教師という職業柄、人に何かを教えたり、人前で話したりすることが好きだ。何時間でも話せるし、緊張もしない。これはこれで素晴らしいことなのかもしれないが、それが本当にコミュニケーションにとって役に立つのだろうか?


「聞くよりも話す方が得意」というのは、男性は女性と比べ、感情よりも論理が先に出て、何かを相談されると、つい自分なりの「解決策」を述べてしまうという性質でもあるのかもしれない。


だが、コミュニケーションにおいては、実は「話すこと」よりも「聞くこと」の方が重要であり、聞く技術を手に入れると人生が豊かになるようだ。


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この本の中で面白かったのは、人の話を聞くときは、「聞く」ではなく、「聴く」という漢字を使い、この「聴」という漢字には、「耳」、「目」、「心」という3つの漢字が使われているという話だ。



つまり、相手の話を聴くときは、耳で聞くだけではなく、目で聞き、心で聞くべきなのだそうだ。


妻と話をしていても、つい「ながら聞き」をしてしまう。パソコンをしながら、本を読みながら、片づけをしながら、という感じだ。


それでは、人の話を聞いていることにはならない。


仕事柄、多くの保護者と話をする機会があるが、これまでを振り返ると、保護者の話を聞くよりも多く自分が話していたように感じる。


これではいけない。


これからは「自分が話すこと」ではなく、「相手の話を引き出し、相手の話を聴くこと」に集中していこうと思う。


そして、聴く技術を高め、話をしながら相手を幸せにできるようになりたいものだ。

引き続き、『モリー先生との火曜日』から学んだことを書こうと思う。


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第4火曜日:死について


この世に唯一絶対的なことがあるとすれば、それは、


「私たちの誰もが最終的には死ぬ」


ということだろう。


どんなに名声を持っていても、地位が高くても、お金持ちでも、貧乏でも、最高に幸せな人でも、最後には死ぬ。

これは絶対に動かない「事実」だ。


その「死」から目をそむけて生きているが、それは誰にも避けられない。


モリー先生は、死が迫っている中、死についてこう語っている。


「誰もいずれ死ぬことをほんとうに信じてはいない。


なぜかっていうと、みんなまるで夢遊病者なんだな。われわれはこの世界のことを心底から十分に体験していない。それは半分眠っているから。やらなければいけないと思っていることを無反省にやっているだけだから。


いずれ死ぬことを認識すれば、あらゆることについて見方ががらっと変わるよ。」



私たちは、まるで、永遠に生きるかのように生きてしまい、急に死が目の前に迫ってくると、慌ててパニックになる。


以前、15歳のときに、同い歳の従兄弟が死んだ話を書いたが、そのときに真剣に「死」について考えた。


「人はなぜ死ぬのだろう?」


「人は死んだらどこに行くのだろう?」


「必ず人は死ななければならないとしたら、何のために人は生きるのか?」


中学の頃か二世紀後半ローマ皇帝となったマルクス・アウレリウスの哲学書などに興味を引かれ読んでいたが、後に聖書を読み始め、聖書の中にそれらの答えを見つけ出すことになる。


マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)/M. アウレリウス
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クリスチャンになった今、死は「恐れるべきもの」ではなく、「楽しみなもの」となった。


それは、死がすべての終わりではなく、すべての始まりだと知っているからだ。


使途パウロは、新約聖書の中でこう言っている。


「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。 私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。 」(ピリピ1:21、22)


一度興味があったら、聖書を読むことをお勧めする。


死んで天国に行けることが分かっていても、死んでしまったら、この地上での生活は終わってしまうことには変わりはない。


死が迫ってきてから死について考えるのでは遅いのだ。


モリー先生は言う、


「いかに死ぬかを学べば、いかに生きるかも学べる」


死を必要以上に恐れずに、死について学び、死を見つめて生きたい。

引き続き、『モリー先生との火曜日』から学んだことを書こうと思う。


普及版 モリー先生との火曜日/ミッチ・アルボム
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第3火曜日:後悔について


