②最近の聖職者は、動物的本能むき出し



いったい、なにが彼ら聖職者をそのようにさせたのかわからない・・・、でも、最近の聖職者はちょっと変な心を持った者が多い・・・、

卞在昌(ビュン・ジェーチャン)牧師は複数の女性信者に対し、マッサージと称して体を触ったりキスを迫ったりするなどの行為を5年以上にわたって性的嫌がらせを繰り返していた。

聖いはずの聖職者が人々を汚すなんて、考えられないですね人間として・・・、キリスト教界としてあるまじき事件です。それをね~牧師たちのエゴで擁護しているというのも衝撃ですよ。女性たちを性欲の捌け口、心の欲望を満たすマシーンとしか見ていないなら、これは日本の女性に対する冒涜ですよね、

卞在昌(ビュン・ジェーチャン)牧師に一言、日本の女性を何と思っているのでしょうか、わざわざSEXするために日本に来たんかい・・・、と言ってみたくなります。

 

沖縄リバイバル教会の自称牧師、儀間もそうです。いったいいくらお金をかき集めれば気が済むんかい・・・、暴利の貪りもいい加減にしな・・・、普通の牧師ならそれほどお金集めは執拗にしないだろ~、だけど、あんたら儀間の連中はキリスト教の聖さを守り盾に、裏ではエグイことやってるじゃない、キリスト教を隠れ蓑として教界全体で連携とって、牧師たちに擁護させてる、最終的にすべてのクリスチャンに泣き寝入りさせるつもりかい、ひでぇ~話じゃないか・・・、

山田さんの不動産の問題にしろ、そっちから話を吹っかけてきて人の心を騙したんだろ~、ひでぇ~話だ・・・、とにかくズルイ人間であるのは嫌でも分かる、

本当にキリスト教界がこんなでいいでしょうか、あまりにも理性の欠けた、節度のない邪な人間が福音を語るようなことがあっていいのでしょうか?


私はいままで聖職者を言うと高僧な存在、頭のきれたエリートとかインテリ系の学問のある人しかなれないと思っていました。優秀な神学校を卒業して、大学院並みの知識があると思っていたからです。分厚い聖書を読むから、それだけ頭が賢くて節度をわきまえた素晴らしい人間だと思っていたからです。

しかし、教会を行ってみて感じたこと、牧師の心に壁のようなものを感じました。

牧師のプライドの高さについていけない・・・、私を見下すような気がしたのです。

キリスト教で謙虚、謙遜という言葉を聖書に記されてはいるものの、いったい牧師たちのどこに謙虚さ、謙遜さがあるのでしょうか?



また、単立などの新興宗教のほとんどは自称牧師で、神学校で単位を取らなくても教会を建てて公言さえすりゃ~、牧師になれる! 資格もなけりゃ、免許も要らない、もちろん聖書の検定テストといったものも無い、牧師の職業に至るまでのハードルってもんが全く無い、

これほど知能指数の低い連中が教会の牧師をやっているということに驚きを隠せません。それでいて、ズルイ牧師が多いでしょ~。キリスト教界に失望を感じてしまう理由もそれなんですよ。



なんで、福音宣教にちゃんとした人間を牧師として派遣しないの? おかしいでしょ? それでいて暴利の貪りが横行する教会、人々を騙してまでもお金を取る、あげくの果てに、銀行口座を解約や不動産問題、資産の現金化の強要(貴金属を売ったり、資産をなにもかも質屋で現金化して什一献金として集める、)など、どんだけ不当な利益を上げれば気がすむのかと思うくらいやり方が汚いです。




貪る、欲する、これはどれも動物的な本能であって、人間的なものではありません。人間らしさを捨ててまで、ケダモノと化したカルト牧師たちの心、わたしは本当に言葉に言い表せられないくらい失望してしまっています。こんなでいいのでしょうか、キリスト教の未来は知能指数の低い牧師たちに任せてしまっても、たとえ、知能指数が低くても節度と自制が保たれていれば問題ないのですが・・・。

