紀伊半島飛び石バス紀行(1)~南紀特急バスと名古屋-南紀高速バスが織りなす海と山の交響詩~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

津の中心部から少し離れた住宅地の中にある、三重大学付属病院で路線バスを降りると、横なぐりの雨でびっしょり濡れてしまった。
土曜日の休診日のため、白亜の建物はひっそりと静まり返り、時折、救急車がサイレンを鳴らして飛び込んで来る他は、アスファルトを叩く激しい雨音が耳を打つだけである。
 
 
ここが紀伊半島東岸地域を網羅する「南紀特急バス」のターミナルになっているとは信じ難いが、病院の正面玄関前に立つ停留所のポールには、幾つかの市内路線とともに、勝浦温泉行き1本、新宮駅前行き2本の時刻がちゃんと掲載されている。
新宮を早朝5時30分に発車する上り始発便の大学病院到着は9時33分で、午前の外来診察には充分に間に合う。
長距離バスが地域中核病院への通院輸送を担っている例は、他にもよく見られる。
 
平成5年7月のこの旅の当時、1日13往復運行されていた「南紀特急バス」のうち、10往復は松阪駅を起終点にして近鉄特急との接続を図り、残り3往復は津まで乗り入れて、県都直行機能を果たしていた。
松阪発着便のうち、5往復が尾鷲、下り3本と上り2本が熊野、1往復が新宮駅前、下り1本と上り2本が勝浦温泉を発着する。
津発着便で勝浦温泉まで運行するのは下り1便だけで、残りは全て新宮発着である。
 
 
「南紀特急バス」に乗るならば、津から勝浦温泉までの全コースを走破する便を捕まえたくて、前の夜に夜行高速バス「ドリームなごや」号で東京を発ち、JR関西本線と紀勢本線を乗り継いでやって来たのだ。
 
出発時刻の11時32分が近づいても、なかなかバスの姿が見えない。
このような場合の心細さは、筆舌に尽くし難い。
週末の休診日には大学病院に乗り入れないのかも、という不安が頭をもたげて、停留所の時刻表を見直そうと足を踏み出そうとした瞬間に、白地に濃淡の緑2色と黄色のストライプが入った三重交通のハイデッカーが勢いよく姿を現した。
 
ここからの乗車は僕1人だけだった。
苦み走った風貌の中年の運転手さんが、ステップに立った僕をじろりと一瞥して、

「どちらまで」
 
と聞く。
終点まで乗せていただく旨を伝えると、運転手さんは返事もせずにバスを発車させた。
愛想のない運転手さんに当たってしまったか、と気が重くなる。

 
車内は茶系統の色調に統一された横4列・縦9列のリクライニングシートが並んで、シートピッチはゆったりと広い。
各座席にはマルチチャンネルステレオが備わり、トイレ、コーヒーやお茶の飲み物、車内電話がまとめられたサービススペースが最後部に設けられている。
フロントガラスや運転席、扉を除く窓ガラスには黒いシールが貼られて、日差しが強い南国の特急バスに相応しい。
 
市街地に入ると津駅前、県庁前、万町、三重会館前とこまめに停留所に寄っていく。
この特急バスの停留所には乗車・降車の区別がないので、正面の料金表は市内均一料金の180円を示している。
津市内で乗ってきたのは、三重会館前からの若い女性1人だけだった。
 
南へ延びる国道23号線は広大な田園地帯を貫く片側3車線の立派な道路だが、車の量も多く、ともすれば流れが滞りがちで、38分で着くはずの松阪駅まで40分以上を費やしてしまう。
 
松阪駅前の乗り場では、このバスを待つ人々が長い列を作っており、車内はいっぺんに賑やかになった。
10分以上も停車したが、発車間際まで駆け込んでくる客がいる。
南紀特急バスは松阪から、という使われ方が定着しているようである。
 
出発時刻も切りが良く、12時30分に松阪駅前を後にして国道42号線に折れ、志摩半島の付け根の山間部を南西に向かう。
往復2車線は確保されているものの、路肩に余裕がなく、国道23号線に比べれば見劣りがする。
 
