真夏の北海道長距離バス1人旅(3)~すずらん号・ノースライナーで行く狩勝峠と北の国からの舞台~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

釧路の夏の夜は爽やかな風が吹き渡っていた。
 
旭川発の長距離バス「サンライズ旭川・釧路」号を降りてホテルに荷物を解き、遅い夕食を求めて繁華街を彷徨い歩いた。
ネオンが輝く路地で、そこだけポッカリと異空間になっているような古びた構えの店を見つけた。
「炉ばた」と書かれた行灯が軒に吊され、軋むような木戸を引き開けると、四角いカウンターの中に囲炉裏が置かれた古風な雰囲気に、思わず惹き込まれた。
 
 
戦後間もない昭和25年に、仙台に開店した「炉ばた」が、炉端焼きの始まりと言われている。
店主と客が囲炉裏を囲んで会話を楽しむサロンのような雰囲気の店だったらしいが、その1番弟子が大阪で、2番弟子が釧路で暖簾を分け、釧路では釧路港に揚がる新鮮な魚介類を囲炉裏で焼いて出すようになる。
釧路の「炉ばた」のメニューが各地に広まったことで、事実上、ここが炉端焼きの元祖と言われるようになった。
 
サンマやホタテなどが焼ける香ばしい匂いに陶然としながら、カウンターの一隅に腰を落ち着けると、囲炉裏端にちょこんと座る小柄なおばちゃんが、炭火の加減を見守りながら料理を焼き上げている姿に、目を奪われる。
店員さんに勧められるまま、羅臼産のホッケをはじめ、ニシン、ホタテなどを肴に、いつしかお酒を過ごしたようである。
 
 
翌朝は、前日と打って変わって、二日酔いの目には刺激が強すぎる雲1つない快晴だった。
釧路川の水面に、さんさんと降り注ぐ日差しが跳ね回っている。
 
前夜にバスを降りた釧路フィッシャーマンズワーフは、サンフランシスコの観光名所フィッシャーマンズワーフを範としている。
フィッシャーマンズワーフとは漁師の波止場と言う意味で、地場の水産店と土産物店、飲食店どが並ぶMOO市場、炉端焼きなどの屋台が置かれたフロア、植物園などがある。
 
 
早朝だからどこも店を閉ざしているけれど、各方面への長距離バスのターミナルとしても機能していて、これから乗る帯広行き特急「すずらん」号は1日4往復、最初の便は7時30分の発車である。
 
10年前に、札幌発夜行高速バス「スターライト釧路」号から根室行き特急バス「ねむろ」号に乗り継いだ時には、最果ての風情に深く心を打たれた。
根室と反対方向の帯広にも特急バスが走っていることは知っていたから、いつかは乗りたいものだと思っていた。
こちらは、どのような車窓を見せてくれるのだろうか。
 
 
定刻に発車した「すずらん」号に、フィッシャーマンズワーフから乗り込んだのは僕だけだった。
次の釧路駅での乗客も数える程で、折角、新車のハイデッカーが投入されているのに、横4列シートには空席が目立つ。
 
釧路駅前では、阿寒バスの中標津経由羅臼行き「釧路羅臼線」が発車を待っている姿を見かけた。
166kmを3時間半で走破する道内最長、全国2位の長距離路線バスとして知られ、釧路発のバス旅を計画する時には必ず念頭に浮かぶ路線である。
しかし、北方領土を間近に望む奥地まで連れて行かれてしまう訳だから、旅程に組み込む機会がなかなか作れない。
 
 
平成元年に開業した「すずらん」号は、一時は年間3万人を超える利用者があったものの、最近は乗客数が低迷していると聞いた。
平行するJR根室本線の特急列車の運賃は、「すずらん」号に比べて割高であり、普通列車の固いロングシートやボックス席よりは、バスの方が乗り心地がいいと思うのだが、距離にして約120km、2時間半の行程では、自家用車を選ぶ人が多いのかもしれない。
「すずらん」号の利用者数はピーク時の3分の1に落ち込み、この旅の5年後には1日2往復に減便、平成23年には廃止されてしまう。
 
