=追憶の記=炎のさけび      ー佐藤かずをの小説
多くの読者のみなさまには、現在この書物が品切れとなっており大変ご迷惑をおかけして誠に申し訳けなく思っております。
また、著者宛に多くの励ましのお便りをいただきましたことに、改めて感謝の意を申し上げます。(双葉書房 編集部)
  
 著者が3年の歳月を費やして書下ろした不朽の名作ー(津和野伝説)炎のさけび                  
発売と同時に早くも28万部、すべての書物が売り切れとなりました。当初から大変ご好評をいただいていただけに、読者の皆様には本当に申し訳けなく思っております。。

津和野が歴史上にはじめて脚光を浴びたのは、今から約800年前能登の国からの当地に来た吉見頼行が、この地にはじめて、三本松城、を築いたことからはじまる。以来吉見氏は十四代三百余年間、騒乱の世に処してよく郷土の開発に尽くしたと言われている。関ヶ原の戦い後、千姫との悲恋物語の主人公、坂崎出羽守の治世十六年間、それにつぐ亀井氏十一代を経て明治四年廃藩置県に至るまでの、六百年にわたって統治された伝統の城下町なのである。
歴史家たちがこの津和野をもって山陰の小京都と呼んでいることに、我が津和野は六百年の歴史と伝統のなかに輝かしい文化の華が咲き誇った土地である。私たちは、この輝かしさのなかで豊かな郷土津和野の町の歴史を今一度顧みながら、そして未来への希望と力を生み出してゆきたいものである。
「炎のさけび」 
      じえもじゅうざ
【治右衛門十左冤罪事件の真相】  江戸時代の中期延享2年幕府までも揺るがしたこの大事件 津和野藩の凶行)がいま解き明かされるー
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この物語は封建制度下で本当にあった残酷で且つ凄惨な事件である。
津和野藩の上納紙制度と紙すき悲話。義人、吉松仁右衛門父子三人の誅伐は蛮行非道の悲運に散った運命だった。

時は延享2年、江戸時代中期、徳川幕府、元紀州藩主で8代将軍、徳川吉宗の時代である。
吉宗は二十九年にわたって享保の改革を主導し、幕府財政を再建すると共に法と官僚に基づく国家支配の組織を整備した将軍である。
延享二年の年明け(1745)吉宗は62歳で将軍の座を長男の家重に譲り、西丸に移り大御所となる。しかし自らは新将軍を陰で輔弼しようとするが、なかなか自分の思いどおりにはいかず、病に臥すこともあってしばしば悩んだという。くわしいことは瞭かではないが、不運にも有力な自分の側近らを次々と失ったことから、しだいに政治の場から遠ざかっていったのである。

そんな時代に、この津和野藩の凶行(治右衛門十左)の事件が起きたのである。
いわゆる「治右衛門十左」は鹿の谷(現、津和野町)の蔵方吉松仁右衛門の子息で、(長男)治右衛門と、(次男)十左衛門の兄弟のことである。地元の人たちは略してこう呼んでいる。
いまから凡そ280年前、延享2年(1745)6月25日津和野藩の領内、鹿の谷の農民吉松仁右衛門(65歳,推定)と長男の治右衛門(35歳、推定)次男の十左衛門(33歳、推定)の父子3人が藩の刑場において打首獄門の極刑に処せられた。しかも3人はまったく無実の罪で処刑されたのである。
いつの時代でも国家権力の行使によって、弱者の庶民を弾圧するといった世の趨勢はいまも昔もかわりはない。古来から役人に課せられた重大な使命感はいまでもつづいているのと言える。今日に至るまで封建制度下の義民伝として、また農民哀話として現在でも多くの人々に悲しまれ語りつがれているこの事件はいまでは津和野伝説となって、280年経ったいまでも、年に1度の大法要が3箇所に於いて盛大に執り行われている。それは昔からの口碑もあってのことか、県内外を問わず実に多くの人たちが参詣に訪れている。津和野町木部中川に祀ってある三霊堂が、仁右衛門父子の遺骸を埋めたとされる本堂である。

