ブルーレイ収録のオーディオ・コメンタリー、未公開シーン、ドキュメンタリー「怒れる神々」を鑑賞後、追記しました。


はじめまして。


ブログは初めてです。読みやすさなど至らない部分も多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いします。


2012年8月24日公開の映画『プロメテウス』についての私のレビューを記します。劇中の疑問すべてに回答を出しています。


監督は『ブレードランナー』(1982)『グラディエーター』(2000)のリドリー・スコット。この映画は彼が1979年に製作した『エイリアン』と関係しています。


では。以下、気合いを入れる意味で、ですます調をやめます 笑。



◆この映画は何を描いているのか?


鑑賞後、強烈に残っているのは、主人公エリザベスが自分で手術を行うシーンだ。妊娠するはずのないからだで、妊娠3ヶ月であることを告げられた彼女の体験、そのあまりのグロテスクな描写に驚いた。帝王切開を行おうとするも、男性用である医療ポッドに拒絶され開腹手術を試みる。アームが動き腹部を消毒し、一気に切り裂く。「それ」を取り出し、ホチキスでバスバスと閉じる!!


映像美に心を奪われた。デヴィッドが3Dホログラフの中にいるシーン、エリザベスが手術後にプロメテウス船内を彷徨うショット、炎に包まれるファイフィールドを惑星探索用車両ローバーから捉えたショット、エイリアンのレリーフなどの美術にも。衣装のデザインは『バンパイアの惑星』(1965)に由来している。そして、私は次のように考えた。


全く新しいストーリーの伝え方をした映画であり、ストーリーの限界を打ち破った画期的な脚本を備えた映画である、と。


そもそも『エイリアン』はどういう映画であったか?宇宙という助けが来ない場所における恐怖を描いたことはいうまでもないが、現在では『エイリアン』はフェミニズムの文脈で評価されることがある。男性性(エイリアンの造形は男性器がモチーフである。頭=ペニス)に対する女性性の勝利だ。 『プロメテウス』のドキュメンタリー「怒れる神々」を観ると、『エイリアン』を踏襲し同じ要素を新たな手法で見せたかったのだということが分かってくる。H.R.ギーガーのデザインを進化させることを念頭にして製作が進められた。


リドリー・スコットはノオミ・ラパス主演『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(2009 予告編はこちら )を近年で最も興味深い映画だったと語っているこちらを参照)。 あの映画(もしくは原作)のテーマは「女性への暴力」だった。原作のスウェーデンでのタイトルは『女を憎む男たち』である。『ミレニアム』を観たスコットは、『プロメテウス』の主演にノオミ・ラパスを抜擢した。


『プロメテウス』は非常に分かりにくい映画だ。シーンの意味や登場人物の心理・行動原理が理解しづらいのである(映画の魅力は意味や心理・行動原理と離れたところに成り立つものであり、同時に、映画とは、何か特定のメッセージを発するものではない。ストーリーや人物の心理という論理の枠から解き放たれている点、また、要素が詰め込まれたことによりテーマ性が希薄になっている点において『プロメテウス』は優れていると言うことが出来るが、以下で映像・美術を絡めたシナリオの分析を行う)。


重要視されるべきこととして、全体に『プロメテウス』はSFでありつつ、強い宗教観がうかがえる。さらに、我々の世界の社会問題、最も奥にはギリシャ神話が眠っている。本作の登場人物は真理を探し求めている。それは神話的な物語だ。そして、この映画について、神話は非論理的なものだ。だから、この映画は非常に分かりにくいのであるとも言えるかもしれない。


ギリシャ神話において巨人=プロメテウスは人類にを与えた。

それは良心からの行動だった。なのに罰を受ける。人類は繁栄しすぎたがために、神の目にとまり、プロメテウスは永遠に終わらない責め苦を受けるのである。


ギリシャ神話には世界の創造主が存在しない。


先のインタビューでスコットが「『プロメテウス』は『エイリアン』と『ブレードランナー』の要素が合わさった作品で、残虐なミステリーであるとともに、哲学的でもある」と言った意味は何だろうか?



