Mediocrity

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凡庸たるは幸甚の至り。〜平凡なる人生を平凡に生きる、これぞ至福かつ至難。願わくは、いざよいとたゆたいの日々が、ただただ平穏に流れ行かんことを。〜

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自分だけは大丈夫。

『正常性バイアス』は身を守るための鈍感さを我々に与えてくれる。

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「大自然の生命感を表現する二重の虹」


「死」を考えるにあたっても、人は、自分とは直接関わりのないことだという認識の下、主観的には認識せず、常に客観的に捉えるから、恐怖もなしに思考することができる。実際のところ、主体的に死を捉える機会などそうそうないだろうと考えられる。
『自分は大丈夫』『今回は大丈夫』『まだ大丈夫』
逆に、この感覚がなく、常に主観的に「死」を捉えていたら、毎日が怖くて、それこそ生きていられない。人は主体的に生きたいとは思うが、死に関しては客観的に捉え、主体性をそこに介在させようとはしない。


『正常性バイアス』
日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応して疲弊しないために必要なはたらき」
by Wikipedia©️


まさに、身を守るためのはたらき。。。「死」を主観的に捉える瞬間を、日々遠ざけてくれる。

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「ルーベンス 聖母被昇天」


所謂、神に召されるとされる瞬間、その時が実際に訪れる時まで、「死」を自分のものとして認識することはないのかもしれない。


「危うく死ぬところだったという一瞬」の体験、あの時の背筋が凍るような感覚は、人が生きていく上では、珍妙奇天烈な例外なのだろう。
そう思わずにいられないほど、「死」を遠くに置いて、常に人は思考する。


が、その一方で、『方丈記』にあるように、

「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。

この世にこうしてあることは、それが何故なのか誰にも分からない。何故生まれ、どうして死なねばならぬのか、死んでどうなるのか。全くもって分からない。

分からぬまま、日々齷齪し、苦悩する。
何故生まれたのかも、なぜ死ぬのかも分からぬまま、人は、生まれた理由を求めて彷徨い歩く。それが人生そのものだと言う人もいる。人は生まれた意味を知るために生きているのだと言うのである。「死」を想うより、まず第一は「生」の認識、これが人の世の第一義であるかのように、人は「生」を思う。


「死」を遠くに追いやり、「生」の意味ばかりを考える日々。昨今流行りの「生き甲斐探し」、文科省ご推奨の「生きる力」もまた然り。

因みに、『方丈記』における死生観の中核たる「無常観」、すなわち「諸行無常」「盛者必衰」もまた、「死」を客観的に捉え、『正常性バイアス』の下で思考している。
もちろん、かく言う私もまたその種に漏れない。


本当にこれでいいのだろうか。

「死」は誰にも例外なく必ず訪れる。生きとし生けるもの全てにとって、それは必然なのである。「死」は間違いなく、偶然などではない。ましてや、自身と無関係でなどあらうはずがない。(と述べつつ、今の私は「死」を客観的に把握しているのであるが、、、)

「生」の意味を知ることは、もちろん大切だ。が、「死」の意味を一般論や概念論として客観的に捉えることばかりしていていいのだろうか。


『死を見詰める』

主体的に死を見据え、主観的に死を思考する。この難しい課題に「生」の真っ只中で向き合うのは相当な難問である。
渦中にあっては、渦の外形は決して捉えられない。「生」の渦中にあってその「生」の姿を捉えるのは至難。況やや「死」をや、である。

先述の「危うく死ぬところだった」と言う珍妙奇天烈な例外でない状態で、定期的にその感覚に向き合うために、多くの宗教家、修験者、求道者たちは、ひたすら精進に励むのかも知れない。苛烈な精進の果てに「死」の面影が見えると信じて、、、


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「密かに敬愛する幕末志士、久坂玄瑞」


幕末期の志士や太平洋戦争時の特攻兵などは、死と隣合わせの日々を常に過ごし、逃れることのなき死を凝っと見詰めていたに違いない。
死の瞬間、如何にあるか。死に向かって何を為すか、何を成し遂げるか。正に死を見詰めて生きていたに違いない。