では義民と称されながらも、何故仁右衛門父子は処刑されたのかー

たとえ封建制度下であっても、善良な農民に無実の罪を着せて、しかも打首獄門という極刑を科したということは、一体どんな原因や事情があったのだろうか。
そこには人間関係のもつれなどから生じる、しがらみや葛藤、怨恨、欲望などの悲痛な絡み合いがあり根底をゆるがし悲劇を生み出しているのである。そしてそこには津和野城の悪代官と結託した宿ノ谷に住む悪徳庄屋(大庭茂右衛門)の姿が立ちはだかっていた。この庄屋は権力を行使して(口減らし)のために60歳を過ぎた老齢の村人の男女を鬼神様が迎えに来るからといって、鬼が峠に無理やり連れてゆき木の枝にかけられた縄で首を縛り、まるで自殺したように見せかけて殺害している。これも悪代官(米原七郎左衛門)の命令によって仕組まれた罠だったのである。この物語に登場する主人公、吉松仁右衛門父子3人がこの程度の問題で、津和野藩はどうしてこのような蛮行非道とも言える極刑を科したのか、いくら昔のこととはいえ先ず考えられないことである。
しかし、この事件を説く津和野藩の確かな古記録は残念なことに一切残されていない。ゆかりの遺跡遺物は数多く残されているものの、これだけの大事件でありながら記録は断片すら残されていないのである。
おそらく藩が幕府に知れるのを危惧して消去したものと考えられる。義人伝としていまに語りつがれている津和野伝説は、当時の確かな資料がないので瞭かではないが、今日庶民に語りつがれている悲劇の物語は大同小異はあるものの、そんなに間違っているとは思えない。何故なら調査取材等によってかなりの信憑性の高いことがうかがえたのである。それは当時老齢になって城を退官した奉行や代官の口から、町民や農民へひそかに語りつがれていったものと考えられる。しかし謎の多い事件であることには間違いない。また明治4年に津和野城が廃藩になったとき、多くの役人が退官している。それらの役人から庶民に広まった例も少なくはない。しかしこれがまったく無実の罪であったことから、後々まで地元の津和野町鹿ノ谷はもとより藩内に根強く伝えられてきたのは、単なる事件的興味だけではないと考えられる。ただ数々の側面的な遺跡等、は宿の谷、鹿の谷、木部中川に祀ってある父子三人の墓は旦那寺であった津和野城下薬徳寺(後に興源寺に合併)の過去帳、没年月日、戒名等に違いがあり、一概に断定できないものも数々ある。
約3年半近くの調査取材等で感じたことは、当時のお墓の法名も、またお寺の過去帳なども、それぞれに記されている内容が異なっている点に、私は納得しがたいものを感じたが、吉松仁右衛門父子3人が残酷きわまる打首獄門に処せられたのは間違いではなかった。それからというもの「治右衛門十左冤罪」事件について、私はくまなく処刑された刑場や、打ち落とされた首が晒された場所や、関連のあるすべての旧跡、墓などをお詣りしながら写真におさめ取材をつづけた。
そんな過ぎ去った昔を顧みて、津和野藩にまつわる凶行」をいま一度ひもときながら、仁右衛門父子の誅伐と共に、圧政下に苦しみ喘いだ農民たちの暮らしを偲んでみることにしたい。小説のなかでは詳しく真実を書いています。
義民の農民父子は村民のために不正と弾圧に身を抗して義に殉じたのである。何とも実に痛ましい凄惨な事件である。