◆映画の構造 新しい形式でストーリーを伝える


ストーリー=映画内の描写、Wikipediaに書いてあること

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テーマ= 女性への暴力

 ↓

キリスト教=映画内では主人公のクロスやクリスマスツリーなどから読み取れる

 ↓

ギリシャ神話=神話は非論理的、だからこの映画は分かりにくい



重構造の映画を、私は観たことがない。ご存知の方には、ぜひ教えていただきたい。監督は「新境地を開いた」とコメントしている。

 

スコットの言葉を借りれば「科学(ここでは進化論)を追求していくと最終的に神の問題に行き着いてしまうことが多い」となる(パンフレットのインタビュー)。


彼はインタビュアーに「エンジニアは我々に磔にされたから地球を滅ぼしに行くのですか?イエス・キリストが異星人だとする脚本を書かれていたと伺いましたが」と聞かれて「そうだ」と答えている。「明確に描きすぎた」ということで、完成した脚本からは削られている。ジョン・スパイツによって書かれた最初の脚本にはエンジニア=イエスと書かれている。この案は却下されたようだが、雑誌CUT2012年9月号では「SF映画のストーリー開発は面白いね。大きな要素を積み重ねて、順序を入れ替えたりしていくと、だんだんと意味を成していくから」と言っている。

『プロメテウス』のストーリーは、次のようなものだ。


2089年、スコットランドのスカイ島で3万5000年前の洞窟壁画が発見された。壁画には謎めいた「星を指す巨人」と「それを崇めている人々」が絵が描かれていた。エリザベス・ショウは巨人が「エンジニア」で、彼らが人類を創造したと推測する。そして壁画に描かれた未知の星系、生命体の存在する可能性のあるゼータ2・レティクルへと向かう・・・。


過去3世紀の進化論を覆すのかと尋ねられた彼女は答える。「根拠はないけれど信じてる


劇中で、父と娘は同じことばを言う。choose to believeと。


惑星LV223に着く前、クリスマス・ツリー飾られる。


エンジニアは1人を残して死んでいた。何者かに追われ、折り重なるようにして。彼らが2000年前に死んだことは『プロメテウス』に宗教的な意味が含まれていることを暗示する。 エンジニアはシスティーナ礼拝堂をモチーフとした「頭の部屋」の、上方の壁で磔刑に処されているが、エリザベスたちが入ったことで壁画は変化する


他方にはエイリアンのレリーフが存在する。それはまるで誕生を待望されているかのように。十字架に磔にされており、これはイエス・キリストを示している



映画レビュー プロメテウスに導かれて


ここで仮説を提示したい。初期の脚本ではイエス・キリストであったエンジニアはマグダラのマリアの象徴に置き換えられたのである、と。マグダラのマリアは絵画などの図像おいて「壷」を持つことがある。「頭の部屋」には筒のような物体―「アンプル」という名称がつけられている。デザインの由来か?―が置かれている。



マグダラのマリアはイエスの復活を最初に目撃した者と言われている。この映画のラストシーンだ。エイリアン=イエス・キリストが、エンジニア=マグダラのマリアの胸を突き破って出てくる。エイリアンの足元にエンジニアが配置されている構図は、西洋絵画のイエスの足元にマグダラのマリアが配置されている構図と一致する。


エイリアンのレリーフは、マグダラのマリアとイエスの関係を反映している。マグダラのマリアはイエスに従い、磔にされたイエスを遠方から見守っていた。


聖書に、映画の序盤ラストを表すような記述がある。

イエス「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜し求めているのか
マグダラのマリア「だんな様、あなたが彼を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが彼を引き取ります」 

ヨハネの福音書  28:15より


一方、エリザベスは不妊のからだで「出産」する。彼女は聖母マリアの象徴だ。先の例に照らせば、エリザベス=マリアの子どもはエイリアン=イエス・キリストである。そして、ありえないはずのことが起こる、これがホラー映画における怖さの一つだが、エリザベスとデヴィッド以外の全員が死ぬ展開は、馬鹿は死ぬというホラー映画の法則に従っている(脚本のデイモン・リンデロフが言及)。


また、ダビデ=Davidの子孫がイエス・キリストであると言われることも記憶に留めておきたい。ミケランジェロのダビデ像を想起するが、エンジニアの外見で唯一モデルとされた立体物がダビデ像だ。


興行面と予算面の都合により、このようなルックの映画になったと考えられる。キネマ旬報2012年9月下旬号において、スコットは「知的になりすぎることは避けた」と言っている。


同時に彼は、最近の観客は集中力が落ちているとも言う。それは後半の畳み掛けるような展開と合致する。製作上は、もともと分かりにくい内容であったため興行成績が優先され、2時間の枠に映画を収めなければならなかったというのが真相だろう。編集のピエトロ・スカリアはプロメテウス号のクルーが祝杯をあげるシーンについてカットするのが惜しかったとコメントしている。


