西国札所番外です。

自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?

三条通と国道一号線の間の道です。

もう3回目なんで、自分は分かりますがこの看板探すのよくよく注意が必要です。

自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?

駐車場もあります。2台分しかないですが大きな寺院でもないし

必要十分ではないでしょうか?用意してくれているだけありがたいです。

自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?

山門。あんまりみないですよね。こんなの。独特。

自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?

自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?

山門には帝釈天と梵天がいらっしゃるのですが、京都国立博物館にお出かけしっぱなしのようです。

自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?

境内。これが全てです。小さいお寺です。
自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?
自分に十分な力がないから、足らない分を神仏に頼るんです。それが何か?
こちらが本堂。


(以下ウィキペディア「寛和の変」より)

花山天皇は即位後、外戚(叔父)である藤原義懐らの補佐を受けて新政策を展開していったが、 寛和元年7月18日(985年8月7日)、寵愛していた女御藤原忯子の急死とともに出家を考えるようになった。皇太子懐仁親王の外祖父であった右大臣藤原兼家は孫である皇太子の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇の退位・出家を画策、蔵人として天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して天皇に出家を勧めさせた。

寛和2年6月23日の明け方、天皇は道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かった。これを確認した兼家は清涼殿に残された三種の神器を皇太子の居所である凝華舎に移し、内裏諸門を封鎖した。藤原義懐が事態を知った時には既に天皇は元慶寺において出家を済ませた後であり、義懐も側近の藤原惟成とともに元慶寺において出家したのである。更に当時の関白藤原頼忠も摂関の地位を失うことになり、事実上失脚した。

懐仁親王は一条天皇として即位し、外祖父藤原兼家は摂政に就任した。兼家はそれまでの慣例を破って右大臣を辞任して摂政専任の先例(大臣と摂関の分離)を生み出すなど、摂関政治の歴史において一つの転機になる事件であった。




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