高慢は破滅に先立つ | 聖書が教える勝利者への道…Kenのブログ

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『勝利者』とは、この世の成功概念をはるかに超越した、この世の価値観に一切束縛されない、真の自由なる存在であり、天国へ入ることを許された者たちである。世でもてはやされる「成功者」の概念を遥かに超越した、「神の著書」聖書に基づく『勝利者』への道を共に歩もう。

 ”さて、兄弟たち。以上、私(パウロ)は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。”
 新約聖書 コリント人への手紙 第一 4章 6節

 今回はコリントの手紙 第一(コリント書1) 4章から。

 2000年前の初代教会のひとつであるコリント教会において、分派による争いや道徳的な堕落が生じて混乱状態に陥ったので、使徒パウロらリーダーたちが「矯正」に乗り出します。コリント教会がダメになってしまった原因は、教会員たちが聖書の基本を忘れて自分たちの肉欲と幼稚な思考のままに行動してしまったことにありました。上記6節によれば、つまりは神の元から離れて高慢になっていたからということです。そこでパウロは「書かれていることを越えない」ことを学んで高慢を戒めなさい、と言っています。「書かれていること」とは「聖書に書かれている神の言葉」のことであり、これを無視したり逸脱してはならない、という意味です。

 高慢とは聖書的に言えば、神の権威を無視して自分の思うがままに振る舞い、さらには自分が他者に比べても最も優れていると考えて高ぶる態度のことを言います。そもそも神を無視する態度とは聖書では最も重い罪とされます。高慢はあらゆる争い事の原因となるだけではなく、自身の品性を著しくおとしめ、最終的にはその人を破滅に至らせます。

 ”高ぶりは破滅に先立ち、 心の高慢は倒れに先立つ。
 旧約聖書 箴言 16章 18節

 また、高慢はあらゆる悪と罪の根源である「自己中心」であると言い換えることもできます。高慢とは神を無視することだと述べましたが、逆に言えば自分が中心で正しいと思いこむことです。自己中心となれば周囲の状況が見えなくなって(いわゆる盲目となって)冷静かつ正しい判断を下すことができなくなり、対処を誤ることで大きな失敗を招きます。自己中心の人たちが集まった組織が、争いと混乱の中で破滅に落ちていくのは考えてみればごく自然の成り行きです。

 教会に限らず、一般社会の組織であっても、いわゆる寄って立つところの中心軸というものがあって初めて安定します。会社なら社長および社訓が中心軸にあって、社員がそれに従うことで組織が成り立っています。ごく単純に当てはめるならば、教会では神(イエス・キリスト)が社長に相当し、聖書が社訓に相当します。これらに従って働いているうちは高慢に由来する自己中心のような組織の秩序を乱す考えは起きないはずなのですが、コリント教会の人々は基本である神(イエス・キリスト)と聖書をないがしろにしたために、当然起こるべくして自ら崩壊を招いてしまったということです。だからパウロは基本としての聖書を越えたり逸脱したりすることを戒めて、自分たち(パウロら)が聖書に忠実に歩んでいるのだからそれを見倣って基本に立ち返りなさいと説いたわけです。 

 高慢を防ぐ一番確実な方法は、自分が神の前ではとるに足らない、なんら優れた存在ではないことを認めて、神の前にへりくだって謙遜になることです(高慢の反対語が謙遜です)。これは「神を中心軸においてそれに従って歩む」ということでもあります。謙遜を備えた人間ならば視点は常に神に向いているはずであり、人間対人間の骨肉の争いなど生じることはありませんし、なによりもその人の徳を高めることになります。

 人の心の高慢は破滅に先立ち、 謙遜は栄誉に先立つ。
 旧約聖書 
箴言 18章 12節

 聖書とは謙遜を教える書です。高慢を捨てて謙遜を身に着けることが神の御心に適った行いであり、品性を整えてより完全な人格へと成長するための基本的な態度でもあります。高慢は私たちが何の思慮も無しに過ごしているとすれば人生において実に簡単に起こりうることであり、ある意味で肉に生きる人間の宿命と言えます。それをいかに気付いて戒め、悔い改めていくかが成長のためのカギであり、その気付きのための鏡となるのが聖書です。しかし、神の御手が働かない、人間同志の関係性の中だけではお互いに自分が優れていると考えがちであり、また自身の過ちにも気付きにくいのです。神の御霊が宿っているはずの教会においてさえ、ひとたび人間中心主義に陥ると高慢の問題が起こるということを示したのがまさにコリント教会のケースであったわけです。コリント教会の人々を反面教師として、私たちも謙遜を学んでいく必要があろうかと思います。

 皆さまに聖書によって神の御前においての謙遜への気付きが与えられますようお祈り申し上げます。