吉松仁右衛門父子を祀っている三霊堂は、いづれも津和野町、木部中川、柳村、宿の谷と三ヶ所にありますが、真実の三霊堂は木部中川にある本堂と鹿ノ谷にある吉松家の墓地が唯一の本物の遺跡といえる。いつの時代からそのようになったかは定かではありませんが、柳村、宿のに祀ってある三霊堂は後に創られた偽物と思われます。理由は当時あまりにも奇怪ななことが起こるので(これは仁右衛門父子を誅罰した祟りだと)言うことが広まって三霊堂を創って祀ったのが始まりと言われている。ですからあくまでも本堂は木部中川にある(三霊堂)と鹿の谷にある遺跡が本物です。お詣りするのなら木部中川の三霊堂と鹿ノ谷の墓地にお詣りください。その他の三霊堂については偽物なので何の利得もありません。(調査済み)
少し後のことになるが、(長男)治右衛門の妻(マキ)さんも無惨な生涯を遂げている。マキさんは百姓の身でありながら、容姿端麗でまれに見る美しい女性であったと伝えられています。
無実の罪でありながら自分の家族が何故残酷な刑に処せなければならなかったのか、マキさんは自分のやりきれなさの心情に耐え切れずして、津和野城に押しかけて役人との激しい口論の末、父子三人の恨みを厳しく咎めている。役人の非道な態度に、マキさんは自責の念から感情が激し憤慨に至り、前もって懐に用意してきた包丁を取り出して役人らの前でいきなり「無念じゃ~無念じゃ~無念でなりませぬ」と絶叫しながら、のた打ち回って喉を突いて自害している。男尊女卑の時代で勇敢に立ち向かった、マキさんの雄姿を町民からはこの上なく称賛の声と共に哀れみがつのった。無実の者が何故こんなにも蛮行極まる仕打ちを受けなければならなかったのか、これは津和野藩に対する報いの見せしめであったとも伝えられています。マキさんの自害によって、その後津和野藩の領内は何事もなく平穏な日々が訪れたのである。この事件の最後には私利私欲に走った郡奉行の(米原七郎左衛門)は悪事が幕府に暴かれ切腹を命ぜられている。またこの一件に携わった青原代官所の(河村弥兵衛)も幕府から切腹を命ぜられている。百姓で宿ノ谷の庄屋大庭茂右衛門については、仁右衛門父子と同等に打首獄門の刑に処せられている。いつの時代になされたのか大庭茂右衛門の墓は、村人の誰かの手によって上部が石鎚で打ち砕かれ無残で哀れな姿を呈している。また現在でも線香の1本も上げた形跡はなく、花や供え物などの形跡もない。仁右衛門一家を落としい入れたことについて、いまでも庶民の反発があるとみられる。これでマキさんの無念は晴らされたのだろうか。現在、マキさんの墓は夫の治右衛門さんと一緒の夫婦墓となって、現在も集落の一部の人たちの手によって丁重に祀られています。津和野町冨田(別名、鹿の谷)の山あいの丘でしずかに眠っている。唯一の末裔は鹿の谷に住んでおられる(大庭一人)さんです。みなさん是非とも鹿ノ谷の夫婦墓にもお詣りをして頂きたいものです。マキさんが町民のために一番尽力されておられるのです。毎年三霊堂だけ盛大にお詣りして、マキさんの墓はないがしろにされておりますが、これでは父の仁右衛門様も治右衛門十左様も成仏できません。世話人の方は、マキさんのお墓にも参詣するよう関係各位の方に申し伝えていただくことを切にお願いしたいー
悲劇の紙漉き哀話ー津和野伝説<としていまも多くの庶民の間で語りつがれている。/strong>。

