平尾文書・広瀬文書・堀江文書の調査・撮影

二〇〇六年一一月八日から一〇日まで、京都府南丹市・長岡京市・兵庫県
猪名川町に赴き、広瀬文書、堀江文書、平尾文書を調査・撮影した。調査を
快諾いただいたご所蔵者各位、および種々ご教示いただいた亀岡市文化資料
館の黒川孝宏氏・中道洋平氏に改めて謝意を表したい。
○平尾文書(兵庫県川辺郡猪名川町)
史料編纂所として初めての採訪で、文書など四巻を伝える。四巻のうち三
巻は、多田院御家人六瀬氏に関するもので、六瀬は文書現存地を含む一帯の
呼称である。南北朝期の将軍発給文書等を収める一巻については、上島有氏
が詳しく紹介されている。同氏『足利尊氏文書の総合的研究』一九三頁から
の「平尾家文書について」を参照されたい。上島氏は、旧稿を同書に収める
際の後記の追記で、少なくとも「確かな正文の忠実な写しであることは間違
いがない」と判断されている。他の一巻は平尾氏宛の文書を収める。
貞和四年八月二九日 高師直書下(宛行)
文和元年一〇月四日 足利義詮御判御教書(袖判、宛行) 多田院御家人宛
文和元年一〇月七日 沙弥奉書案(施行) 赤松信濃次郎左衛門宛
永徳三年六月二一日 足利義満御判御教書(袖判)
  損傷が大きい。
永徳三年六月二五日 法印宗信書下 六瀬九郎左衛門入道宛
                              以上一巻
貞和五年八月日    六瀬頼連軍忠状(裏判あり)
貞和五年一〇月二五日 六瀬頼連著到状(裏判あり)
文和二年八月日    六瀬頼連軍忠状
文和四年三月日    六瀬頼連軍忠状
康安二年八月日    六瀬頼連軍忠状
  以上五通は写と思われる。いずれも重要な内容である。
                              以上一巻
七月九日  細川勝元書状(感状) 平尾三郎左衛門尉宛 小切紙
九月二三日 細川勝元書状(感状) 平尾三郎左衛門尉宛 小切紙
  以上二通、損傷が大きくほとんど判読不能だが、次掲の写と同内容と思
  われるため、写によって文書名等を付与した。正文の可能性もある。
七月九日  細川勝元書状(感状) 平尾三郎左衛門尉宛
九月二三日 細川勝元書状(感状) 平尾三郎左衛門尉宛
  以上二通は写である。
五月一一日 塩川長満書状 平尾孫一他三名宛 切続紙
  正文である可能性が高い。
五月一一日 塩川長満書状 平尾孫一他三名宛
  写である。奥に「右ハ証文之写以上八通有之候」とある。
                              以上一巻
六瀬家系図一巻
○広瀬文書(南丹市八木町)
豊後野上氏の伝来文書など。かつて京都大学が調査を行い『古文書纂』二
八に影写がみられる。黒川氏らにより再発見され、上島有氏が詳しく紹介さ
れている。『足利尊氏文書の総合的研究』二一〇頁以下「広瀬家文書につい
て」を参照されたい。
建武元年四月二四日  後醍醐天皇綸旨(安堵) 宿紙
暦応元年一一月二六日 口宣案宿紙
  以上二点、別に近代の写あり。
長寛三年四月二四日  清原兼次譲状
  冒頭に欠損がある。惣領制の史料として議論のある文書。
三月六日       大友親安書状野上左馬助宛切紙
  宛所部分は切断され別紙になっている。
応安七年五月二八日  丹波国国宣写(沙弥宗覚奉) 広瀬今福大夫宛
  原本や他の写は確認できていない。
文政一三年一二月   北広瀬村忠兵衛田地売渡証文同村吉右衛門宛
一二月        西広瀬村名家名字帯刀免許状写
観応三年八月日    中津河秀家軍忠状写
  「遠山文書」(中津川文書)に現存する文書の写である。
○堀江文書(長岡京市)
『広島県史』古代中世資料編Ⅳに、比婆郡高野町南所在として収載される
文書群で、同地の八幡宮社掌に伝来した。『広島県史』は、応永二五年から、
天正・慶長年間を中心に二三通の文書を掲載する。これにしたがって調査・
撮影した。また、「堀江家系譜」「備後国恵蘇郡多賀野山八幡宮棟札写」「多
賀野山由来記」など宮史に関わる史料も調査・撮影した。このほか、「恵蘇
郡高之山南村八幡宮祭礼村付帳(寛文七年八月四日)」をはじめ近世の祭祀
や神楽関係の史料を豊富に伝える。それらも拝見して一部撮影した。

                           (藤原重雄・村井祐樹・山家浩樹)



『東京大学史料編纂所報』第42号p.114

最近は2世指揮者が目につく。ヤルビ,ユーロフスキー、ジョルダン、そしてザンデルリンク親子。

ミハエルのブラームス第2がyoutubeにあるが

なかなか中庸を得た良い出来である

この曲の聴きどころは2楽章。うれい、そしてロマンティックな憧れー感情の高ぶり

というなかなかこのあたりのニュアンスをバランスよくまとめるのは

むつかしいと思うけれど

ミハエル・ザンデルリンクはなかなかよくまとめている


エーリッヒ・クライバーはカルロス・クライバーの父である。

彼は戦前のドイツでは非常に尊敬された指揮者であったという。

彼はベルリン・国立歌劇場の監督でもあったそうだが

このコンビでベルクの歌劇を始め、当時の現代音楽の初演の多くを行った。

また、ウィーン情緒をも併せ持つ指揮者であったらしい。


そのような彼の芸術指向がナチスと合致するはずもなく

彼はアルゼンチンへ逃れる。良心的逃避といっても良いであろう。


エーリッヒは大指揮者であったと文献には多くみられるが

戦後楽壇に復帰しDECCAに残された録音などきくと

きびきびと古典的ではあるが「巨匠」性は感じなかった。


ところでyoutubeにアップされているドヴォルザークの新世界は

1928年にベルリン国立歌劇場管弦楽団をしきしてのものであるが

まさに19世巨匠性、つまり後期ロマン派的巨大さをもった演奏であり

ようやく彼の巨匠性に納得したのでした