モリー先生は、この質問をすることの重要性を話している。その質問はこれだ。



「今日がこの世で最後の日だったら?」



この質問をしたときに、私たちの心の中にある本当に大切なものが分かる。


ふざけて、「もし今日が地球最後の日だったらどうする?」などと聞くと、


「貯金を下ろして豪遊する」


「今までしたくてもできなかったことをしまくる」


などと言ったりするが、それは事実ではない。


以前、別の本で読んだのだが、ガンなどで余命宣告をされると、ほとんどの人は自暴自棄になったりするのではなく、逆に、残された人生を悔いなく生きようと、真剣になるそうだ。


家族に感謝し、友達に感謝し、今まで当たり前だと思っていた人間関係のありがたさに気付き、仕事などよりも『 人間 』にフォーカスが向く。


それは、「死」というものが、「本当に大切なもの」をはっきりさせるからだろう。


私も、もし今日死ぬのであれば、家族と時間を取り、心からリラックスできる場所で、妻や子どもたちと最後の思い出を作ろうとするのではないだろうか。


モリー先生は言う、


「今のような文化状況じゃ、死ぬ間際にならないとこういったことまで気が回らないね。みんな自分本位のことでがんじがらめだから。仕事のこと、家族のこと、かねは足りるか、借金は払えるか、新車を買うとか、暖房が故障したら直すとか。ただ暮らしをつづけるために数知れないことにかかわっていかなけりゃならない。


これでは、ちょっと立ち止まって反省する習慣がつかないよ。


これだけなのか?


自分のやりたいことはこれだけか?


何か抜けているんじゃないか?


と時には考えないと。」



この講義の中に、私の心に残った言葉が引用してあった。


「教師は未来永劫にまで力を及ぼす。影響がどこで止まるか。自分でも分からない。」(ヘンリー・アダムス)


私は、自分の天職が 「 教師 」 であることに疑いを持っていない。いつの頃からか、自分は教えるのが好きで、教えるのが得意だ、ということに気が付き、それが神から与えられた自分の職業だという確信がある。(よく知らないことまで教えたがってしまうという欠点もあるが)


人に何かを教えることは、物を売るのと異なり(それも大切なのは言うまでもないが)、人に直接影響を与える仕事だ。


もし、1人の子どもに良い影響を与え、私の言葉がその子の人生を良い方向に変えるのであれば、その子の人生が豊かになるだけではなく、その子に接した人々がまた変えられていき、はるか未来に私の言葉が影響を及ぼしていく。


それは本当にすごいことであり、教師という仕事を心から誇りに思える理由だ。



モリー先生は死ぬ間際まで 「 本物の教師 」 であった人だ。


自分の死を最終講義になどできる人はほとんどいないだろう。大抵は、自分の死を受け入れるだけで精一杯になってしまうにちがいない。


だが、モリー先生がミッチに講義をし、それをミッチが本にしたことにより、モリー先生の死後、彼の言葉が私をはじめ、多くの人の人生を良い方向に変えているのだ。


それはきっと、モリー先生が、自分の死の先にある未来を見て、後悔しないように人生を生き抜いたからではないだろうか。

最近の子どもたちには考える力がない。


どんぐり倶楽部に来る子どもたちの中には、考えること自体を嫌がる子どももいる。そういった子どもたちは、難しい文章題を前にすると、「分からない」「難しい」「無理」という言葉を連発する。


このような言葉は心の自己防衛の現れだ。


難しい問題に直面したとき、予め自分で「できない」「無理」という言葉を言っておけば、仮にその問題が解けなかったときに、「ほら、言っていた通りでしょ」というように、自己肯定でき、心が傷つかない。