「ねむろ」号の運行本数も同じ頃に4往復から2往復に減らされ、それでも赤字なのだが、根室近辺から釧路市内の病院に通院する利用客が多いことから、補助金で細々と運行が続けられている。
「釧路羅臼線」も、釧路側の起終点となっている市立病院をはじめ、日赤病院、労災病院、がんセンターなどを経由して通院輸送を担っていることから、補助金が交付されている。
「すずらん」号も、病院に停まれば、廃止の憂き目に遭わなかったのだろうか。
 
 
少子高齢化と過疎化の風潮に加えて、自家用車の普及により、地方の公共交通は危機に瀕している。
 
地元に住む人が自家用車を使っているのだから自業自得ではないかとの論調をよく耳にするけれども、車の運転が出来る住民ばかりではないし、そもそも、鉄道やバスに採算性を求める考え方がおかしいという意見もある。
国鉄が分割民営化された頃から、公共交通に採算性を求めることが当たり前とされているけれど、人口希薄な地域に次々と整備されていく道路の収支が議論されたという話は聞かない。
 
僕らの国が経済的に往年の勢いを失って税収が落ち込んでいる現在、限られた税金をどのように分配していくのか、難しい問題だと思う。
僕は乗り物ファンであるけれど、前日に「サンライズ旭川・釧路」号の車内で思いを馳せた士幌線や白糠線のように、膨大な赤字を生む閑散線区まで残せと主張する鉄道原理主義者ではない。
同じ補助金を出すにしても、鉄道よりバスの方がコストが見合っている線区は少なくない。
しかし、公共交通に採算性を求めた結果、今や、北海道から一切の鉄道が姿を消しかねない情勢になっているではないか。
 
「車が、人間の心を征服し始めた」
 
と喝破したのはSF作家小松左京であるが、どこかの論説の一部だったのか、誰かの箴言であったのか、「自動車とは人類史上最悪の発明である」という一文を見たこともある。
緊急用車両や各種作業車など、いわゆる「働く自動車」がなければ現代社会は維持できないし、ドア・ツー・ドア機能に優れた自動車がなければ、今の高齢化社会など成り立たない。
それでも、世界規模で年間数十万人に及ぶ自動車事故の死亡者数、排気ガスなどの公害や石油資源などエコロジーの観点から、車によって人類が被っている損失は決して少なくない。
公共交通の衰退も、自家用車による悪影響の1つに挙げられると、僕は思っている。
 
自家用車が個人の行動範囲を飛躍的に拡大した功績は絶大で、僕もその恩恵を享受しているから、その弊害について論じる資格はないかもしれない。
車など売り払って、高い税金やガソリン代、そして事故の加害者になる危険性から解放された方がさっぱりするかも、と思わないでもないが、いざ実行するのは難しい。
自家用車には、麻薬のように危険な魅力が秘められている。
 
 
釧路の市街地を出ると、「すずらん」号は、太平洋に沿う緑一色の草原の中を走り出す。
製紙・食品加工などの工場ばかりが道路沿いに次々と現れるが、空き地も多く、道東最大の都市の郊外に、未使用の土地がこれほど目立つことに驚かされる。
ここは釧路湿原の末端部で、農地になりにくい土壌なのであろう。
 
僕が初めてこの地を訪れたのは、昭和60年代に札幌発の夜行急行列車「まりも」に乗ってのことだった。
夏休みに周遊券を利用しての一人旅だったが、豪華な新型シートを備えた指定席「ドリームカー」が連結されたばかりの頃で、差額を支払ってでも乗ってみたいと思い、車掌さんに申し出た。
 
「周遊券を持ってるの?勿体ないよ。自由席はまだあいてるよ」
 
と、親切心なのか、周遊券の客なんぞに貴重な収入源の新型座席を使われたくなかったのか、わざわざ硬い座席の自由席に案内されて、通路側の席で隣りの客と詰め合いながら、一夜を過ごす羽目になった。
 
道東の夜明けは早い。
目を覚ませば、列車は目に滲みるような青葉が敷き詰められた原野を走っていた。
この様子では釧路はまだまだ先だろうと高をくくっていると、そのまま釧路駅に滑り込んだから、いつ市街地に入ったのかと虚を衝かれた。
 
