことの結果である。



しかし、自分にだからこそ、あえてこう言いたい。

「だからどうした」

と。




頭の隅に置いておいたことが、復活してくる。


「それから先、何したいの?」

「何のために、どこに向かいたいの?」




いろんな人がいていいのだけれど、僕自身のことを言えば

物販ビジネスを、今後30年もやっていくイメージは

今のところ見えない。



気が付いたら、やってしまっていた。

ということなら、あるのかもしれないが。



人生、まだあと30年以上もある。

目先の売上のことだけを考えて、もう、2年が過ぎてしまっている。



残、30年。

なにをして生きていきたいのか。

それは、物販か??



確かに、目先の売上。目標。

それはそれで、やるべきこともあり。

かつ、自分の人生に展望が開かれてきていて、幸せなことではあると思う。



でも、どうなんだろう?

もやもやが、売上の増大に関係なく、一向に消えない。



月商10万の頃というのは、楽観的に考えていた。

ある意味、棚上げをしていた部分もある。



「売上げが形になってきたら、きっと、やりたいことも出てくるだろう」と。




やりたいことは多々書き出したけれど、そのほとんどが、一瞬で終る。


◎どこどこに、遊びにいきたい

◎こんな家に住みたい

◎あんな車に乗りたい

◎美女と付き合いたい


だいたいそんな程度のことで、それらなんて、叶ったら嬉しいが

叶わなくても、実は大して支障ない。



それらのことを叶えたいなと書き出して、それをモチベーションにして

物販を継続してきた。

今後も、稼げるうちは継続はしていくだろう。

食っていくためにね。



しかし、その先は何だろうか。

食っていくためだけであれば、なにも自営業を選ぶ必要など、どこにもない。



もともと、僕は無趣味なのだ。

旅行にもさして興味ないし、遊び方は下手だ。

物欲もあまりないし、高級なところに住みたいという欲もない。



何もないから、夏だというのに、どこにも遊びに行かず。

ただただ、ひきこもって自宅のパソコンに向かい合って、作業だけをしている。

もちろん、その甲斐あってのことで、売上は好調だ。



この生活を継続すれば、経験値は蓄積され続けるし、

売上げはどこまでも伸ばし続けられる。



しかし、だ。



神の視点で、自分を俯瞰してみた時に。

寝て、おきて、部屋のなかでパソコンかちゃかちゃやって、1日が終る。

そんな1週間。そんな1年。



それで、幸福と言えるのだろうか?

人生が彩りあふれ、実りある1年といえるのだろうか??

言えないと思う。



たまに、実践仲間とで遊びにいくことは多少あるかもしれないが

その程度だ。

ぶつかりあうことも特になく、何もない。



目先のことをひたすら頑張っているけれど、その実、何もないのだ。

そんな風に最近感じていて、だからこそ、頭がちぎれるくらいに考えている。



売上が500万ほどまで膨れ上がったときに、また何か見えてくる部分もあろう。

が、同時に見えてこなかろうとも思う。



在中の校長の鈴木さんは、「だからこそ仲間と会う環境が大事だ」ということで

月1で会って、交流の場を設けてくれている。

基本、予定が合えば参加しているし、それは大事な交流の場だ。

ありがたく参加させてもらっている。




しかし、自分の答えにはならない。

いっとき、楽しく呑んで食べて、盛り上がっているだけのことだ。

それはそれで素晴らしいけれど、ちゃんと自分の答えを見据えなければ。



終わりのことを考える。

自分の死だ。



頭がちぎれるくらいに考えて、これかも?と納得できたこと。

それは「死ぬときに、自己肯定ができるかどうか」だと思った。

何も得られなかったとしても、だ。



人生が、もし仮に最悪の着地になったとして、それでも自分を肯定できるかどうか。

最悪とは、なんだろうか。



夢は、叶わなかった。

家庭はついぞ、持てなかった。

両親に、孫の顔を見せてやれなかった。

生活は、ずっと苦しいままだった。

後悔ばかりが、脳裏を去来する。



そんな、最悪。



人生の終わり際、そんな闇ばかりが

走馬灯のように走ったとしても。

「それでも、おれは今世を、めいっぱい生ききった。もがいた。やりきった」と。



そう思えたら、それが最後の防波堤だし。

幸せだったとは言い切れずとも、納得はできる。

未練なく、後悔なく、逝けさえすればいいのかもしれない。



最期のとき、そう思えるためには、どうしたらいいのだろうかと。

ただただ、物販をずっとやること。

目先の売上を拡大すること。


その日々の繰り返しだけで、そう肯定できるのか?

今の自分には、肯定できるとは到底思えない。



なにしろ「売上げがあがった、だからどうしたというのだ?」が消えないのだから。




家庭をもち、子をもうけ、売上を上げ、資産を残し、自分は消える。

サラリーマン・自営業問わず。

一般的なラインで考えたらこうなるし、これは自己肯定できる気がする。



子孫に残すために、物販が頑張っている。

これは分かる。

「何のために?」が、とても明確だから。



しかし、今それが、自分にはないのでね。

考えている。

最悪の形になってしまったとしても、どうすれば自己肯定できるのか。




人を助けることじゃないかと、ふと思った。

助け続けること。救い続けること。

そこに、自分の命を燃やし尽くせたと、自分を誇りに思えること。



何も手に入らなかった。

得たいものはなにひとつとして得られず、結局は死ぬときはひとり。

孤独に生まれ、孤独に死ぬ。

あの、もがいた日々はいったい、何だったのだろうと。

思わないでもない。




しかし、命ある限り、人を助けてきた。

人を助け続けてきた30年だ。



それが正解かどうかは誰にもわからないが

自分なりに社会貢献をして、めいっぱい精一杯、今世を生き抜いてきた。

命ある限り、仕事をして、人を助けてきた。



その誇りだけで、自己肯定して、いつだって自分の人生を終われる気がした。

何も得られなかった、しかし、誰かの役には立てたはずだ、と。




今、必死に物販を取り組んでいるのは、何のためか。

それは

「ライスワークのステージを、越えるため」だと思う。



自分の生活かかっているし、メシ食っていかないといけないから。

それは、300万になっても、500万になっても、1000万になっても。

ライスワークというステージ自体は、おそらく変わらないだろう。



しかし、売上が上がれば、資金が必ず手元に残るようになる。

サラリーマンではないから、時間は作れるようになる。

そこではじめて、考える。




「毎日が、ヒマすぎる」

「自分はこれから何をして、生きていけばいいのか」



自分のためだけに頑張るステージのままでは、きっと見えてこないものがある。

他者のために頑張ることを決めた瞬間から、見え始めることも、きっとある。



自己犠牲にならず。

社畜にならず。



生活を安定させるために、当面の事業を軌道に乗せたなら。

やはり向かいあうべきは【自己基盤の構築】だと思うのである。



何をして、人を助けていきたいのか。

それは、もはや何でもいいと思う。

そのための、講師なら、流されて引き受けるという訳でないのなら。

その選択もありなのかもしれないな。



なんてことも考えつつ。

助けていると感じられる仕事であって、毎日が暇だと感じないライフスタイルならば。

あえて今から就職するのも、全然アリだなとも考えつつ。



自分の今後を、ひたすら考えている。

経験からしか学べないので、ある程度考えたら、飛び込んでみるしかないのだ。



飛び込む前の、照準あわせ。

家庭が持てていれば、ここまで考えることもなかったのかな。




目先をしっかり、まずは突き抜けよう。

いろいろ考えてはいるが、話はそれからだ。