どんぐり倶楽部の問題は、1問解くのに30分から60分、かかる場合は、4時間、6時間(2、3回のクラス分)かかることもある。


だが、その「時間をかけて悩み抜く」ということが「考える力」を育てるのだ。


最近、ゆとり教育が見直され、読み、書き、計算をしっかりとやるようにと、私の子どもたちの学校でもやたらと百マス計算や大量の計算問題ドリルをやらされる。


計算などいくらやっても「真の考える力」はつかない。計算のやり方を知っていれば、1つの問題にほとんど時間をかけず、「機械的に」「流れ作業で」答えが導き出せるからだ。


計算を間違えても、その理由は「計算ミス」となり、間違いの理由などは考えない。


現役最多の224勝を挙げ、47歳の最年長プロ野球選手として活躍している工藤公康選手はこう言う。


「どんな失敗にも、その背後には、それなりの理由があるはずなんですよ。僕の経験上、なんの理由もなく失敗することはありえません。だから、失敗したときに大切なのは、何よりも失敗した理由を知ること。そのためには、『なぜ失敗したのか?』を考える時間を、しっかり持つ必要があるでしょう。


失敗の理由や対策を誰かに教えてもらうのではなく、自分の頭でとことん考えることが大事なんです。だから僕は、自分の子供に対しても『時間を与える』ということを大切にしています。」


どんぐり倶楽部では、解答を教えたり、間違いを指摘することはない。それは、「自分の頭で考える」ということが「考える力を伸ばすこと」につながっているからだ。


どこかが違うということを伝えた後は、自分で間違いを探し、初めから手順を追って考え直し、正しい答えを見つけていく。時には、自分の机と私の机を10往復以上するときもある。


時間がかかるわけだ。


工藤選手は言う。


「僕は自分の頭で考えようとせず、『答え』だけ求める選手は大成しないと思っています。『きっかけ』を与えてもらうことはあっても、最終的な『答え』まで誰かに教わったという選手に一流の人物はいないはずです。松井秀樹選手でもイチロー選手でも、みんな自分の頭で考えて、失敗を重ねながら自分で答えを出しています。」


ときどき、何十分かけても問題が解けずに泣き出してしまう子もいるが、その方がまだ健全だ。問題を解けない自分に対して、「本当は解けるはずだ」というフラストレーションが悔しさになり、涙が出てくるからだ。


この「時間をかけて自分なりの解答を導き出す」という「考える力」は実は、「人生を生き抜く力」を育てていることになる。


人生においては、単純計算のように、公式に当てはめて答えが出るなどということはほとんどない。


解答があるかすら分からない問題に直面することもある。


そうなったときに、単純計算しかしてこなかった子どもと、1つの問題にじっくりと取り組み、何時間かけてでも自分なりの答えを導き出す子どもが取る行動は、180度違ったものになるのではないだろうか。


挫折や失敗をしたときに、それを次につなげられるかどうか、それが「考える力」であり、「人生を生き抜く力」なのだ。


工藤選手は、


「失敗や挫折を次につなげられるかどうか、その鍵となるのが『考える力』です。失敗をばくぜんと悔やんでいるだけではまったく意味がない。『どうすればよくなるか?』をあらゆる角度から、徹底的に考えないと次につながらないのです。」


と言っている。


そのような「考える力」は育ててあげないと育つものではない。


「『自分の頭で考える』という習慣は、大人になってから急に身につくものではありません。子ども時代から、さまざまな挫折や失敗体験を通じて、少しずつ養っていく能力だと思います。」


と工藤選手は語っている。


私は、目の前のテストの点数など、ある意味「どうでもいい」と思っている。


少し過激なので、あまり生徒の親には言わないが、そうなのだ。


だいたい、小学校時代に自分がどのテストで何点を取ったかどうかなど、覚えているだろうか?


また、人生を生き抜くとき、子ども時代の100点が何かの足しになるだろうか?