 
庶路の集落を抜けると、並走する国道38号線とJR根室本線は、白糠丘陵と太平洋に挟まれた狭い波打ち際まで追いやられるが、このまま海岸伝いに進めば襟裳岬に行ってしまう。
音別町を過ぎたあたりで、まずは、国道38号線が意を決したように海岸と決別して山間部へ入り込んでいく。
根室本線は、未練たっぷりにもう少し海岸に沿って先へ進み、厚内でようやく右へ進路を変え、上厚内駅の手前で国道と合流する。
 
丘陵より山地と呼んだ方が似合っているような入り組んだ地形を抜ければ、浦幌川が開いた扇状地が開ける。
浦幌川が十勝川と合流し、広々とした流れを遡りながら池田町を過ぎると、「すずらん」号は十勝平野に飛び出した。
視界を塞ぐ山々の合間から、広大な平地が顔を覗かせる瞬間の解放感は格別である。
 
釧路や音別、白糠のあたりまでは畜産と林業が中心で、湿地帯に牧場や獣舎が散見される程度であったが、浦幌や豊頃まで来ると、インゲン豆や小豆、甜菜、馬鈴薯、玉葱などの畑が見受けられるようになる。
池田町ではブドウの耐寒性品種の栽培が行われ、十勝ワインの産地としても知られているが、国道からブドウ棚が見えたのかどうかは覚えていない。
 
 
車窓の左右に広がる農地は、見事に東西南北に縁を合わせて仕切られている。
少しくらい方角がずれている区画があってもいいのではないかと思うが、山間部で斜めを向いている田畑はあっても、平野部では全く見られない。
川や国道、線路が斜めに横切っても、接する農地が三角形に分断されているだけで、隣りの区画からは寸分の狂いもなく東西南北に揃っている。
 
北海道の街や農地は、近代になって人跡皆無の未開地を切り開いた訳だから、人工的かつ直線的であることは当たり前なのだろうが、札幌の街路は東西南北方向に対して何度か傾いているし、釧路や白糠でも、市街地や農地は無頓着な方角を向いて碁盤目が形成されていた。
十勝平野における頑なまでの東西南北への拘りには、何か意味があるのだろうか。
 
札内川を渡り、「すずらん」号が足を踏み入れた帯広市街も、街路はきちんと東西南北に伸びている。
 
明治時代における北海道の開拓史は、囚人労働抜きでは語れない。
明治14年に樺戸、15年に空知、18年に釧路、24年に網走と、開拓前線の展開に呼応するかのように次々と新設された監獄の囚人の手で、明治24年に上川-北見道路の工事が始まった。
一方、釧路監獄の囚人によって、明治25年に大津から帯広まで開削された道路が、十勝平野における最初の官道である。
石狩地方から道東への道は、最初に上川、北見方面を着手した後に釧路へ南下し、帯広まで戻る形で整備されたことになる。
 
旭川発の「サンライズ旭川・釧路」号で北見を回って釧路に達し、「すずらん」号で帯広まで乗り継いだ今回の旅程は、奇しくも明治期の開拓経路をなぞったことになる。
 
帯広に監獄が設けられ、十勝平野の開拓が始まったのは、明治28年である。
十勝平野の杓子定規な街や農地は、官僚的な役人が設計し、囚人を監督したことの現れかもしれないと思う。
歴史を紐解けば、バスに乗って帯広の街並みを眺めているだけでも、僅か1世紀余り前に、血の滲むような苦労を重ねて人間が切り開いた土地なのだと粛然とする。
 