本作の脚本担当にはジョン・スパイツとデイモン・リンデロフの二人がクレジットされている。当初要求した2億5000万ドルという巨額の予算が映画会社に承認されず、途中参加したリンデロフの手により脚本が改稿され1億3000万ドルに削減された(彼は製作総指揮にもクレジットされている)。リンデロフの参加により、『ブレードランナー』 の要素が組み込まれた。『エイリアン』『ブレードランナー』の2作が合わさった映画が『プロメテウス』である。


鍵となるのはアンドロイドのデヴィッドだ。



◆デヴィッドの行動と、エリザベスの手術シーンの意味 ブレードランナー


デヴィッドが黒い液体をホロウェイに飲ませた理由は、 「エリザベスが誰の手も借りずに独りで出産すること」を手助けするためだったのではないか。だからこそ、不要な男性=ホロウェイを排除した。あの手術用ポッドは男性用だった。男性優位のこの世界での、「女性の必死の抵抗・その強さ」を表しているのではないか?ヴァイラル動画 Quiet Eyeこちらを参照 )の左側はエリザベスが一般の、多くの女性を象徴していることを表しているのでは?


あの映画史に残る強烈な出産(堕胎)シーンがなければ、この映画はR指定にならなかった。
ノオミ・ラパスは、監督を「究極のフェミニスト」と賞賛し(パンフレットより)、あのシーンによってエリザベスは「本当の女性になった」と言っているこちらを参照 )。


『プロメテウス』のテーマについてマイケル・ファスベンダーは、この映画の中では「単なる実験の産物」として描いた、と言っている(こちらを参照 )。デヴィッドがそれを象徴している、とも。

黒い液体を飲ませたストーリー上の理由は、人間への怒りからだ。「創れたから創った」というホロウェイの言葉への反感があった。また、デヴィッドがウェイランドに延命のための探究を行うよう命令を受けていたというシーンがあったが、カットされた。ヴァイラル動画Happy Birthday Davidこちらを参照 のデヴィッドの言葉も参考になる。「何が君を悲しませる?」と訊ねられたデヴィッドの答えは「必要のない暴力」だ。


先述したように、製作総指揮・脚本のデイモン・リンデロフはジョン・スパイツの手がけた脚本を改稿する際に『ブレードランナー』の要素を組み込んだ。彼は『エイリアン』『ブレードランナー』2作のファンだと言う。ピーター・ウェイランドの行動は、『ブレードランナー』のレプリカントと全く同じだ。自らの寿命を伸ばすため、創造主に会いに行く。デヴィッドの「我々は誰でも親の死を望むものではありませんか?」というセリフは『ブレードランナー』に影響されており、監督のスコット自身が書いたものだ。デヴィッドは自分を作ったウェイランドを憎み死を願っている。「私は違った」というエリザベスの答えは、ラストへの伏線だ。


ジョン・スパイツの手がけた最初の脚本では悪役だったデヴィッドは、『ブレードランナー』が挿入されたことにより、悪役的要素が薄れ敵なのか味方なのか分からなくなっている。アンドロイドへ同情するかのようだ。


スコットはデヴィッドは本質的には世話係であると念を押してから撮影に入っている。ファスベンダーは『召使』(1963)を観て中性的な演技に変更した。不気味さとユーモアが加わった。スコットがファスベンダーに鑑賞するように要求したのは『召使』『アラビアのロレンス』(1962)『地球に落ちてきた男』(1976)の3本だ。先に述べたようにダビデに通じる名であることには、ジョン・スパイツがオーディオ・コメンタリーで言及している。


本作は3Dで劇場公開された。最も美しいのは、デヴィッドが「太陽系儀」の中に立つシーンだ。このシーンはイギリスのロックバンド「ピンク・フロイド」のCDアルバム『狂気』をかけながら撮影されている。リドリー・スコットは同様にイギリスの画家、ジョゼフ・ライトの絵画『太陽の代わりにランプを置いて、オーラリについての講義をする哲学者』を参考にしたこちらを参照 )。


デヴィッドは『アラビアのロレンス』を好んでいる。ロレンスには魂がなく感情がない。2人は似ている。


『プロメテウス』の中心となるメタファーはギリシャ神話だが、『太陽の代わりにランプを置いて、オーラリについての講義をする哲学者『アラビアのロレンス』の引用されたシーンとセリフ「それは私が痛さを気にしないからだ」について、劇中でのホロウェイ、ファイフィールドの最期と絡めた火の関連が見られる。撮影では、メレディス・ヴィッカーズを演じたシャーリーズ・セロン本人が実際に火を放っている



