【仙コミ212サークルペーパー】他人を見下す「論客」たち | 後藤和智事務所OffLine サークルブログ(旧)

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「仙台コミケ212」(2013年9月29日、夢メッセみやぎ)で配布したサークルペーパーです。

さてFree Talkですが…。いつから「論客」の商売道具は「他人を見下すこと」になったのか?ということでやってみたいと思います。

「SUPER ADVENTURES 67」「サンシャインクリエイション60」「ガタケット127」のサークルペーパーでは、私に定期的にたてついてくる、ある自称社会学者について採り上げ ました。そこでこの自称社会学者が私への批判のロジックとして使っていたのは、「後藤は底辺の大学の現状を知らないから若者を擁護する」(若者を擁護して いるなんて私は一言も言っていないんですけど…)とか、あるいは「底辺が劣化しているのは明らかだから劣化言説批判は間違い」というものです。

こ の自称社会学者の議論は、個別の議論と全体の議論を混同していること、学歴と言うよりもむしろジェンダーでの偏見をあらわにしていること、そして「劣化」 というのが優れて価値判断に依存するという点で論ずるに値しないものなのですが、近年になって、この「莫迦の指摘」というものを行うことが「論客」の商売 道具になっているような気がしてならないのです。

典型的なのが近年のインターネットをめぐる話題でしょう。主に若い世代における「炎上」 関係の事件について、少なくない論客がこれを「ネットネイティブ」の世代(ないし社会集団)によるものと論じました。彼ら曰く、今の若い世代は携帯電話な どの普及でインターネットが「日常」と化している一方で、インターネットを通じて世界に繋がっていることを知らない、だから簡単に個人情報などを晒して 「炎上」してしまうのだ、という「分析」です。

ここで注意しておきたいのが、いくつかの「象徴的」な事件をもってして特定の世代(などの 社会集団)の特徴を語るのは難しいということです。彼らの語っていることはただの実証性の乏しい世代論に過ぎず、本当に彼らの論ずるような心性が若い世代 全体に広がっているのか検討する必要があるでしょう。

さて、この手の言説ですが、特に有名になったのはこのような社会階層を「低学歴」と 表現したあるブログでしょう。このブログの主は、このような心性を持っている層を「低学歴」と表現し、「低学歴の世界」というものがある、ということをブ ログで書いて、1000を超えるはてなブックマークを獲得しています。

ここで注目したいのが、「低学歴の世界」というものの存在を理解 (直視)すべきだ、というこのブログ主の主張です。このブログの主、もしくはこれに好意的なブックマークコメントを付けている人たちにとっては、自分たち とは違う世界が「ある」ということが最も重要なことということになっているのでしょう。しかし、それが社会の分析に対してどのように役に立つものなのかは わかりませんが。

このように、自分たちの住む世界と、「彼ら」の住む世界を(客観的根拠に依らず、暴力的に)分断して、「彼ら」を貶める (あるいは理解を示す振りをして、やっぱり貶める)という言説が近年になって現れています。例えば「こみっく☆トレジャー21」のサークルペーパーで紹介 した適菜収の『日本をダメにしたB層の研究』(講談社、2012年)はその典型例と言えるでしょう。この本では、様々な大衆文化やビジネス言説、さらには 政治までもに「B層」的なるものが蔓延し、日本が駄目になっているという主張が繰り返されるものの、ほとんど自分の気に入らないものを「B層」的だとして バッシングしているものでしかありません。適菜はこの前後も種々の著作やあるいは『週刊文春』での連載などで「バカ」に関する論考を多く発表しています が、それらも「バカ」を嘲笑、もしくはバッシングするものでしかありません。

私は「バカ」を礼賛せよと言っているのではありません。そう ではなく、このように「バカ」をただ貶めるだけで、過度な価値判断から一歩引いた分析や、もしくは社会的な要因などについての視点を欠いたまま、「自分よ りも劣った人間がいる」ということをただひたすら示して終わり、というものは、果たして論客としての責務を満たしているかどうか、疑問が突きつけられるも のでしょう。ましてや、同書のように、(適菜の身勝手な決めつけによる)「B層」を生み出した原因が「近代」だの「民主主義」だのと言われたら、さらに疑 問が突きつけられるべきです。

他方で、このような「莫迦」を強調する言説は、適菜のような「莫迦」を嘲笑、バッシングするようなものとは 別に、「莫迦」の現実を直視し、彼らを「ケア」したり、もしくは「自分たちとは違う彼ら」が社会を生み出しているのだという現実を認識しなければならな い、というものでしょう。典型例としては、私にたてついてくる某自称社会学者もそうなのですが、もう一つ挙げるとすれば、斎藤環の自民党論でしょう。斎藤 は2012年の衆院選において自民党が大勝した件について、自民党及び現代の大衆の「ヤンキー」性に原因があるとし、さらに現代の日本人における「ヤン キー化」なども指摘しています。

しかし、こと衆院選を考えるとするならば、大きい要因は野党の乱立や分裂、そして野党が概ね「脱原発」を 掲げて選挙に挑んだことなどからくる、自民党の「敵失」や、あるいは民主党が主に経済関係での当初の鳩山由紀夫政権の公約が実現せず、それどころか批判し ていたはずの消費税増税に傾いてしまったことなどが挙げられるのではないかと思います(例えば、http://synodos.jp/politics/418)。 このように、自分の予想していない、もしくは遠巻きに見下している社会的・政治的傾向が起こっているのは、日本人の「本質」が変わったからだという言説 は、実際には特定の社会事象について語られていることの検討を怠っていたり、あるいは客観的証拠を欠いているものにしかなりません。