「すずらん」号が帯広駅北口の「バスタッチ」に到着したのは、午前10時になろうかと言う時間であった。
バスを降りると、真夏の日差しが容赦なく僕を照らしつけた。
 
 
これから、長距離バス「ノースライナー」号に乗って、丸1日ぶりに旭川へ戻ろうと思う。
 
平成元年12月に開業した「ノースライナー」号には、国道241号線と273号線を北上して士幌、三国峠、層雲峡を経由する系統と、国道38号線で狩勝峠を越えて富良野を経由する系統がある。
前者は「ノースライナーみくに」号と命名され、廃止された国鉄士幌線に沿っていることと、「サンライズ旭川・釧路」号から眺めた層雲峡を再訪する魅力が捨て難い。
平成15年10月に士幌線の代替バスが廃止されると、士幌線の終点「十勝三股」に停留所を設置するなど、鉄道に代わる交通手段としても機能しているから、士幌線に乗り損なった鉄道ファンとしては、是非とも乗ってみたいと思っていた。
しかし、沿線人口が希薄であるためか、1日2往復が運行されるだけで、帯広発の便は9時30分に発車したばかりである。
 
次の旭川行きは10時30分発で、1日3往復が運行される狩勝峠経由便である。
 
 
乗り場に現れたのは、横腹に熱気球のイラストが描かれた北海道拓殖バスで、旭川駅前でも見かけた。
フロントマスクに「旭川ゆき」と表示が掲げられているから、やっぱり、と思う。
 
前日見かけた旭川14時30分発の十勝バス便には「帯広ゆき」と書かれており、阿寒バスの「サンライズ旭川・釧路」号の表示も「釧路ゆき」となっていた。
「○○ゆき」とは他の会社のバスで見た覚えがなく、道東の長距離バス特有の表現なのかと思っていた。
 
同じ乗るならば、熱気球のデザインが楽しい拓殖バスに当たりたかったから、ツイている、と思う。
 
この塗装のバスが初めてお目見えしたのは、平成元年6月に開業した札幌と帯広を結ぶ「ポテトライナー」号である。
少しばかり年季が入ったこの車両は、そのお古なのかと思ったが、「NORTH LINER」とロゴが書かれているから、専用車両かもしれない。
 
 
毎年8月には上士幌町で「北海道バルーンフェスタ」が開催され、30を超える熱気球が十勝平野の空に舞い上がる写真を僕も目にしたことがある。
 
ジュール・ベルヌ原作の、昭和31年に公開された映画「八十日間世界一周」では、旅の冒頭で、英国紳士のデヴィッド・ニーヴンと従者のマリオ・モレノが熱気球に乗って出発する。
原作ではヴィクトリア駅を発つ列車でロンドンを離れているので、気球は登場しないのだが、ヴィクター・ヤングが作曲した「Around the World」の優雅な曲をバックに気球が飛行する場面は、強く印象に残っている。
 
 
熱気球で想起する曲としては、子供の頃によく歌った「気球に乗ってどこまでも」も忘れ難い。
 
時にはなぜか 大空に
旅してみたく なるものさ
気球にのって どこまで行こう
風にのって 野原を越えて
雲を飛び越え どこまでも行こう
そこに何かが 待っているから
 
時にはなぜか 大空に
旅してみたく なるものさ
気球にのって どこまで行こう
星を越えて 宇宙をはるか
星座の世界へ どこまでも行こう
そこにかがやく夢があるから
(東龍男作詞・平吉毅州作曲)
 
躍動感溢れる伸びやかなメロディを口ずさみながら、軽やかにバスのステップを踏むと、間もなく発車である。
 
 
帯広の市街地を抜け出した「ノースライナー」号がひた走るのは、釧路から「すずらん」号でたどってきた国道38号線の続きである。
 
夕張山地と日高山脈の狭間を縫って石狩平野北部の滝川まで伸びるこの道は、終始JR根室本線に沿っている。
道東への鉄路は、明治32年に開業した旭川と上富良野の間を皮切りに、明治33年に鹿越、明治34年に落合と、現在の富良野線と根室本線の北側部分が最初だった。
一方、同じ年に釧路と白糠の間が開通し、明治36年に浦幌、明治37年に利別、明治38年に帯広と、道東では東から西へ向けて建設が進められた経緯は、道路と同じである。
落合と帯広の間が最後まで残されていたが、夕張山地と日高山脈の鞍部に当たる狩勝峠に954mの狩勝隧道が掘削され、根室本線が全通したのは、明治40年のことであった。
 
道東の幹線国道と鉄道が、札幌方面に真っ直ぐ向かわず滝川へ逸れているのは、峻険な山岳地帯を避けていた時代の名残である。
かつては、札幌と道東の間を行き交う列車も長距離バスも、北に大回りして滝川を経由していた。
 