牧師である前に人間としての真価(品格)が問われると私は思います。






③キリスト教 最後の希望の光






私、キリスト教界全体に言いたいこと、収益を得ているのなら、どうして人々を大切にしないでしょうか・・・、お金を多くの信者から得ているのなら、それなりの代償や代価を払うべきじゃないの、たとえば心のケアとか・・・、何の協力やサポートもなければ、悩み事の相談も受け付けることもない、

人々を第一ではないのかね、人々を第一に受け入れる教会であるなら、神様を第一として受け入れている教会だと思うのですが、人々を苦しめることがあってはならないでしょう。

ただのボッタクリ教会で嫌な思いをしたら、どんなクリスチャンや人々であっても2度と同じ教会には行かないと思うのですが、


どうでしょうか~、みなさん。私が言っていることは間違っていますか?



いいお店ならリピーターや、お客の噂で人が人を呼ぶことがあるでしょう。

逆に嫌なお店なら、2度と行くことがないと思います。嫌なお店の情報が広まって流れることもありえるし、ネットで公開されることもあるでしょう。

それは教会も同じことです。



礼節と節度をわきまえた教会は、信者を酷使するようなことはしません。お金を多くかき集めるように催促すること、要求することもないはずです。

ましてや追放すること、妨害すること、こざかしいマネや、こざかしい小道具(幹部や取り巻きを使って信者たちを迫害する)を使うようなことは決してしないはずです。




ですから、心の美しい牧師の営む教会こそが、キリスト教、最後の希望の光だと私は感じます。腐敗と堕落のさなか、せめて信仰の場だけでも聖く美しくありたいものです。その素晴らしき愛のある教会、私だけではなく多くの日本中のクリスチャンも失いたくない、そう思っていることでしょう。

しかし、そういった理に叶った教会が少ないのが現状なのです。本当にイエス様を心から愛する人々にとっては残念な話です。



最後に一言・・・、曲がった教会は早く脱会すること、はやくこの悪循環のループから脱出すること・・・、人間の節度の心を持っていない牧師の営む教会から逃れることしか、助かる方法はないといっていいでしょう。

曲がった宗教から離れよ!! 偽り者の欲に満ちた集まりから逃れることです。

初めて教会に入ったのも自分であるなら、教会を脱会する権利も自分自身にある、そのことを忘れないでいただきたいです。


特にカルト教会は、腐敗と堕落でとても普通の人間が信仰を保てない環境と化しています。

マインドコントロールや暴利の貪り、人々を企業戦士というか何でも牧師の言うことを聞くロボット、工作員という感じに思考を改造させられるでしょう。

子供の将来も危ぶまれる、人々の人生を脅かす、こんな曲がった宗教は日本にいらないと思います。












腐敗教会の牧師たちの心に失望




①牧師たちの欲望とエゴに流された日々




純真なるキリスト教クリスチャンの皆さん、ならび当ブログをご覧いただいているみなさん。私が書き込むことは私が体験したことをありのまま書くのでちょっとついていけないこともあると思いますが、最後までご覧いただけるのなら私として幸いです。




私は2年前、それはそれは教会を転々としたクリスチャンでした。教会を転々としているというと、教会の人々から、なんと現実から逃げてばかりのだらしない人間だと思われてしまうかもしれません。信仰の無い臆病者だと思われることでしょう。だけど私は牧師たちにどう思われてもかまいません。私が教会を転々としてきた理由、それは最初の教会をやめてしばらくたったとき、偶然入ったキリスト系喫茶店に入って、そこで女性店主から励まされたこと、人間を見つづけるとつまずくと、信仰の対照は主イエスただひとりであることを知ったからです。だから今も薄れゆく信仰の灯火を自分の心のなかで大切にしよう。誰にも奪われることなく吹き消されることなく、自分だけの信仰を保とうと決心しました。



