私の郷里の先輩、ゴルフのジャンボ尾崎さんを通じて、元阪神タイガース監督、星野仙一さんにお会いして聞いた話

《大学の野球部では「厳しさと激しさの中でこそ人は伸びる」という指導哲学を叩きこまれました

合宿所では夜明け前から起き出し、練習につぐ練習です

手を抜けば全員が正座させられ、監督のげんこつやビンタが飛んでくる

パンツ一丁で正座させられたこともありました

実は母のお腹にいたころ、父がなくなりました

母は農家や豆腐屋の手伝いなどをして姉二人と私を育ててくれました

働きづめの母を見て、子供なりに「母を悲しませてはいけない」と思っていたのです

私の反骨精神の原点かもしれません》

お会いしたのは、丁度星野さんのお母さんがなくなられた直後だった

その時星野さんが、アカペラで唄った「母さんの唄」は、素晴らしかった

涙なしでは聴くことができなかった

星野さんは多くの選手に慕われていた

その理由が分かる話がある

星野さんは小学校時代を岡山県倉敷市で過ごしている

同級生に、筋ジストロフィーという重い障害を持った定金正憲君という友達がいた

彼は学校に行くのをいつも嫌がってお母さんを困らせていたが星野さんと同じクラスになってからは毎日、喜んで学校に行くようになった

星野さんが定金君を毎日、背負って登校してくれたからだ

定金君は放課後も楽しそうに、星野さんが野球をしている姿を眺めていた

星野さんはどんなに練習が厳しく疲れていても、練習が終わると定金君を背負って彼の家に送っていった

学校だけでなくて、遊び場にも連れていった

雨の日には定金君が濡れないように、リヤカーで連れて行ったそうだ

定金君との交流は、大人になっても続いたが、残念ながら彼は41歳で亡くなってしまう

亡くなる少し前にも定金さんは

「頑張って下さい。いつも僕は見ています」と星野さんに話していた

残念ながら優勝したのは定金さんが亡くなった二週間後だったが、定金君のお母さんは

「息子が41歳まで生きて来られたのは、星野さんのおかげです。息子はいつも星野さんの活躍を見て夢と希望をもらっていたのです。息子にとって星野さんは、同級生で神様だったんです。息子は幸せだったと思います。感謝しています」

と話している

本当の友情とはどんなものかを感じさせられた

大切な人に自分の生き方を通じて希望を与えることができたら素晴らしいと思う