十勝平野を東西に一直線に貫く国道は、帯広市街のはずれの芽室で北西へ進路を変える。
そこまでは律儀に東西南北に区切られていた農地が、国道に合わせて45度傾いた方角を向く。
 
新得町に入ると、正面に日高山脈が立ちはだかり、国道は十勝川と共に山を嫌うかのように真北へ向かう。
 
まずはJR根室本線が国道38号線から離れて西へ折れ、新得山麓を巻くように蛇行を始める。
険しい山越えの始まりが察せられる線形である。
国道38号線は、もう暫く北へ足を伸ばしてから、佐幌岳の麓で左に弧を描き、山越えに差し掛かる。
 
並木の向こうに広がっていた農地やゴルフ場が姿を消し、鬱蒼たる繁みに覆われた起伏に変わる。
「ノースライナー」号の車窓の最大の白眉、狩勝峠である。
 
 
狩勝峠を有名にしたのは鉄道で、狩勝隧道を抜けて十勝平野が一望できる区間は、篠ノ井線の姨捨駅付近、肥薩線矢岳駅付近とともに「日本三大車窓」の1つと並び称された。
 
しかし、急勾配による狩勝隧道内での蒸気機関車の煤煙と非力さが障害となり、機関士が窒息死する事故も起きていた。
戦後の食糧不足を補うための農産物や、電力生産のための石炭を運ぶ貨物列車は、1列車あたり貨車35輌が限界とされていたが、強力なD51型機関車が配置されてからは、政府から40輌以上の増結を命じられ、編成の後ろにも補助機関車を連結して峠を登り降りしたという。
機関車の馬力は上がっても煤煙の苦痛が軽減するわけではなく、昭和22年には過酷な労働条件に反発した国鉄職員がストを起こして、新得駅に多数の機関車が滞留するという、日本労働運動史に残る狩勝トンネル争議の舞台となった。
 
歌人加藤楸邨が、この時代に狩勝峠を訪れて、
 
花さびた十勝の国に煙たつ
 
という句を詠んでいる。
 
この難所を解消するため、勾配を緩和した新線が昭和41年に敷設された。
狩勝峠を描写した紀行文には、新線切り替えにより日本屈指の車窓が失われたと書かれているものが多く、昭和50年代に鉄道ファンになった僕は実に悔しい思いをしたものだった。
 
国道38号線は、狩勝峠の旧線とほぼ平行している。
「ノースライナー」号で、列車から見ることが出来なくなった「日本三大車窓」を堪能できるのだから、高まる期待で胸が熱くなる。
 
標高644mの狩勝峠を登る勾配は、案外なだらかに感じた。
鉄道と車の登攀能力の違いであろうか。
道端の草むらや木々の合間に景観が開けると、いつの間にここまで高度を稼いだのかと息を呑んだ。
 
眼下には、十勝平野が一望の下に広がっている。
 
真昼の太陽を余すところなく浴びて、平野一面が眩く輝いているから、集落と農地の区別は判然としない。
彼方には雲をたなびかせた稜線が連なり、その山麓と平野部との境界は、霞の底にぼんやりと沈んでいる。
北海道の大地の雄大さを、これほど如実に見せてくれる車窓に出会った記憶はない。
朝早く釧路を発ってから、この広大な土地を遙々横断して来たのか、という感慨が、心の底から湧き上がってくる。
空気が澄んでいれば、100km以上離れた阿寒の山々まで見通すことができるという。
 
 
鉄道は観光目的で建設された訳ではないけれど、この車窓を失ったのは残念であった。
この景色を眺めるだけで、列車の旅を選ぶ価値はあったはずである。
 
熱気球に乗って空に舞い上がれば、同じようなパノラマを目にすることが出来るのだろうか。
少しばかり高所恐怖症の気がある僕が、実際に熱気球に乗ったならば、どのような心境になるのか定かではないけれど。
 