◆性的なイメージ 


『プロメテウス』は元々は完全な『エイリアン』の前日譚として企画された


ジョン・スパイツの手がけた最初の脚本では、性行為が重要なものとして扱われているこちらを参照 )。性行為の最中にホロウェイの胸からパラサイトというクリーチャーが誕生するというシーンがある。そこからエイリアンとの死闘が始まるという展開だ。


スパイツはオーディオ・コメンタリーで言う。「『プロメテウス』ではエイリアンシリーズに共通する生殖を暗示する脅威が、違った形で登場する。デイモン(・リンデロフ)が上手く書いてるよ。フェイスハガーもチェストバスターも強姦っぽい。今回はそれらがない代わりに、オーラル・レイプと懐胎だ。化け物にやられるんだからゾッとする。だからエイリアンシリーズは面白い。全てはダン・オバノンの原案から始まった。エイリアン・クリーチャーの視覚化が素晴らしかったし、リドリーの演出も最高だった。レイプや妊娠が化け物を一層恐ろしくする。そして甲冑を纏った狩猟生物が生まれる。背徳的で邪悪な印象だ。しかし簡単に境界を越えて人間を犠牲にしてしまうのが心に染み、ダークな印象を与える。その感覚が『プロメテウス』でも息づいている。エイリアンの変異体による性感染症だ。それが始祖となって綿々と続いていくことになる。チェストバスターの始祖の懐胎は、愛し合う男女と一滴の毒によるものだ


リンデロフは卵子と精子がひとつになると生命が誕生することを踏まえ、『エイリアン』では人間が卵子に、フェイスハガーが精子にあたるとしている(こちらのリンクだが、先のニューヨークを襲ったハリケーンで現地のサーバが吹っ飛びなくなってしまったという。よってリンクがないことはご容赦いただきたい)。

ふたつがひとつになり、エイリアンが生まれた。

そして『プロメテウス』では生命の誕生人類の起源を含む)を、3つの方法で行った。「エンジニア→人類」「人類の出産」「人類→アンドロイド」だ。「3つの世代」を組み込み、何が誕生するかを眺めたとも言っている。3つの世代とは言うまでもなく、エンジニア・人類・アンドロイドである。


リンデロフは、映画を読み解くヒントは劇中に存在すると言っている。エンジニアが何故地球を滅ぼしに行くのか」という疑問から出発すると全ての謎が解ける、と。彼は地球が滅ぼされなければならない理由への解答を避けている。スコットもオーディオ・コメンタリーで伏線が巧妙に隠されていると言う。



◆エンジニアとは何だったのか?黒い液体、そして人類の起源とは


フェミニズムをテーマと仮定すれば、エンジニアは虐げられ迫害されてきた女性の象徴(エンジニアは人間と同じDNAを持っていた)で、その憎しみを晴らすため地球を滅ぼしにいく・・・そう考えることができる。


人類の起源は映画の冒頭で描かれる。エンジニアが黒い液体を飲み、滝壺に落ち、水の中で体が分解されDNAが散布される。これを『プロメテウス』は人類の始まりであると定義した。


オーディオ・コメンタリーでリドリー・スコットは次のように言っている。


この映画からいくつもの続編ができる。だが続けるには計算が必要だ。この物語には様々なテーマがあるが、最も重要なのは創造と破壊だ。自分が作っていたものが間違っていたら、消去したくなる。エンジニアが地球を目指した理由を、デヴィッドは創造するには破壊が必要だからだと語った。これはスターリンの言葉だ。名言が多く、どれも恐ろしい。彼は6000万人を粛清した。そういう壮大なスケールでの破壊だ。


黒い液体=人類の罪=人類の起源=女性への暴力。黒い液体は人類の罪であり、『プロメテウス』は「人類の罪は女性への暴力である」ことを示しているのではないか。イギリスの公式フェイスブックに黒い液体の分析結果こちらを参照 )が公開されている。飲むと性欲増大、吹きかけると凶暴化とある。感染症のようでもあり、人類は病気によって進化してきたことを考えると(ヒトのDNAにはウイルス由来のものが存在する)、人類の歴史をなぞっているようにも感じられる。


これを頭に入れてから、映画冒頭およびデヴィッドが黒い液体をホロウェイに飲ませる意味を再度考えたい。人類の起源であり女性への暴力でもある黒い液体を飲み、死ぬことによって人類を作り出した