自分の自信を育てるということにはなるかもしれないが、「考え抜く習慣」がなければ、そんなものは何の役にも立たない、ただの自己満足でしかない。


では、親として子どもたちにどのように接してあげたらいいのだろうか。


工藤選手は、インタビューの終わりにこう話していた。


「だから子どもが挫折や失敗をしたり、道に迷っているように見える時、なにかアドバイスをしなくては、とあわてる必要はありません。まずは子どもが自分でじっくり考える時間と場所を与える。そして本人が自分なりの答えを出すまで待つ。なにかをしてあげるのではなく、『待つ』という接し方を大事にして欲しいですね。」


子どもの成長する力を信じて「待つ」。親ができるのはそれだけであり、それで十分なのだ。


無理に出てきた芽を引っ張って、根っこを引き抜くことなどしなくていい。


一人一人の子どもの中には、大木に育っていくエネルギーが眠っているのだから。


ゲームに関する怖いニュースを読んだ。


記事ソース < http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100516-00000525-san-soci >


(引用)


 同協議会は平成21年11月~12月に、全国の小学5年生と中学2年生計3869人と保護者3624人にアンケート調査を行った。


 その結果、テレビゲームなどゲーム機を持っている子供は20年度と同水準で9割を超え、小5で94.8%、中2で93.1%に上る。携帯型の「ポータブルゲーム機」などを持っている子供は増えており、小5で74.5%(20年度53.2%)、中2で75.6%(同51.7%)だった。


(引用終わり)


「多くの子どもがゲームを持っているな」とは思っていたが、長男と同じ小5でゲーム機を持っているのが94.8%というから驚きだ。


息子のアメリカ人の友人は、いつもDSを持っていて、何をするにもDSがないと始まらない、という感じだ。

先日も、一緒に富士山の近くに行ったのだが、車の中で「DSが欲しい」「DSをどうして持ってこなかったんだ」と繰り返し言っていた(私の車の中では、ゲーム禁止)。


完全に依存状態だ。


上記の記事でも、ゲームへの依存に対して警鐘が鳴らされている。


(引用)


小中学生の5~6割は1日30分以上、休日には3時間以上ゲーム機で遊ぶ子も1割超おり、子供のゲーム依存が進んでいる実態が明らかになった。社会とのコミュニケーションが苦手になったり、学習意欲の減退につながったりする恐れもあり、専門家は「ゲーム遊びを制限する必要がある」と話している。 (植木裕香子)


 平日にゲーム機などで30分以上遊ぶ子供は小5で52.8%、中2で48.0%に上る。休日はさらに増え、小5は64.8%、中2は57.9%。1割を超える子供たちが「休日に3時間以上、ゲーム機で遊ぶ」と答えており、ゲーム機器の影響力に詳しい森昭雄・日大大学院教授は「子供たちの間でゲーム依存が強まっている」と分析する。


(引用終わり)


テレビゲームがなくても生きていける。


それなのに、テレビゲームがないと生きていけない子どもたちが増えているのは本当に危惧すべきことなのではないだろうか。


子どもたちがゲームにのめりこんでいる姿を一度でも見たことがあれば、その恐ろしさに気付くはずだ。


表情は無表情になり、目は光を失い一点を凝視し、姿勢が悪くなり、他のことが目に入らなくなる。


それとは対照的に、子どもが子どもらしく、外遊びをしている姿を見ると、表情は笑顔になり、目は光り輝き、これでもかと飛び跳ね、周りのすべてに目を向けている。


どちらが健康的か、一目瞭然なのではないだろうか。


ゲームがなかったら、しりとりでも、あやとりでも、じゃんけんカレーライス(今の我が家の子どもたちのブームだ)でも何でも作り出したらいい。


昨日も、子どもたちと「しんぶんし」というように、上から読んでも下から読んでも同じ言葉を作る遊びをした。

語彙も増え、日本語を学ぶのが楽しくなること請け合いだ。


テレビゲームは、現代の子どもたちの未来を危なくする『麻薬』なのではないだろうか。