昨日。梅雨の晴れ間の日。
バスの窓から帰りがけ、
鴨川の水面かがやく夕方。
この鴨川が、見つめてきたであろう、
京都の様々な出来事に
少し思いを馳せるような氣になったりしたのです。
きっとどの時代にも、穏やかに流れていた日常もあり、
また、
怒涛の流れに翻弄されることがたくさんあったのでしょう。
キーワード「自信」・「諦め」
あきらめなくていいです。
というメッセージ、キーワードは、
ずっとずっと自分の中に残っていて。
最初はこの時だったなあ。。。
その後も何度となく、出会い、現れ、立ち上がってくる。
あきらめる、あきらめない、
って、えっと、、、何を?
と思いつつ、
よくわからないようで、
いちいちいろんなことのようで。
自分のことであって、
自分だけのことではないようでもあって。
結局結論が出ているわけではないのだけれど。
あきらめる。 ?
あきらめるな。 ?
あきらめなくていい。 ?
三段活用。。笑
いろんな人が、、、もとい、自分の中のいろんな人が、
いろんなことを言う。
さて、あきらめるという字。
諦める。
諦観
妙に氣になって思わずいろいろ調べてしまう。
諦観(ていかん/たいかん)には、
諦め(あきらめ)の意はあるのか、ないのか。
辞書によっても微妙にいろいろのようだし、
あきらめの意味はないのだ、と、書いている人もいる。
「諦」
明らかにする、や、真理、、、
などの意から、
物事の本質をはっきりみきわめる
という意味が第一にあるのは間違いないようだけど。
言葉の意味は永いスパンでは流動的なものだろうけれどなあ、、、
そんなことに妙に注目してしまった。
本質をみきわめる
あきらかにする
ふーん。ふーん。
あきらめること、も、あきらめないこと、
も、なんだかけっこう近いような
わけわからないけど、そんな氣分さえしてきて、
あきらめるなと言われるとグッとくるし、
あきらめることがベースにあるような氣もするし、
そんな俯瞰。
なんだかな。なんやねん。
かなりめんどくさい自分。
またボチボチと思う。
自分に訊き続ける。
なんだかな。なんやねん。
かなりめんどくさい自分。
またボチボチと思う。
自分に訊き続ける。