ほんの一瞬、根室本線の旧線跡が見えた。
斜面に残された獣道のような頼りなさで、優等列車が行き交った往年の幹線の跡とはとても信じられなかった。
 
展望台が設けられている頂上を越えれば、富良野側の眺望は、十勝側とは対照的に山深い地形であった。
標高1668mの夕張岳や1726mの芦別岳をはじめとする脊梁山脈の逞しい山容が、幾重にも折り重なって、視界の奥まで続いている。
 
 
「ノースライナー」号は西麓の南富良野町に降り立ち、「道の駅 南ふらの」で小休憩を取った。
蒸気機関車時代の旅客ほど苦しみながら狩勝峠を越えてきた訳ではないけれど、平地に降りて雲に見え隠れしている峠を振り返れば、ホッと肩の力が抜ける。
 
南富良野は、大雪山系、夕張山地、日高山脈を成す1000~2000mの山岳地帯に囲まれた窪地にあって、林業と石灰石の採掘が主体という小さな町であるが、馬鈴薯や人参は道内屈指の生産量を誇っている。
 
富良野地方の有名な特産物と言えば、ラベンダーであろう。
ローマ・ギリシャから古代エジプト時代まで遡って、人々はその芳香に魅せられてきた。
日本では江戸時代の医学書や薬学書に記述が見られ、初めて国内で栽培されたのは、昭和17年に札幌市内での事だという。
ヨーロッパで香料や精油として広く使われていたラベンダーも、昭和30年代まで海外旅行に出かけられなかった日本人にはあまり知られていなかった。
終戦後に、我が国有数の香料会社である曽田香料が委託栽培を募集したことが、世界的に名を馳せる富良野のラベンダー畑の始まりである。
 
ラベンダー畑を見てみたい、という通俗性は持ち合わせているが、これまで富良野を訪れたことはなく、今回も「ノースライナー」号は通過するだけなので、諦めるしかないと思っていた。
長距離バスでは、どのように魅力的な土地を通ろうとも、途中下車がままならないことは覚悟の上である。
 
 
ところが、「道の駅 南ふらの」には、小規模ながらラベンダー畑が広がっているではないか。
鮮やかな紫色の花穂が咲き乱れている様を、じっくりと鑑賞できた僕は、大いに得した気分になった。
南富良野町、侮るべからず、である。
 
「道の駅 南ふらの」にも「ノースライナー」号の停留所が設けられており、その名も「幾寅物産センター」という。
 
幾寅とは、アイヌ語で鹿の上る川を意味する「ユク・トラシ・ペツ」に由来する地名であり、高倉健主演の映画「鉄道員」のロケが行われたJR根室本線幾寅駅が、南富良野町の中心駅である。
和訳した地名が、隣りの東鹿越駅と、その手前の鹿越信号所に付けられている。
アイヌ語が語源の駅は少なくないものの、音訳と意訳が並ぶ珍しい区間である。
 
 
浅田次郎氏の原作も良かったが、僕に「鉄道員」の感動を教えてくれたのは、ながやす巧によるコミカライズであった。
写実主義の画家のように緻密な画風と「鉄道員」の世界観がぴたりとマッチして、会話ばかりで話が進む原作よりも感情移入しやすかった。
映画では原作にない挿話が多く冗長な印象だったけれども、健さんの存在感で、画面は常に引き締まっていた。
 
「1人娘を亡くした日も、愛する妻を亡くした日も、男は駅に立ち続けた」
 
映画のキャッチコピーにもなっている、仕事一筋で家族を顧みなかった男の不器用な生き様は、まさに高度成長期の僕らの国のあり方そのものだったと思う。
それが賛否両論だった事は覚えているけれど、高倉健の抑えた演技のおかげで、素直に涙することが出来た。
 
撮影は、例えば美幸線などの廃線、もしくは廃止寸前の盲腸線の駅で行われたのだろうと早とちりしていたが、まさか、寂れたとはいえ幹線の駅が使われていたとは知らなかった。
 
 
「道の駅 南ふらの」を発車したのは、正午を回る頃合いであった。
バスは再び山中に足を踏み入れ、ダムが堰き止めた人造湖の水面に映る山影を見下ろしつつ、空知川と富良野川が切り開いた富良野盆地へ駆け下る。
狩勝峠は十勝川水系と石狩川水系、日本海側と太平洋側の分水嶺で、空知川も富良野川も石狩川の支流である。
 
