斉藤三才「私を語る」② | JOTARO SAITO GINZA SIX店 スタッフブログ

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前回に引き続き三才が新聞に掲載された記事をご紹介します。




「私を語る」(繊研新聞、1993625日掲載)



:::::::(以下記事通り抜粋)::::::::::


三才社長 斉藤三才さん


手形の怖さを知る

 思いもかけない転機が訪れたのは、1966年、私が父の染色工場を手伝いだして9年、26歳のときでした。倒産したのです。仕事は順調だったのですが、理由は簡単、入る以上に使っていたからです。 

 不渡りが出て、債権者の人が集まって出た結論が「営業継続」でした。親子が頑張って少しずつ返済せよ、というわけで、工場も27人のスタッフもそのままに仕事は継続してやることになりました。そのときの負債総額が1億6千万円。いまならそれほどでもないかもしれませんが、なにしろ27年前(注:記事掲載当時は1993年)ですから、一染色工場にとっては巨額すぎます。

 しばらくして得意先の「三京」さんが五階建てのビルを新築されました。社長さんがあいさつの中で、「このビルの工事には五軒の業者から入札してもらって中間値の1億2千万円の業者に発注した」と話されたのを聞いて、このビル全部とまだ4千万円を足さないと完済できないのかと気の遠くなる思いでした。そして手形の怖さを思い知ったのもこの時で、二度と手形だけはと改めて思ったものでした。

 当時、問屋さんは展示会が終わると、足洗いと称して仕入れ先を集めて食事に行くことが習慣でしたが、展示会最終日に染め屋が集まっていると「斉藤さんはええわなぁ」とハズされるんです。皆の前で一人“蚊帳の外”というのは寂しく悔しいものでした。


「絹磨×JOTARO SAITO」スタッフブログ-kimono-jotaro-201306151


短期間に負債完済

 倒産は注文の方にも響きました。工場は委託加工ですから白生地を預かって仕事をこなすわけですが、倒産以降、この生地がもらえないわけです。こちらの信用状態を瀬踏みされているわけですね。これも悔しいことでした。

 それでもなんとか仕事をあつめて、「なるほど」と得意先をうならす仕事をして見直してもらおうという気持ちでいっぱいでした。それはこの間の数々の悔しさがバネになってのものでした。それに忘れられないのは、この窮状の中で、現疋田専務(注:1993年当時)が加わってくれたことです。疋田さんは私より年も上で、そのうえ債権者の一人でした。その会社を整理したうえで、倒産した私の会社の再建のために「骨を埋める」と入ってきてくれたのです。日ごろ、私との付き合いの中で、なにもかも相談していた信頼感から生まれた力強い援軍の参加でした。

 財務は任せて、私はとにかく仕事の確保と創作に全力を集中することが出来、短期間で負債も完済できました。

(つづく)



(スタッフ ナカムラ)


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