教会を脱会しては転々と渡り歩き、今まで5ヶ所を巡っていたのです。

でもこう言うとみんなから無責任男とか、都合のいい男とか、自分が苦しくなると逃げ足だけが速い弱虫な人間と思われることでしょう。

でも、それは、それで、いいんです。どんな風に相手から思われても自分が信じて生きてきた人生は間違いではない、そう感じるから、どんなふうに相手から思われても平気です。




さて、私は5番目の教会で、セルグループという集まりで女性セルリーダーから、トラクト(教会案内状)を自分のパソコンで200枚以上を作るように指示され、(トータル3000枚は軽くいっていたと思います)そのトラクトを街で配る伝道活動をやっていました。そのトラクトには表には日本語、裏には英語で記され、

なるべくコスト削減のためA4サイズの紙に2分割で印刷し、カッターで半分に切って枚数を増やして作ったトラクトで、それを街で人々に配りまくるのです。米軍の人や日本人の方々に・・・、時にはエホバの証人のように一軒一軒回ってトラクトを郵便受けに入れていました。あのときの私は、とにかくわき目も触れず必死で配っていたのです。私たちの活動が人々を真の救いに導くものだと思って、それをバカみたいに信じきっていました。結局教会のしきたり、ルール、掟に縛られ、私は流されていたのです。あのころの私はマインドコントロールの虜になって心が奪われていました。判断能力を失った状態で抵抗することも何一つできなかったのです。



いま考えると、私が良かれと思ってやってきたことは、すべてやりすぎたと感じています。でも、これは神様のために・・・とか、神様のためなら・・・、とか神様を心のそこから愛しきっていたから、愛する気持ちがそのような行動に走らせてしまったのかもしれない・・・、それをね、セルリーダーとか牧師達が私の心をビジネスの道具として、利用していたと感じると、宗教団体ってズルい人間が多いなと感じてしまいます。

家の入り口の郵便受けの門に「セールスの方、宗教の方おことわり」と書かれていたとしても郵便受けにトラクトを入れてしまったのには、今となってはすごく醜いことをしたな、行き過ぎたことをしたなと、自分自身嫌いになるくらい悔やんでしまうのです。普通なら犯罪どころか法律に触れますよね、入れないでくださいとか、宗教おことわりと書かれてあるのに入れるという行為は・・・、




以前ブログで書きましたが・・・、私は教会の説教について行けず、逃げるように教会を辞めました。絶えられなかったのです。牧師の口から発する精神を打ちのめす鞭に・・・、

そして、教会を脱会してわかったのです。この世に魂の安らぐ場所、落ち着く場所は何ひとつ存在しないことを・・・、魂の救いを謳っている教会は、魂の救いどころか人々を混乱や破滅に至らせることがあるということ、牧師たちが礼節と節度をわきまえないエゴと貪欲の塊であること、カルトと称される教会の牧師は、冷酷なハイエナと同じ、あえて言うならば・・・、

「暴利の貪り」が教会内で横行しているということです。

(私は、なぜハイエナと評言したかは、ハイエナは他の肉食獣が捕らえた獲物まで奪う、貪欲な動物として知られるから、とにかく汗水を流さず、努力をしないで楽に他人の金品を得て、生活の糧にする、ずる賢さを象徴するからです。)

礼節と節度のある紳士的な教会の牧師たちは別ですよ。




暴利の貪りとは・・・、不正に得た利益を指しています。それを飽くこともなく、満足することもなく、貪り続けるということです。それがカルト教会で繰り返されている、ましてや信者たち、教会員たちの銀行に預けてある現金も彼らは目当てにしているのです。牧師が銀行口座の話を説教で語るのなら、これほど危険なものはありません。




私も5番目の教会で、この説教を聞きました。「什一献金をちゃんと捧げない者は、神様のものを盗んだことになる、ですから10分の1以上、余分に多めに捧げなさい、10分の1以下であってはならない、私は神様からの災いが自分自身に降りかからないように、恐れをなして多めに捧げています。献金を捧げない者、忠実ではない者には災いが降りかかるでしょう。」とか、なんとか言っていました。