 
多気町に入ると、右側から単線のレールが近づいてきた。
国道42号線は紀勢本線とほぼ並走しており、「南紀特急バス」と同じ区間を特急「南紀」が行き来している。
しかし津や松阪から南へ向かう列車の本数は決して多くなく、特急が1日4往復、普通列車も1日9往復で、合計すれば「南紀特急バス」と同じ本数である。
 
特急「南紀」は、非電化ながら馬力の強い新型車両キハ185系を投入して津と紀伊勝浦の間を2時間50分前後で結んでしまうから、4時間58分もかかる「南紀特急バス」はとても敵わない。
しかし、運賃は特急列車が5440円であるのに対し、バスは3660円と圧倒的に安い。
普通列車は松阪と新宮の間を3時間30分~50分ほどかかり、運賃は2470円である。
「南紀特急バス」は同じ区間を3時間34分、3000円で結んでいるが、車内設備の豪華さでは格段の差を付けている。
 
南紀地方は高速道路の恩恵を未だに受けておらず、速度的には普通列車と同程度、車内設備は特急列車並み、運賃はその中間という「南紀特急バス」の存在は、なかなかユニークである。
松阪駅で近鉄特急を降りた人がJRのホームへ向かうことなく駅前のバス乗り場に足を運ぶためには、それだけの魅力があるのだろう。
 
 
伊勢自動車道の終点である勢和多気ICの近くで高速道路の高架をくぐり、紀伊山塊の東端に踏み込むと、あたりの景色が急速に鄙びてくる。
 
ここからは、2年前の平成3年に勝浦温泉と池袋を結ぶ夜行高速バスで通った道であるが、深夜と日中ではこれほど印象が異なるものかと、目を見開かされた。
2年前は底知れぬ暗闇の中を彷徨うかの如き道中だったが、今回は、小雨が洗う水田や、それを囲む奥深い杉の山林が、目に滲みるような鮮やかさで車窓を彩っている。
右手には大台の山々が連なっているはずだが、分厚い雲にすっかり覆われている。
 
僕にとっての紀伊半島の旅は、いつも雨に付きまとわれてしまうのだが、この地方には雨がよく似合う。
これから向かう尾鷲地方は、年間4000ミリを超える全国有数の多雨地帯である。
 
山あいを縫って流れ下る川の畔に、細長く広がる大台、大宮、紀勢、大内山の集落を過ぎると、荷坂峠の登り坂に差し掛かる。
ここは国道42号線でも紀勢本線でも有数の難所で、勾配に弱い鉄道は国道より遥かに低い地点でトンネルを穿ち、海岸へ抜けていく。
「南紀特急バス」は、くるくるとハンドルを回し続ける運転手さんに導かれて、事もなげに高度を稼ぎ、山頂に近い175mの荷坂トンネルを呆気なくくぐり抜けてしまう。
 
 
峠を境に、周囲の景観は打って変わって厳しい表情を見せた。
トンネルを出ると、それまで視界を塞いでいた山並みが遥か下方に遠ざかり、ガードレールのすぐ外側が深く切り立った断崖絶壁になっているから、虚空に放り出された気分になる。
晴れていれば熊野灘まで見通せるという眺望は、漂う濃い霧に遮られている。
霧の断片が強い風に引きちぎられて道路に押し寄せてくるので、九十九折りの下り坂は白一色の雲中飛行のようだった。
 
右に左に揺さぶられながら急坂を駆け下り、紀伊長島町に入ると、湖のように穏やかな海原と、眠ったように静かな町の佇まいに、荷坂峠の荒々しい眺めが嘘のようである。
ゴツゴツした奇岩に囲まれた入り江にひっそりと身を寄せ合う漁村と、波打ち際まで裾を伸ばす険しい峠道が、幾度となく繰り返される。
 
南紀の旅と言えば、ひたすら海ばかりを楽しませてくれるものと思い込んでいたのだが、予想以上に山岳部分の比重が高い。
変化に富んだ「南紀特急バス」の車窓は、まるで交響詩の旋律を奏でているかのようだった。
 
 
入り江の集落には必ず停留所が置かれていて、こまめに乗降がある。
 
道端に佇む古びた停留所が織りなす様々な人間模様を目に出来るのも、バス旅の楽しみの1つである。
ある停留所では、バスが停車すると同時に、傘を3本も抱えたおばさんが走ってきて、母子3人連れを迎える光景が微笑ましかった。
出迎えのタイミングがぴったりなので、こちらも定刻に運行しているのだな、と思う。
 
