自分だけは大丈夫。
『正常性バイアス』は身を守るための鈍感さを我々に与えてくれる。
「死」を考えるにあたっても、人は、自分とは直接関わりのないことだという認識の下、主観的には認識せず、常に客観的に捉えるから、恐怖もなしに思考することができる。実際のところ、主体的に死を捉える機会などそうそうないだろうと考えられる。
『自分は大丈夫』『今回は大丈夫』『まだ大丈夫』
逆に、この感覚がなく、常に主観的に「死」を捉えていたら、毎日が怖くて、それこそ生きていられない。人は主体的に生きたいとは思うが、死に関しては客観的に捉え、主体性をそこに介在させようとはしない。
『正常性バイアス』
「日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応して疲弊しないために必要なはたらき」
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まさに、身を守るためのはたらき。。。「死」を主観的に捉える瞬間を、日々遠ざけてくれる。
「ルーベンス 聖母被昇天」
「危うく死ぬところだったという一瞬」の体験、あの時の背筋が凍るような感覚は、人が生きていく上では、珍妙奇天烈な例外なのだろう。
そう思わずにいられないほど、「死」を遠くに置いて、常に人は思考する。
『死を見詰める』
が、その一方で、『方丈記』にあるように、
「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。」
この世にこうしてあることは、それが何故なのか誰にも分からない。何故生まれ、どうして死なねばならぬのか、死んでどうなるのか。全くもって分からない。
分からぬまま、日々齷齪し、苦悩する。
何故生まれたのかも、なぜ死ぬのかも分からぬまま、人は、生まれた理由を求めて彷徨い歩く。それが人生そのものだと言う人もいる。人は生まれた意味を知るために生きているのだと言うのである。「死」を想うより、まず第一は「生」の認識、これが人の世の第一義であるかのように、人は「生」を思う。
「死」を遠くに追いやり、「生」の意味ばかりを考える日々。昨今流行りの「生き甲斐探し」、文科省ご推奨の「生きる力」もまた然り。
因みに、『方丈記』における死生観の中核たる「無常観」、すなわち「諸行無常」「盛者必衰」もまた、「死」を客観的に捉え、『正常性バイアス』の下で思考している。
もちろん、かく言う私もまたその種に漏れない。
本当にこれでいいのだろうか。
「死」は誰にも例外なく必ず訪れる。生きとし生けるもの全てにとって、それは必然なのである。「死」は間違いなく、偶然などではない。ましてや、自身と無関係でなどあらうはずがない。(と述べつつ、今の私は「死」を客観的に把握しているのであるが、、、)
「生」の意味を知ることは、もちろん大切だ。が、「死」の意味を一般論や概念論として客観的に捉えることばかりしていていいのだろうか。
『死を見詰める』
主体的に死を見据え、主観的に死を思考する。この難しい課題に「生」の真っ只中で向き合うのは相当な難問である。
渦中にあっては、渦の外形は決して捉えられない。「生」の渦中にあってその「生」の姿を捉えるのは至難。況やや「死」をや、である。
先述の「危うく死ぬところだった」と言う珍妙奇天烈な例外でない状態で、定期的にその感覚に向き合うために、多くの宗教家、修験者、求道者たちは、ひたすら精進に励むのかも知れない。苛烈な精進の果てに「死」の面影が見えると信じて、、、
幕末期の志士や太平洋戦争時の特攻兵などは、死と隣合わせの日々を常に過ごし、逃れることのなき死を凝っと見詰めていたに違いない。
死の瞬間、如何にあるか。死に向かって何を為すか、何を成し遂げるか。正に死を見詰めて生きていたに違いない。
今の世も、不幸にして「死」をその鼻先に突きつけられ、その恐怖に打ち震える人は当然居る。
病であったり、環境であったり、苦しみをを余儀なくされているものは数多い。
が、多くの一般人は、その域にいない。それは間違いなく至福の喜びなのだが、その認識もなく、ただただ「生」を貪るのみ。私もまたそのうちの一人なのだ。
そんな中、どうしたら主観的に死を捉えられるか。
それが、土台無理なのだとしたら、どうするのがいいのか。どうすべきなのか。
「生」と「死」は裏返しではない。
「生」と「死」は対極にあるのではなく、
『生きているうちは決して死なない。死んだらもう生きていない。』
と言う冗談のような言葉が示すが如く、「生」と「死」は全くの別物である。。。と思う。
「生」をいかに追究したところで「死」に辿り着くことはない。が、何もしないでいたとしても、勝手に「死」に至る。至った末には、「生」を取り戻すことはもはや叶わない。と同時に生きているものは自らの「死」を手中にすることは出来ない。
やはり、主観的に「死」を捉えることは土台無理なのだ。否、むしろそうしようと画策すること自体、「生」なるものの傲慢なのだろう。
としたら、我々に出来ることは、
『死を主観的に捉えることは出来ない』
ということを明確に認識することなのだろう。出来ないことを素直に出来ないと認識する。そして、その出来ないということを常に意識し続ける。
いわゆる『無知の知』『知之為知之、不知為不知、是知也』と似ている感覚。
「分からない」ことはいけないことではない。「分からない」ものを分かった気になることがいけないことなのだ。
『知らざるを知らざると為す』
これを「知る」ということだと孔子も言っているではないか。
『死を見詰める』とは『捉えられない死を捉えられないものと認識し、その捉えられない現状を意識続けること』と等しい。
それを可能にさせるものが、『正常性バイアス』。矛盾しているようだが、確かに不安から解放された思考でなくては、継続は難しい。要は『意識し続けること』なのだとしたら、安定は必須である。安定した思考の継続のために『正常性バイアス』は存在しなくてはならない。
「死」を手中に出来ない「生」ある我々は、安定してその事実を認識し続け、知らぬこと、分からぬことを謙虚に懐き続ける。
それは、
決して目に見えぬ、かつ、眼前にある「死」に面した、「生」ある我々のもがきであり、あがきであり、苦しみでもあるが、と同時に、喜びであり、幸せであり、充実でもある。
生きとし生けるもの、その全てが、いつかは必ず「死」に至る。それを手中にした時は、もはや生きていないのだから、「生」あるものに「死」を理解できないのは当然なのだ。
そのことを認識しつつ、「死」に至るまで精一杯「生」を満喫しようと思う。「死」に至るまでは決して死なないのだから、存分に「生」を味わおう。
『まだ大丈夫』『まだだまだ大丈夫』
そう思って大往生を遂げたいと思う。
「死」に対して謙虚であること、
『知らざるを知らざると為す』
それでいいのかも知れない。