今の世も、不幸にして「死」をその鼻先に突きつけられ、その恐怖に打ち震える人は当然居る。
病であったり、環境であったり、苦しみをを余儀なくされているものは数多い。

が、多くの一般人は、その域にいない。それは間違いなく至福の喜びなのだが、その認識もなく、ただただ「生」を貪るのみ。私もまたそのうちの一人なのだ。

そんな中、どうしたら主観的に死を捉えられるか。

それが、土台無理なのだとしたら、どうするのがいいのか。どうすべきなのか。


「生」と「死」は裏返しではない。
「生」と「死」は対極にあるのではなく、

『生きているうちは決して死なない。死んだらもう生きていない。』

と言う冗談のような言葉が示すが如く、「生」と「死」は全くの別物である。。。と思う。

「生」をいかに追究したところで「死」に辿り着くことはない。が、何もしないでいたとしても、勝手に「死」に至る。至った末には、「生」を取り戻すことはもはや叶わない。と同時に生きているものは自らの「死」を手中にすることは出来ない。

やはり、主観的に「死」を捉えることは土台無理なのだ。否、むしろそうしようと画策すること自体、「生」なるものの傲慢なのだろう。


としたら、我々に出来ることは、

『死を主観的に捉えることは出来ない』

ということを明確に認識することなのだろう。出来ないことを素直に出来ないと認識する。そして、その出来ないということを常に意識し続ける。
いわゆる『無知の知』『知之為知之、不知為不知、是知也』と似ている感覚。

「分からない」ことはいけないことではない。「分からない」ものを分かった気になることがいけないことなのだ。

『知らざるを知らざると為す』

これを「知る」ということだと孔子も言っているではないか。


『死を見詰める』とは『捉えられない死を捉えられないものと認識し、その捉えられない現状を意識続けること』と等しい。


それを可能にさせるものが、『正常性バイアス』。矛盾しているようだが、確かに不安から解放された思考でなくては、継続は難しい。要は『意識し続けること』なのだとしたら、安定は必須である。安定した思考の継続のために『正常性バイアス』は存在しなくてはならない。


「死」を手中に出来ない「生」ある我々は、安定してその事実を認識し続け、知らぬこと、分からぬことを謙虚に懐き続ける。


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「愛」を喜びとする日々も、

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「食」を満喫する日々も、

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「遊」に戯れる日々も、

それは、

決して目に見えぬ、かつ、眼前にある「死」に面した、「生」ある我々のもがきであり、あがきであり、苦しみでもあるが、と同時に、喜びであり、幸せであり、充実でもある。

生きとし生けるもの、その全てが、いつかは必ず「死」に至る。それを手中にした時は、もはや生きていないのだから、「生」あるものに「死」を理解できないのは当然なのだ。

そのことを認識しつつ、「死」に至るまで精一杯「生」を満喫しようと思う。「死」に至るまでは決して死なないのだから、存分に「生」を味わおう。

『まだ大丈夫』『まだだまだ大丈夫』

そう思って大往生を遂げたいと思う。


「死」に対して謙虚であること、
『知らざるを知らざると為す』

それでいいのかも知れない。
この10月19日で、我が家は結婚25周年を迎えた。

銀婚旅行は伊東温泉。宿泊地に伊東を選んだ理由はたった一点。奥さんが、幼き頃から憧れてやまなかった『サンハトヤ』に宿泊せんがためである。
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♪伊東に行くならハトヤ、ハトヤに決めた♪

と、かつてCMに頻回流れていたが、思えば最近聞かなくなった。
今もなおその立地条件は至高だが、いかんせん昭和の建築で老朽化は否めない。まさに昭和の香りが強く漂うホテル内、お魚風呂、古代プールなどは、ううむ、、、と思わず唸ってしまった。
が、サービスは上々。従業員も、一流ホテルとしての矜持をしっかりと抱き、とても丁寧であった。夕食、朝食とも豪華で、レストランシアターのディナーショー〔塩乃華織(しおのかおり)の演歌ショー、実に歌の上手い歌手であった。ワンチャンスさえあれば、売れること間違いなしだと思うのだが、、、〕など、かつての趣を維持している。
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初日往路で訪れた海老名SA下り『ポルトガル』のメロンパン、『海老名茶屋』のえびえび焼き・ジャンボ海老名棒も旨かったが、サンハトヤの料理と比すれば、その差は歴然。夕飯は実に美味しゅうござった。

サンハトヤにチェックイン前に話を戻すが、伊東に到着後、直ちに遊覧船はるひら丸イルカ号に乗船。これから泊するサンハトヤを遠く海上から見やった。碧く清らかな海はもちろんのこと、高く蒼い空が印象的であった。
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夕食後は、のんびりと夜の海と月を眺め、
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翌朝は海から出る日を堪能。
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雲が多く、水平線から浮かび上がる日を見られなかったのは残念であった。
日の出後、朝食前に展望風呂に浴し、最後の温泉に浸かった。男風呂は完全独占状態。のんびりと入らせてもらった。
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朝食は、バイキングと言うことで、たらふく戴いたのだが、宿泊者数が20名程度と平日につき少なかったにもかかわらず、ホテル側は一切のケチりがなく、ふんだんな量が配されていた。特に金目鯛のタタキの舟盛りは、2杯ほどお代わりをし、金額にしたら、それだけで2,000円相当は戴いたことだろう。
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2日目の旅程は、大室山、ねこの博物館、城ケ崎海岸と巡って楽しんだ。