津の三重会館前から乗車してきた女性は、垢抜けた雰囲気を漂わせたなかなかの美人だったが、小さなバス停に1人降り立ち、とぼとぼと路肩を歩き出した姿が、彼女を追い抜いていくバスの中で無性に気に掛かったものだった。
別のバス停では、丸木小屋のような待合室に、近所の農家が持ち込んだらしい野菜が無造作に並べられて、露店のようである。
 
 
昭和45年に開業し、津の大学病院から勝浦温泉まで52も設けられた「南紀特急バス」の停留所の数は、紀勢本線の駅の数を凌駕しており、7駅しか停車しない特急「南紀」とは自ずと性格が異なっている。
津々浦々から三重県の経済・文化の中核である松阪や津をダイレクトに結ぶ「南紀特急バス」は、きめ細かな停留所の設定ゆえに、おらが町から伊勢湾岸に出る最も便利な交通手段という評価を、地元の人々に定着させることに成功しているようである。
 
途中停留所相互間の利用も多い。
町と町の間を険しい峠に遮られたこの地方では、横糸のようにそれらを結ぶ交通機関の存在は貴重である。
国道42号線には、松阪、尾鷲、熊野、新宮といった主要都市を中心に一般路線網も発達しており、何度も2扉の小型バスとすれ違ったが、「南紀特急バス」もその一部として利用されていたのだろう。
 
 
14時23分に到着した海山町のドライブインで8分間休憩した後に、幾つ目かの山道を越えると、左手に尾鷲市街が広がった。
国道は市街地の背後にそびえる山の中腹を直行するので、バスも県庁舎前、病院前といった国道沿いの停留所に寄るだけである。
「南紀特急バス」の尾鷲発着系統は、県庁舎前停留所を過ぎてから市街地に向けて左折し、尾鷲港近くの瀬木山が終点である。
 
いったん4車線に広がった道路も、程なく元の2車線に戻り、正面に立ちはだかる矢ノ川峠を駆け上がる急勾配に変わる。
ここも荷坂峠と並ぶ熊野街道の難所で、紀勢本線が最後に結ばれたのもこの区間だという。
 
 
霧の塊を浮かべた深い渓谷を渡る橋梁と、2000m級の長大トンネルが次々に現れるが、運転手さんは慣れた様子で巨大な車体を軽々と操り、時には、すれ違う上り便との無線交信のために片手でステアリングとシフトレバーを操作したりする。
仲間のバスと交信する時には大声になったり笑顔を見せる運転手さんが少なくないが、この運転手さんはにこりともせず、マイクに唇をくっつけるように、ぼそぼそと低い声で喋り続けている。
 
長く続いたリアス式海岸の南端に当たる鬼ヶ城の手前で海岸に戻ると、海の色がそれまでよりも一段と濃くなったような気がした。
黒々とうねる黒潮独特の色である。
 
 
堤防の上を伸びる道路で熊野市に入ると、バスは国道を離れて本町、熊野市駅前、三重交通前と、狭い路地の停留所をたどる。
三重交通前は、小振りな一般路線車両や南紀特急用のハイデッカー車両がひしめく営業所だった。
「三交南紀」と呼ばれる三重交通の一大拠点で、料金箱の中身が交換される。
 
山と海が目まぐるしく入れ替わったそれまでの車窓と対照的に、熊野から先は25kmに渡って緩やかな弧を描く七里御浜に沿う平坦な道路となり、とろんとした心持ちになってくる。
道路と波打ち際の間には藪のようにぎっしりと生い茂る防風林が視界を遮り、御浜小石と呼ばれる美しい砂礫から成るという砂浜をなかなか眺めることが出来ない。
 
運転手さんまでが同じようにボンヤリした訳ではないだろうが、ふと気づくと、テープの停留所案内が1つ分遅れている。
熊野市から2つ目の中茶屋停留所の案内が流れた時に降車のブザーが鳴り、運転手さんは慌ててブレーキを踏んでバスを路肩に寄せながら、バックミラーを覗きこんだ。
 