私が感じることは、神の小羊や牧場を牧する者が、なんで教会員に対して脅迫じみた説教するのか、神様は人々のお金を貪る御方ではありませんのに・・・、お金を必要以上に要求する教会じたい間違っていると感じます。




そうでしょ~、みなさん。神様の愛は全ての人々に等しく注がれるのです。えこひいきしたり、お金や献金の多さで人々を偏り量るようなことは、なさいませんのに・・・、もうさ~、人間のエゴがその環境、組織やシステムを作り、そうさせたとしか思えない。

人間の自我は欲が膨らむと愚かになるというか、もうね~、失望してしまう・・・、宗教世界やそれに取り巻く人間のエゴに・・・、まぁ~、自分自身にも失望してしまっているけれど、自分の失望よりもキリスト教界、特にカルトと呼ばれる腐敗教会に失望してしまいます。




僕の青春を返してくれ、過去の純真な清らかな心を返してくれ、心の傷は脳に刻み込まれると言われていますが、本当にそうなのかもしれない・・・、

フラッシュバック(走馬灯)のように何度も甦ってくる、人間のエゴの集まりって最終的に残酷な結果を生み出すものなのかな~、と感じます。






(つづく・・・、)












⑤キリストの柱

私たちはひとり一人がキリストの柱とならなければなりません。カルト教会の悪事をこのままみすみす許すわけにはいかないのです。神を全く畏れない偽牧師達の言いなりになってはいけません。彼らは「滅びの子」であり、御国から遠いのです。神の国と神の義とを求めないでこの世の繁栄と栄光とを追い求めるカルト教会の牧師たちには、キリストの衣が備わっていないのです。キリストを着ることがなく、この世に心が捕らわれているので、この世の奴隷となっているのです。

誰でも「この世の国」と「神の国」とを両方とも持つことはできない、それがイエスキリストの真実の言葉であるなら、私たちはどちらかを優先しなければならないのです。

この世の国を取るか、神の国を取るかどっちかを・・・、もし牧師達が神を畏れようともせず、金に対する執着心に溺れ、この世の快楽を愛するなら、彼らは天国を受け継ぐことはできないと思います。

私たちはイエスキリストを最優先にしなければなりません。神を畏れない連中に騙され、欺かれたとしても、どうかガッカリせず嘆かないでください。希望を失わないでください。

たとえこの世の信仰に伴う環境がどんなに荒んでいたとしても私たちの希望と国籍は天国にあるのです。信仰の対象はイエスキリストただひとりであることを忘れないでほしい・・・、

また、カルト教会の膿の部分(堕落・腐敗)はまだ少ないと私は思うので、これ以上悪事がキリスト教界全体に行き渡ることが無いように、思慮のある健全な教会の牧師の皆さま方も注意を促していただきたいと思います。

まちがっても彼らのような悪事を繰り返す牧師たちの集まりに交わることがないように・・・、

牧師やクリスチャンの皆様、あなたがたが真のキリストの柱であるなら何が重い罪で、何がいけないことであるのかわかるはずです。

最後に聖書の御言葉を二つ

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠とまた人を滅びと破滅に投げ入れる。愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することがあらゆる悪の根である。」(テモテ Ⅰ 6910

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」(ヘブル 136

金、名誉、地位、権力、快楽がこの世の幸福の条件とされるものであるが、これが得られたからといって幸福にはならない。金はこの中で最も魅力あるものだが、これを追い求めると、人生を狂わせ転落してしまう。

もし、教会側が神を畏れ、忠実に聖書の御言葉を畏れるのなら、なにが最も重い罪であり、なにが人々や信者達を破滅におとしめるものであるのかが分かるはずです。教会側が神を畏れず、主イエスの御言葉にそむき、上に書かれた5つの幸福の条件を追い求めるだけの愚かな人生を繰り返すなら、救いの対象から外れ、神の国ではなく、この世の国を愛しすぎた報いを・・・、信者達を破滅に至らしめた報いを・・・、やがて黄泉の国で受けることになるでしょう。神の裁きは永遠の滅び、永遠の苦痛が伴うのですから。