『大室山』は、山焼きをする場で樹木がなく、まるで花札の芒、坊主を思わせてくれる山である。折も折、一面のススキの原となっており、リフトで山頂に向かいつつ、秋風をしみじみと感じることができた。
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『ねこの博物館』では、まさか、この私が猫派であった、、、ということに気付かされた感があり、「奥さんの連れでなければ行かないよ」と思っていたが、むしろ私の方が大いに楽しませてもらった1時間であった。

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『城ケ崎海岸』は、伊豆火山帯の噴火による熔岩によって形成されものだが、切り立った崖の眼下は碧く透き通った海、門脇吊橋からの眺めは膝が震えるような美しさであった。

帰路は、兎に角眠くならないようにと考え、『強眠打破』に加えて『メガシャキ』も飲んだものだから、帰宅後目が冴えてしまって大変だった。が、無事是何よりということで、眠れぬ夜もまた乙であった。

例年の前日点灯が恒例となっているメインキャンドル点灯だが、今回は銀婚旅行の日程とかぶるため、前倒しして17日に実施した。さすがにこの行事、外すわけには行かないだろう。
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今回の点灯で、すべての数字を燃やし尽くした。25年、毎年点灯し続ける夫婦は、この日本に果たして何組いるのだろうか。

さてと、次回、夫婦の道行は何処へやら?
とにかく次の機会を楽しみに待ちたいと思う。
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本日、右下顎完全埋没智歯の含歯性嚢胞抜去手術を終えた。😄
11:00頃手術室入室、全身麻酔下で施術、麻酔を覚まして病室に戻ったのは14:00頃か。まだうつらうつらしていたので定かではない。その後、18:00くらいまで、こんこんと眠らせていただいた。
抜去した歯は粉々とまではいかないものの、6つに割って抜き取ったようで、血だらけとなったそれが、ケースに入って私の手元にある。写真は撮ったが、流石に他人には不快感を与えるであろうから、写メとして公開はしない。
元来、嚢胞によって顎の骨に小指第二関節大の空洞が形成されていたわけだが、智歯の抜去によりさらに空洞は拡大、小指一本分は空洞になっていると思われる。主治医の弁では嚢胞もほぼ取り切れたそうなので、今後、骨が徐々に再形成されていくことだろう。それまでの間、数年はかかるであろうが、殴り合いの喧嘩は絶対にしないでおこうと思う。同僚、生徒、知人に、見知らぬ人よ、どうか私を殴りたいほど憎んだりしないでほしい。🙏
下顎神経管に、大変近接圧迫していた智歯なので、抜去時に神経を傷つけ麻痺が発生する可能性が高かったのだが、事を終えて一切の損傷なし。主治医の技量の高さに感謝である。現状全く麻痺症状は見られない。主治医は20代、若く美しい女性である。

今は点滴による痛み止めが奏功し、痛みの程度は10のうちの1程度。若干腫れ始めてきている。問題は明日以降。右頬は倍くらいに腫れ、別人のような顔になることだろう。痛みの程度は、果たして10のうち 7 or 8 まで行くか!😱

先ずは今宵、眠れることを深く祈ろう。
このところ、思うに任せない日々が続く。
何が何やら、自分でも分からないのだが、兎に角結果が芳しくない。

日常のルーティーンは怠りなく行い、やれることをしているつもりである。
年中行事もきっちりこなし、欠かさず行ってきた物事は営為継続してきた。
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恒例としている、前橋公園の花見も、夫婦で出掛けて、今年で早や25回目となったのもその一つである。
基本、三日に一度と決めた飲酒。時折破るが、大概は守られている私の中の決まりごとだ。
時節ごとの墓参は、両家とも行い、誠意を尽くしている。
その他諸々、やるべきことを継続し、それなりに折り目正しく生活していると思う。
レギュラーな日々を過ごすことで、安定的な毎日を手に入れるべく、適宜努力しているつもりだ。
にも関わらず、イレギュラーなことが数多く起こる昨今。

