宗教の限界 | 背番号7番の暇つぶしブログ

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昨日、イスラム教徒の方と宗教について議論しました。




まあ、議論といっても、

私は宗教を否定しないし、どの宗教が良いとか悪いとかいうポリシーもないので、討論にはならないのですが。







発端は、イスラム教徒が豚肉を食べない、ということでした。



私は卵を食べないので、そのこと自体はどうでもいいのです。

ですが、そのことから発展して、私が神を崇めない(存在を否定はしない)ことに対して、そのイスラム教徒が納得できない点から、議論になったのです。





彼は言います、「あなたを創ったのは誰ですか?」


私は答えます、「両親です。」


さらに問います、「では両親を創ったのは?」


「そのまた親です。」


「じゃあ、ずっと遡っていって、人間は結局誰が創ったのでしょうね?」


「ネズミみたいな小動物かもしれない。その前は爬虫類だったかもしれない。それ以前はミトコンドリアみたいな原始動物で、その前は細胞みたいな存在で、その前は原始レベルの何かかも。」




「じゃあ、それは誰が創ったのですか? 神様じゃないのですか?」







こういった議論は初めてではありません。


以前実家にしつこく勧誘に来ていた○ホバとか○のみの塔とかのキリスト教系、大学で昼休みに誘いをかけてきた仏教系、

基本的に議論好きな私は、議論のケンカを売られた場合は基本買うので、しょっちゅう戦わせていたんですね。



もちろん、彼ら彼女らの信仰を否定しないし、いないと証明できないものを頭から否定することもありません。「じゃあ、神様連れて来い」などと無理難題をふっかけることもありません。


ただ、ロジカルにはロジカルでぶつけあうのが正しい姿だと思うのです。

結果的に自分のロジックが薄弱と思えば、神を信じることもあるかもしれません。







「創造」というテーマは、宗教家には格好の獲物です。

何故なら、未だ科学的に解明できていないからです。

進化論にしても、仮説に過ぎないんです。



天動説が科学によって否定された今、「人類創造」と「死後の世界」は、唯一彼らに残された活躍の場なのかもしれません。


「死後の世界」には、議論の余地はないでしょう。

誰も行って帰ってきてないのですから、あとは信じるか信じないかしかないわけです。


とすると議論の余地があるのは、「創造」しかないのは当然でしょうか。







「人類の以前はネズミのような小動物だったかも知れない、その前は微生物のような存在で、それ以前は細胞みたいな組織で、それ以前はなんらかの原子の集合体で…。」


「ではそれを創ったのは誰なのか、分かりませんか? 神様なんですよ。」







私は「神」は、トランプのジョーカーみたいな存在だと思うんです。



「大富豪」(大貧民)というゲームがありますが、一番弱いカードから積み上げていっても、ジョーカーを出せば全て流れてしまう。

それがゲームの途中でも最後でも結果は一緒、すべて流れてしまう。



議論において「神」の登場を認めるということは、その時点で「思考を停止する」ことだと思うんです。

その先に進めなくなってしまうんですよ。







時に宗教は争いごとを生みます。


人間の歴史上、宗教が直接的間接的な理由となって起きた戦争は多々あるんです。





また政治闘争に市民を巻き込むために、敢えて宗教を持ち出した例も少なくないでしょう。

なぜ宗教を持ち出すのか、それは「神」を登場させることによって、市民に事の是非に対する思考を停止させることが目的だと私は考えています。





よく、「聖戦」という言葉が出てきます。

「聖なる戦いなのだから、すすんで戦い、死ぬべきだ」とされます。



では、この戦いは本当に聖なる戦いなのか、

聖なる戦いとは誰が決めたのか、それは本当に正しいのか、

聖なる戦いでは死ぬことが正しいのか、敵の生命についてはどうなのか、



兵士がそういったことに疑問を感じ、納得しなければ戦わないのでは、指揮官としては困るわけです。

そしてこれに対して、納得できる回答は恐らく無いんです。なので兵士の思考を止めさせたい、疑問に思わないようにさせたい。

だからジョーカーである「神」を持ち出さざるを得ないのではないのでしょうか。








日本では揶揄表現として、「宗教みたい」などと言ったりします。


個人の信仰は自由でありそれは憲法にも保障されていますが、何かを一途に信じる人が集団を造ると、「宗教みたい」と揶揄されるんです。


まあ、私の会社の人間も、よく言われたものなのですが。







それはやはり、思考を止めて盲目的に従うことしかしなくなるからではないでしょうか。

また納得の行かない相手を論理的に説得するのではなくて、何にも勝る無敵のカードとしての「神」を出してしまうからなんです。




人間は考える生命体です。

特に、「自分の行動を振り返って考える」ことが出来る唯一の存在ではないでしょうか。


犬にせよサルにせよ、事の是非を考えて行動するわけではありません。

悪いことをしたら痛い目に合う、よいことをしたら誉められる、その法則に従ってるだけです。

物事を深く思考できるのは、地球上では人間だけなのです。







彼らの言い方を借りれば、

そういった人間を創ったのもまた、「神」なんです。

だから「神」を持ち出して思考を停止させることは、神様にとっては矛盾するんです。


ここに「神」や「宗教」の限界があるんですね。







ババ抜きでは、ジョーカーは忌み嫌われます。



時に「神」も、忌み嫌われることがあるんです。

特に科学の分野では、その発展を阻害するものとして。





神様にとっては、迷惑な話ですよね。