"佐藤 かずをのプロフィール

佐藤 かずを(本名・佐藤和雄)1948年は日本のノンフィクション作家。作詞作曲家としても活躍中
家族構成=妻は(美鈴)misuzu)  65歳ピアノ教室講師)(’愛娘)長女蘭(ラン)はパリコレのトップモデル34歳の3人家族・身長178センチ
教育界に貢献してきた氏の功績は大なるものがある。この頃音楽に魅せられて唄、作詞、作曲を音楽専門の学校で本格的に学んでいる。ファンはキム、ヨンジャだという。エレクトーン、ピアノを弾かせると一流の奏者でもある。

これまで佐藤かずをの作詞、作曲の唄
島根想い出つづり、ふたりの三江線、玉造温泉恋しぐれ、
雲南夢しぐれ、愛して三次霧のまち、高津川旅愁、石見路ひとり、愛されて出雲、逢いたくて萩の人、山口線(女ひとり旅)、松江の女、他数十曲、
高津川旅愁、は佐藤かずを氏の自信作といっても過言ではない名作である。彼は小説よりも音楽のほうが感性豊かで見事な腕前である。ピアノやエレクトーンを弾かせると一流の奏者でもある。ある有名歌手のデナーショー時、彼が飛び入りで(二人の世界、小樽の人よ、まちぶせ)の3曲を演奏してくれた。客席からは感動のどよめきが沸き上がったのを私はいまでも忘れることができない。彼はロマンチストであり情熱家でもある。これからも音楽界に新しい旋風を巻き起こして頂きたいと願っている。(作曲家、鈴木祥一)より

氏の著書には、人生の暗い裏街道を歩んだ、いわばやりきれない心情と切ない胸のうちを書いた悲劇の作品が多い。多くの書物を読みあさってきたという氏が、小説に目覚めたのは早かったというが、書くのは壮年になってからだという。丹念な取材にもとずいて真実を書いている。
この度、氏が史実小説を書くきっかけとなったのは、津和野に関する歴史にふれているうちに史実小説を書いてみたいと思うようになったのだという。それと、かなり以前のことになるが、戦時中横浜に住んでいた頃、氏は終戦当時の関東大空襲で街が火の海となり、母と共に着の身着のまま命からがら街を駆け抜け、夜汽車に飛び乗って山口県の岩国市まで4日間かかって着いたという。火の中をくぐりぬけるとき、不運にもアメリカ軍の焼夷弾が氏の左手をかすめ大きな負傷を負っている。いまもその傷痕は消えることはない。変形した左手を見るたびに戦争の悲惨さを思い出すという。それは彼にとって一生の不覚であり、この左手の負傷によって彼の前途は閉ざされたといっても過言ではないほどであった。まず青春になってから(就職)そして(結婚)とあらゆる面で彼は悲痛な思いに駆られ人生がことごとく壊れている。。この頃母は随分嘆いていたという。ですから現在でも作曲するときは左手の指が少し短いので義手をはめて演奏に励んでいる。小学3年生のころから母が琴の演奏をしており、その音色が忘れられなくてエレクトーンやピアノを弾くようになったのだという。でも人前では弾くことはほとんどなかったという。左手を人前でさらしたくなかったのだろう。そして島根県鹿足郡柿木村(現、吉賀町)での生活が始まっている。苛酷な食料難の時代で、まだ5歳の頃だったという。その頃、産婆をしていた祖母から「治右衛門十左」のことを昔話風に訊かされたことがあった。それは子供心に深い感銘と衝撃を受け、体がこわばって震え上がったのをいまでも忘れることはできないという。本当に(無実の罪で父子3人が打首獄門という)そのような惨酷なことがなされたのだろうか。まだ幼かった氏の驚きは大きく恐怖感に苛まれて、一晩中眠れなかったのを現在でも忘れることができないという。そのようなことが切っ掛けで、この「治右衛門十左」にまつわる史実小説を書いてみたいと思うようになったものと思われる。
氏の小説は、なかなか味のあるジーンとくるような感動の凄絶さもあり読み応えもある。
いつの時代でも国家権力の行使によって弱者の庶民を弾圧するといった、世の趨勢は今も昔も変わってはいないという。そんな自分の心のうちに悪を許せない義侠心みたいなものが、氏の脳裡には絶えずゆれうごいているのかも知れない。炎のさけびは、発売と同時に好評を頂きまして28万部がすでに売り切れとなりました。読者の皆様本当にありがとうございました。また書物を購入できなかった方には大変申し訳けなく思っております。何卒ご了承ください。
いづれそう遠くない日に出版してお届けする日が来ると思いますので、今しばらくお待ちください。