そも そも「ヤンキー」というものは、2000年代後半頃からのサブカルチャー論の中で注目されてきたものでもあります。日本の大衆の文化や心性を支える存在と しての「ヤンキー」は、サブカルチャー論のプレーヤーである文化系エリート層において、「下流社会」論などの若者論との絡みで、これらの一見すると「下」 の層こそが日本の本質を形成しているのではないかとして注目されたという経緯があります。私も寄稿している『ヤンキー文化論序説』(河出書房新社、 2009年)はその典型例と言っていいでしょう(なお私はそのような「文化論」として作られた本に、空気を読まず義家弘介批判を書いたもよう)。

こ の2つの言説には、共通した傾向があります。それは、社会の「分断」を前提にして、さらにその「分断」に上下関係をつけ、そして「優れている」ほうに自ら を置き、そして「下」のほうをバッシングする、もしくは温情に満ちた、その実は暴力的な視線を投げかける。そしてそのような立場に立つこと「それ自体」を 自らの優位性と見なし、専門知や科学などを叩く。そのような構造が近年の言説には見受けられるわけです。

このような社会の「分断」を前提 にして他人を見下す構造は、あらゆる「論客」において好都合なものです。例えば学歴エリートをバッシングしたい層ならば、自分たちこそが社会の本質に関 わっているものであり、エリートの議論は単なる空論に過ぎないと最初から排除することが可能ですし、あるいは学歴エリートという「外部」から自らが攻撃さ れている、という論調に落とし込むこともできます。

逆にエリート層にとっては、「底辺」「低学歴」を知っている自分こそが社会の「本質」 を知っているという錯覚を持つことによって、過度な価値判断を慎むような議論を貶めて、観念的な優位性を得ることが可能です(残念ながら、商業ベースにお いても、評論の世界において科学的、客観的な判断基準が確立されているとは言うことはできません。そのため、データとしての正しさなどよりも観念的な優位 性を持つ論客のほうがメディアでも持ち上げられやすいという現状があります)。またエリートとしての自分は「底辺」を「教育」することができる、あるいは しなければならないというヒロイズムに陥ることも可能です(ガタケットのサークルペーパー参照)。

しかしこれらのような議論がいくつもの 問題を抱えていることは明白でしょう。第一にこのような社会の「分断」を前提にした議論は、社会の連続性や移動の可能性を無視したものであるということ。 第二に観念的な「分断」を前提にすることによって、そのメカニズム、そしてそれを作り出している社会構造への批判が失われてしまうこと。第三に、「分断」 ベースの議論の蔓延によって、言説を客観的に検討するという行為が衰退すること(これはもう起こっていますね…)。

このような議論の広が りにより、最も懸念されることは、あらゆる社会問題へのコミットの動機として「他人を見下すこと」が前景に出るような「論客」のあり方が広がっているので はないかということです。特にこれは、ロスジェネ系の論客によって主導された労働言説において起こっています。ロスジェネ系の議論は、当初ベースとしてい た労働問題から離れ、価値観闘争的、観念的なものとなっていますが、ロスジェネ的な(デフォルメされた)「労働環境」を知っていることをベースとして学者 や他世代の論客・研究者を貶め、とんでもない政策ないし社会観を提案してしまうという事態として現に現れています。論客としては、池田信夫、城繁幸、赤木 智弘などが挙げられるでしょう。

また運動家などが、大衆が自分の関心の持っている問題に興味を示さない、もしくは間違った認識を持ってい ると考えたときに、いかにして問題を広げるかということではなく、「問題に関心を持っている自分が偉い」「大衆は問題に関心を持っていない、自分は抑圧さ れた存在だ」「自分にとってよくないことが起こるのはどう考えてもお前ら(大衆)が悪い」という態度に陥って先鋭化するという事態です。典型例としては表 現規制問題における一部のネット上の層や、消費税増税問題における田中秀臣のネット上での振る舞いが挙げられますが、これではますます支持は減ってしまう でしょう。

社会の「分断」を前提として、そして「分断」の向こう側を観念的に貶める議論は、論者自身にとっては自らの優位性を簡単に得る ことができ、また「対立」を演出したいメディアにとっては簡単に「絵になる」対立構図を演出することができます。しかしこのような議論は、これらのもたら すわずかな利点を覆い隠すほどの害悪を持っています。それは、本来であれば正しいはずの議論への支持の遠ざかりであり、議論そのものの堕落であり、論客自 身の精神の崩壊です。観念的な優位性を得ることに満足して、これらが毀損されていく様を、「論客」こそが直視するべきではないでしょうか。

※本稿で採り上げた過去のサークルペーパー
こみっく☆トレジャー21「2012年・今年の3冊?」
http://ch.nicovideo.jp/kazugoto/blomaga/ar28524
SUPER ADVENTURES 67「これは学力の話ですか?はい、ジェンダーの話です」
http://ch.nicovideo.jp/kazugoto/blomaga/ar258130
サンシャインクリエイション60「現代リベラルの「生存戦略」」
http://ch.nicovideo.jp/kazugoto/blomaga/ar288092
ガタケット127「劣化言説と「実践者」のヒロイズム」
http://ch.nicovideo.jp/kazugoto/blomaga/ar288093