「ありゃあ、中茶屋で降りるの?」
「そう。だいぶ来よった?」
 
とおばさんが返事をしながら席を立ち、乗降口の方に歩いてくる。
 
「歩いて5分くらい戻ってくれんかなあ。悪いね」
 
運転手さんは謝りながら扉を開け、
 
「そこ、路肩、柔らこうない?気ィつけて」
 
と優しい口調で気を配っているその姿に、初めて親しみを覚えた。
 
 
蜜柑畑の中に人家が点在している御浜町、紀宝町を駆け抜け、製紙工場が建ち並ぶ三重県最南端の鵜殿村で、広大な熊野川河口の真っ白な砂洲に突き当たった。
1kmほど川沿いに遡り、鵜殿村を囲むように位置する紀宝町に再度足を踏み入れてから、新熊野大橋で川を渡る。
新宮止まりの系統はJR新宮駅に向かうが、このバスは国道沿いの新宮市停留所に停車しただけで先を急ぐ。
 
新宮で殆どの客が下車し、残ったのは2人だけになった。
津を出発した時と同じく、閑散とした車内に戻ったのだ。
津から乗り通して来たのは、僕だけのようである。
 
そこからは、2年前に熊野交通バスの「新勝線」でたどったことのある懐かしい道だった。
日本一長距離を走る路線バスとして名高い奈良交通の「八木-新宮特急バス」に揺られて、険しい紀伊山中を越えてきたあの時も(「最長距離バスの系譜 奈良交通 八木新宮特急バス」)、「南紀特急バス」で入り組んだ海岸線を走り抜けてきた今回も、車窓いっぱいに広がる熊野灘の青々とした波のうねりは、変わらず目に滲みる。
 
終点の勝浦温泉で、漁船が浮かぶ勝浦港に鼻先を突っ込むように停車した「南紀特急バス」を降りると、道端に軒を連ねる土産物店の変わらぬ佇まいに、5時間にも及ぶバス旅が幻のように消え去り、2年前にタイムスリップしたかのような錯覚に襲われた。
 
 
勝浦からはJRの特急列車「くろしお」で天王寺へ抜け、夜行鈍行列車で新宮まで折り返した。
 
南紀と関西の間には、かつて、寝台車を連結した夜行鈍行「はやたま」が運転されていたが、今や輸送の主力は日中の特急列車に移り、夜行列車は下り1本だけになっていた。
新宮夜行の車内は、和歌山市あたりまで通勤客で立錐の余地もなく、和歌山以南でも釣り客を主体に30~40人ほどが車内を占めて、結構盛況だった。
4人向かい合わせの固いボックス席にも関わらず、案外に眠れた記憶がある。
 
 
新宮駅で早々と店を開けていた立ち食い蕎麦に舌鼓を打ち、始発の特急列車「南紀」で熊野市へ向かう。
 
わざわざ大阪まで往復して一晩を過ごしたのは、平成3年12月に運行を始めたばかりの新しい高速バス「名古屋・関・南紀高速バス」に乗って見たかったからである。
このバスは1日2往復運行されているが、どちらも早朝に熊野市を出発し、夕方に名古屋から戻るという徹底した南紀住民指向のダイヤなので、僕のような余所者は、こうでもしなければ乗ることが出来ない。
 
新宮や勝浦に宿泊してもいいのだが、僕は「南紀ワイド周遊券」を購入しているから、往路の「ドリームなごや」号も、名古屋から津までの列車も利用できる。
大阪往復も、新宮から熊野市までの短距離の特急利用も、追加料金は全く不要だったから、一夜を過ごす方法としてはとても安上がりであった
 
 
熊野市駅に着いたのは午前6時43分だった。
「名古屋・関・南紀高速バス」の上り初便は6時10分に発車したばかりで、僕が乗るのは次の8時10分発の便である。
潮の匂いを嗅ぎながら、駅から少し離れた三重交通熊野市営業所へぶらぶら歩くうちに、堤防の上の国道42号線を、池袋からの夜行高速バスが走り去って行くのが見えた。
この日は熊野市で降りる客がいなかったらしい。
 
