さて、アムルーズのコルクが抜けました。
集まったのは7人。
ワインバーの営業が終わってからみんなでテーブルを囲む。
グラスにおそるおそる注がれるアムルーズ。
香りをかいでみた。なんかすごい。2002年だからもちろんまだまだ若い。でもリーデルのエクストリームからこぼれ落ちる形容しがたい香りの数々。
飲めない。
目の前のグラスを飲み干せばついえるこの時間を、どういうペースで流すのか測りかねる。一生のうち2002年のアムルーズを口にするのは最初で最後のはずだから。スワリングする事すらもったいなくて思いとどまる。しかし、そんな僕を横目にアムルーズは揮発する。分かっているのはこの時に限りがあることだけだ。あわててもう一度香りをかいだ。
あろうことか、ものの2秒でアムルーズは表情を変えた。はじめとボリュームは同じくらいだけど、グラス上下しただけでそりゃないでしょうってくらいの変化を見せた。こうしちゃおれない。すぐさま次の呼吸で確かめる。
なんと。また違う。一息ごとにめくるめく変わってゆくこのワイン。こんなのは初めてだ。
味は、味はどうなんだ?味も同じように変わりゆくのだろう。ならば飲まねば!
衝動は、もったいないなんて思いを感じさせないほどスムーズに、アムルーズを僕の口に流し込む。
爆発した。口の中が爆発した。直後に頭の中まで爆発した。
それから2時間。ただただその繰り返し。
みんなのグラスからアムルーズは消え、それでもなお空になったグラスから凛とした香りを放ち続けるアムルーズ。「この空いたグラスをつまみにして、ピノ・ノワール飲めるな」シェフの発した訳の分からない形容は、誰にも否定しようが無かった。
その間、たまに集まってはワインを並べ、「このワインは○○だ」とか「○○の香りがする」と論じていたソムリエたちが、誰ひとり、ただの一言も端的な形容はしなかった。
あんなもの、あんなもん、形容なんかできるはずもない。モナリザを目の前にして「目が○○に似ている」とか「肌の色が○○に近い」なんて言ってられるか。ワイン飲んでるって感じじゃなくて、美術館で芸術鑑賞したり、劇場で演劇観るような、そんな感じ。
あっとうされた僕らは、まさしくワインに飲み込まれた。酒に飲まれるってのは暴飲以外でもありえるのだ。「酒は飲んでも飲まれるな」これは一理ある。みんなの総意、こんなバケモノを飲むって事は幸せな事であり、一方でまた不幸でもある。だって次にいつこんなワインに出会えるか分かったもんじゃない。最上を知ってしまったら、そこそこのワインではここまで感動できなくなる。
途中、シェフに「このワインだったらどんな料理作りますか」と聞いてみた。
「鴨とクレソンの鍋だな、和食とかのがいい」
その時は僕も和食くらいがいいと思ってうなづいた。でもやっぱ違う。鍋で忙しく食事してたら香りをかぎ逃す。アムルーズ以外を口に入れる時間が惜しい。グラスに寄せた鼻以外で呼吸するのが惜しい。
そんなワインでした。
で、このアムルーズ。レ・ザムルーズ。神の雫の第1使徒なわけですが、ちょうど一年前、同じテーブルで僕の送別会に飲んだのがペゴーのキュベ・ダ・カポの1998。これの2000年が第2使徒で。うーん……すごいぞ。
「僕の送別会でみんなで飲みたいんでシェフのセラーのワインから1本1万円で売ってください」当時、転職が決まっていた僕がシェフに初めてした願い事。で、シェフがぶら下げてきたのがキュベ・ダ・カポだった。アムルーズもキュベ・ダ・カポも買えば10万円やそこらじゃとても無理な代物だ。あの時はダ・カポが開くまで3時間かかった。
美味しいワインに囲まれる幸せ。
不幸である幸せ。
酒に飲まれる幸せ。
そう、僕は幸せ者なのです。