 
◆『エイリアン』前日譚としての『プロメテウス』


『プロメテウス』のテーマは『エイリアン』より遥かに後退したものである。
人類の罪は女性への暴力であり、それは人類を滅ぼすものである」と「強い女性が男性と戦い勝利する」を並べると分かりやすい。『プロメテウス』では女性は男性と戦うことのできる土俵に上がってすらいない。


劇中およびエンド・クレジットではショパンの『前奏曲 第15番 変二長調 作品28の15』が流れる。


ラストにエイリアンが生まれる理由は、虐げられ迫害されている女性たちに戦う相手が生まれた、自己の存在理由が生まれる」ためである。『エイリアン』シリーズの主人公は最終的にエイリアンと同化した。


『プロメテウス』のエリザベス・ショウは、『エイリアン』のエレン・リプリーではない。「強い女性」に近いのはシャーリーズ・セロン演じるメレディス・ヴィッカーズであり、彼女がリプリーの系譜上にあるといえる。


ヴィッカーズの正体はアンドロイドなのか人間なのか、シャーリーズ・セロンは故意に謎めかせたと言っている(パンフレットのインタビューより)。説明を省略し難解にして、観客を魅了させる手法はスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1969年)と同じである。キューブリックはそれを「マジック」と呼んだ。『プロメテウス』の映像表現には、リドリー・スコットからキューブリックへの敬意がある。



◆ 神の不在 エリザベスの選択 


この映画は登場人物が馬鹿ばかりだが(それはホラー映画の法則に従ったものであることは先に書いた)、女性への暴力にみちた唾棄すべきこの世界を象徴しているようにも見える。


リドリー・スコットは言う。「私は英国国教徒、つまりプロテスタントでカソリックではない。一生懸命、教会に通うようなことはなかったが、それでも”罪の意識”という考えは私の中に深く残っていて、それが宗教をいまいち信じられなくなった原因かもしれない」と(パンフレットのインタビューより)。


エリザベスは、父の形見であるクロスを再び首にかける。彼女のクロスに象徴される宗教的探求と、本作のテーマは密接な関係にあり、デヴィッドは「こうなってもまだ神を信じるのですか」 と問う。


彼女も初めは世界に同化した馬鹿だが、出産(堕胎)し、「信じること」を選択するのである。



「エリザベス」という名前はヘブライ語で「私の神は私の誓い、支え」という意味を持つ。脚本が改稿される際に、本作の主人公の名前はジョセリンからエリザベスへと変更されている。


『プロメテウス』には『エイリアン』と異なり、主人公1人が生存するのではなく、道しるべとなるであろうアンドロイドの存在がある。



◆人類の未来  


リドリー・スコットによれば、『ブレードランナー』以来30年間SFを撮らなかった理由は「取り組むべき価値のある真実」「オリジナリティ」「力強さ」の3つを兼ね備えた企画が見つからなかったからだという。『プロメテウス』には、これらがすべて揃っていたといっているパンフレットのプロダクション・ノートより)。


『プロメテウス』鑑賞後に残る疑問は、「エンジニアはどこからやってきたのか」というものだ。未公開シーンで、デヴィッドはエンジニアの故郷を「楽園 Paradise」と言う。


宗教が絡みキリスト教圏以外の人間には理解しにくいと考える向きもあるかもしれないが、監督は『キングダム・オブ・ヘブン』(2005)を撮ったリドリー・スコットだ。『キングダム・オブ・ヘブン』はキリスト教徒とイスラム教徒の融和を描いている。未見の方には是非ディレクターズ・カット版を観ていただきたい傑作だ。スコットは他の宗教が存在することを十二分に知っている。



デヴィッドが覗いた夢---エリザベスと彼女の父親の会話を引用する。「(葬列を見て)あの男の人に何があったの」「彼は死んだんだ」「どうしてパパは、あの人たちの手伝いをしないの」「パパの助けは要らないんだ。違う神さまを信じてるからね」「どうして男の人は死んだの」「遅かれ早かれ、みんな死ぬんだよ」「ママみたいに」「そう、ママみたいに」「人は死んだらどこに行くの」「みんなそれぞれ自分の言葉を持ってる。天国楽園。なんであれ、美しい場所だ」「どうやって美しいと知ったの」「信じることを選んだんだよ。エリー、君は何を信じる?


以上を読んだ後、この動画 をご覧になるとスタッフ・キャストの言葉に納得していただけるのではと考えている。