営業所で朝御飯を食べていた係員氏から名古屋までの乗車券を購入し、「名古屋・関・南紀高速バス」のチラシをいただいた時、僕は首を傾げた。
 
乗車券は2枚綴りの半券から成り、半分には「続1 熊野市三重交通前→関BC 2500円」、もう半分には「続2 関BC→名鉄BC 1100円」と印刷されている。
チラシにも、
 
「名古屋へ!毎日2往復(関バスセンター連絡)」
「南紀熊野-関BC連絡-名古屋高速バス」
 
と、くどい程に「関バスセンター連絡」の文字が織り込まれている。
 
初めて南紀から名古屋へ直行する路線が開設された、と喜び勇んで乗りに来たにも関わらず、乗り換えの煩わしさを強いられるのであろうか。
 
 
午前7時半を回った頃、車庫に並ぶ南紀特急用車両の1台がエンジンを始動させた。
 
車両は、「名古屋・関・南紀高速バス」も「南紀特急バス」も共通らしい。
車庫内で給油を終え、停留所に移動したバスの表示幕は「高速 関バスセンター」になっている。
 
忙しく車内清掃をしながら、小柄な中年の運転手さんが、
 
「名古屋ですか?もう乗っていいですよ。掃除中で悪いけど」
 
と愛想良く話しかけてくれたので、乗り換えのことを聞いてみた。
 
「いや、そのまま乗っとって下さい。表向きは乗り換えになっとるけど」
 
との明快な返事に、胸を撫で下ろした。
 
熊野市を発車した後に流れた録音テープでも、このバスが関バスセンター行きであることを強調してから、
 
「なお、このバスは関バスセンターより名鉄バスセンター行きとなります。名古屋へ行かれる方はそのまま御乗車下さい」
 
と案内していた。
 
それにしても、どうして最初から「名古屋行き」の看板を掲げることができないのだろう。
 
三重交通は、名古屋から関バスセンターを経由して伊賀上野行きの高速バス路線を既に運行している。
今回の新路線は、その免許に、熊野市と関バスセンターの間の新しい免許をくっつけて申請したのかもしれない。
この路線の存在意義は何と言っても名古屋直行機能の筈である。
国道42号線を走りながら「関バスセンター」の表示を掲げていたのでは、宣伝効果も半減してしまうのではないだろうか。
 
 
バスは、僕が前日に「南紀特急バス」で走ってきた道を忠実に戻っていくが、何度見ても飽きない豊かな景観に加えて、雲が切れて薄日が射してきたので、前日とは異なる南国らしい明るさが新鮮に感じられる。
運転手さんも陽気な人柄で、最前列の席を占めた僕に何かと話しかけてくる。
乗客数は10人ほどしかいない。
 
「名古屋・関・南紀高速バス」が先輩路線の南紀特急バスの実績を踏まえて開設されたことは明白であるが、両者には相違点がある。
伊勢自動車道に入る直前の栃原停留所までは乗車専用で、南紀地域内だけの利用が出来ないことと、熊野市から栃原まで「南紀特急バス」には32もの停留所が設けられているのに対して、「名古屋・関・南紀高速バス」は停車を11ヶ所だけに絞ったことである。
この停留所の設定は、南紀と池袋を結ぶ夜行高速バスと同じである。
ただし、これだけ停留所数が違っても、両者の熊野市と栃原の間の所要時間は10分程度しか変わらない。
 
快調な走りっぷりを発揮して2時間程で南紀に別れを告げた「名古屋・関・南紀高速バス」は、伊勢平野に出る手前の勢和多気ICから伊勢道に入った。
伊勢道ではしばらく対面通行が断続するが、それでも、一般道に比べればスピード感は雲泥の差があった。
高速道路で一気に時間を稼げるため、「名古屋・関・南紀高速バス」の所要時間は、特急「南紀」との差を約1時間に縮めた4時間04分である。
バスが3600円、特急列車が6640円という運賃の差額を考慮すれば、充分に競争力を付けた高速バスと言えるだろう。
 
 
山寄りの丘陵地帯を走行しているので、右手に松阪や久居、津の街並みが次々と過ぎ去っていく。
北上するにつれて雲行きが怪しくなり、津ICの手前で、とうとうフロントガラスに水滴が弾けた。
 