そんな中、得られた成果は、今一つどころか、今二つ、今三つと言ったところか、、、

途中経過は悪くないのに、肝心要の結果が出し切れない日々。

自分自身の競技における記録も然り。
(記録的な低迷は甚だしい限りだ。)
生徒の指導における結果も然り。
(今日で三日目となる県高校総体、指導している投擲ブロックで惨憺たる結果となった。選手の動きは悪くないのに、ベストパフォーマンスに導けない。まさに指導力不足。)
家庭の安寧度の状況も然り。
(前半部分、誤解を招きやすい文章なので、改めて断りを入れておくが、家庭の安寧度は夫婦関係の問題ではない。父母に関する問題が主である。)

イレギュラーな事例が怒涛の如く我が元に押し寄せる。
その度、凹み、心は萎える。

が、一方で、楽しきこともあった。
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中学のクラス会で盛り上がり、互いの年齢を確認し合って大笑い。
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弾ける笑顔は、思い出の丈に比例する。

教え子と楽しきひと時を過ごし、エネルギーを分けてもらったりもした。
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この日は女子クラスの教え子たちの集まりで、美人に囲まれてまさしくハーレム状態であったが、結構な散財でもあった。まっ、そこはご愛嬌、いたしかたあるまい。

全日本マスターズに初参戦するついでに、長いこと会っていなかった大学時代の友人を訪ねて名古屋に初めて行ったりもした。
ちょっとした行き違いが過去にあり、音信不通になり掛けていたが、岐阜遠征を機会に、思い切って連絡を取って、問題なく和解。
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あんかけスパゲティは、胡椒がピリリと効いて癖になりそうな味であった。きしめんも店をハシゴして、何杯となくいただいた。

『人間万事塞翁が馬』
と言う。

結果の伴わない日々は、今後の躍進の兆しであろうか。
今はただ辛抱の時なのか。。。

屈んでおくか、兎に角。
きっと上向く時は来る。そう信じて歩もうと思う。

『前橋二番』
サッポロ一番が販売した前橋市限定版だが、2番であることを誇るところがいい。
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裏蓋には、2番自慢なるものまであった。
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2番には2番の豊かさがある。
それはおそらく、私の座右の銘に通ずることでもある。

『凡庸たるは幸甚の至り』
ゆえに一歩一歩、それでいいのかもしれない。
結果を求めるのも一手。
結果に一喜一憂することなく、淡々と積み重ねていくのも、また別の一手。
今はただ、歩んでいこう。
下の写真は現在の練習環境である。
(群馬県立伊勢崎清明高等学校 校庭)
防護ネットが一つあるものの、サークル周りは剥き出しである。ここで円盤、ハンマーの双方とも投げている。一度、指導している選手と一緒にハンマーを投げていて、バランスを崩した際に手を離したら、待機中の女子選手にハンマーが向かって行き、かなり危険なことがあった。相当気をつけないとなるまい。事故など決して起こさないようにしていきたい。ちなみに、ここ、落下位置は40m程度までしか対応できない。男子ハンマーの選手が育ってくると、この場での練習は実際難しい。
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一方こちらは、前任校の練習環境の写真。
(群馬県立藤岡中央高等学校 校庭)
藤岡市総合グランド附属のケージを借り受け、学校に移動・設置したものだ。落下位置は60m超まで可能、贅沢過ぎる練習環境であった。
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今シーズンは、私自身が記録的に低迷し、40m絡まりの記録とは完全に無縁になってしまったために、現状の環境で何ら不足はないのだが、そこに不足がないことが、実は大いに寂しかったりもする。まあ、仕方のないことなのだが、、、


人の一生の中で与えられる環境に関して、『人には常にその時々において、最善最適な環境が与えられる』と私は考えている。たとえその瞬間、その時々には不足や不満を抱くような環境だとしても、あとから考えてみると、「ああ、あれはあれでちょうど良かったのかも⁈」と、誰もが思うようにこの世の中はなっているのである。それが人の世の巡り合わせというものだ。
実際のところ、そうやって環境を受け入れ、生かした者だけしか成功は味わえない。
逆に、環境を生かすどころか、不平不満に覆われた生き方をしている者は、どんな良好な環境に置かれようと不満から解放されることはない。ましてや環境に満足するなどということは一切ないだろう。なんやかやと環境のせいにして、物事を自分の責として把握しないから、不満から解放されないのだという現実。そのことに一生涯気づくこともないのかもしれない。が、それは何とも寂しい人生である。


今は、とにかく今あるこの環境で、生徒とともに力を尽くしていきたい。きっといつか、現状の記録の落ち込みも、意味があることなのだと、気づく日が来ることを信じて。
そこに気づけたなら、この一年は大いに意味のある一年となることだろう。
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