正面に鈴鹿の山並みが迫り、切り通しの区間が増えてくると、間もなく関JCTである。
名阪国道に合流した途端に路面の凹凸が増えるが、大して揺さぶられることもなく関出口を出て、関バスセンターに滑り込んだのは11時06分だった。
ここで11時16分までの休憩が宣言された。
 
関バスセンターは、名阪国道、東名阪自動車道、伊勢自動車道が交差する一大分岐点で、三重交通の池袋-伊勢間高速バス「ISE EXPRESS」昼行便(現在は夜行便のみの運行)と品川-名張間夜行高速バス「いが」号で首都圏と、名古屋-伊賀上野間高速バスで中京圏と密接に結ばれている。
「名古屋・関・南紀高速バス」が加わったことで、この分岐点は三重県全域への交通拠点となった。
僕が乗ってきたバスも、伊賀上野行きの高速バスと接続している。
 
施設もそれに相応しく、サービスエリアのように立派な建物の内部にレストランや売店、三重交通の窓口などが揃っている。
折しも貸切バスで到着した団体客がたむろして、大層な賑わいであった。
 
手洗いや買い物を済ませてバスに戻ると、表示幕が「高速 名古屋(名鉄バスセンター)」に変わっている。
ようやく、お目当てのバスに巡り会えたような心持ちになった。
 
 
どこから湧いて来たのか、と目を見張らされるほど増加した車の波に揉まれながら、名阪国道を数分だけ走り、亀山JCTから東名阪自動車道に入ると、一瞬にして視界が効かなくなる驟雨に襲われた。
 
しばらくは緑濃い山々が車窓を占めるが、鈴鹿本線料金所を過ぎると再び伊勢平野の北端に飛び出して視界が開ける。
だんだんと周囲の田園地帯の中に住宅地や工場が増え、中京都市圏に入りつつあることが感じられる。
 
対向車線を、次々と同じカラーリングをまとった三重交通の高速バスがすれ違っていく。
 
東名阪道を経由する同社の名古屋発着の高速バス路線網は、昭和60年の名古屋-長島温泉線と名古屋-桑名・大山田団地線の開業以来、拡充の一途であった。
この旅の当時では、名鉄バスセンター発着の長島温泉線が1日8往復、大山田団地線が42往復、その後に開業した西桑名ネオポリス線が44往復、四日市・桜台線が20往復、伊賀上野線が7往復、四日市・三重団地線が平日のみ2往復、湯の山温泉線が2往復と、運行本数も抜きん出ている。
100km近くを走る伊賀上野線を除けば、殆どの路線は営業距離が30km前後、所要1時間程度で、通勤通学や買い物輸送の責を負う名古屋近郊路線バスの性格が強い。
 
更に、平成17年には伊賀-新大阪線4往復が開業し、平成20年の新名神高速道路の開通により津-京都線8往復、四日市-京都線12往復、伊勢-京都線8往復が開業、平成21年には新大阪-四日市線4往復、平成28年には伊賀-京都線2往復と、関西都市圏と三重県北部を結ぶ路線が増えている。
 
 
「名古屋・関・南紀高速バス」は、広大な三角州を形成する長良川、木曽川の橋梁を続け様に渡っていく。
 
南紀では険しい山々を切り開くことで生活が築き上げられていたが、愛知県境にまたがるこちらの地域の生活は、まさに水との闘いであった。
長良川と揖斐川の流れを分離する油島千本松締切堤を建設した宝暦の治水をはじめ、点在する輪中集落など、この地域に住む人間の苦難の痕跡が随所に窺える。
鉄とコンクリートの建物が林立する近代になっても、ここを通るたびに、どこかに荒々しい自然の牙が隠されているような恐れを感じてしまう。
 
濃尾平野に入ると、雑然とした住宅地や繁華街の頭上を高架橋で飛び越えていく。
名古屋西ICで名古屋高速道路に入る頃になると、見渡す限りに広がる都市景観から突出した都心部の高層ビル群が目に止まり、あそこが旅の終点なのだと気が引き締まる。
 
向川ランプで高速走行を終え、若宮北交差点で大きくUターンすると、間もなく名鉄バスセンターである。
定刻12時14分の到着だった。
 
 
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