地形はすっかり平坦になり、様々な作物が生い茂る畑の中を行く国道にも直線部分が増えた。
富良野では、ラベンダーばかりでなく、玉葱、人参、麦、飼料用作物、メロン、スイカなどの畑作や、肉牛、乳牛、養豚などの畜産が盛んである。
稲が生え揃う水田を久しぶりに見かけたのも、富良野に入ってからであった。
 
空知川が蛇行しているので、道路は左岸から右岸へ、しばらく走ってから再び左岸へと渡っていく。
幅の広い河川敷の砂洲を覆う木々の緑が、十勝に比べれば心なしか色褪せたような気がした。
彼方に退いた山並みは、優しげな風貌である。
北海道の厳しい自然環境を充分に承知しながらも、ここは暮らしやすいのかもしれない、と思った。
 
 
富良野と言えば、大多数の人々は倉本聰脚本のドラマ「北の国から」を思い浮かべるのだろう。
 
昭和56年10月に始まった連続テレビドラマが、放映終了後もスペシャル枠で制作が続けられ、平成14年に終了するまで、実に21年間も視聴者の心を捉えたのである。
富良野の寂れた寒村である麓郷地区に移住して、自然と折り合いながら暮らす黒板一家が描かれた。
 
さだまさしの有名なスキャットや、田中邦衛演じる黒板五郎の朴訥さ、吉岡秀隆演じる純の「○○なわけで」という口癖くらいは知っているのだが、「北の国から」を観たことは1度もない。
 
もともと、その回のうちに決着がつかない連続ドラマをもどかしく感じてしまうたちである。
加えて、人生や家族の内面を抉り出すホームドラマや青春ドラマの類いは、のめり込みすぎて身に詰まされる恐れがあったから、避けるようにしていた。
戦争物やアクションドラマのように、敵味方や正悪が明確に描かれている人間の対立は大丈夫なのだが、切っても切れない宿縁で結ばれている家族や友人、恋人同士の愛憎劇は、フィクションであっても居たたまれなくなる。
 
放送の翌日には決まって学校や職場で話題になっていたから、次回は観てみようかと思うのだが、勇気が出ないまま21年が過ぎてしまった。
テレビシリーズが始まった時、純は小学校4年生であったというから、僕より6つ年下である。
このドラマが放映されていた時代は、僕にとっても高校から受験浪人を経て大学、そして社会人になる過程と重なっている。
懐かしいけれども、ほろ苦い思い出も少なくない。
全く観ていない僕にまでそのような感慨を抱かせるのだから、力のある作品であったことは間違いない。
 
 
「ノースライナー」号と富良野市内で袂を分かった国道38号線と根室本線は、空知川と絡み合いながら夕張山地を横断して滝川に向かう。
富良野駅前にある富良野協会病院停留所に寄ってから、バスは国道237号線に舵を切り、JR富良野線と並走しながら、旭川へ向けて走り込んでいく。
上富良野、美瑛、美馬牛、神楽と散在する集落を通過しながらも、ラストスパートを飾る車窓は、どこまでも豊かであった。
 
富良野の地名は、アイヌ語で臭気を持つ所を意味する「フラヌイ」が転訛したと言われ、富良野川の水源が活火山の十勝岳であることから、川が硫黄臭かったことが理由とされている。
隣接する美瑛町も、油ぎった川を指すアイヌ語の「ピイェ」が由来であり、ラベンダーで名を馳せた土地の名には似つかわしくないように思えるけれど、だからこそ芳香作用がある植物が盛んに栽培されたのかも、と勘ぐってしまう。
 
 
窓の外が、賑々しい旭川の市街地に変わった。
定刻14時10分に到着した旭川駅前の降り場は、前日に道東へ向かった乗り場と、通りを挟んで反対側だった。
 
十勝や富良野では真っ青に晴れ渡っていた空が、いつの間にか厚い雲に覆い尽くされている。
前日と変わらぬ街の佇まいと、泣き出しそうな空模様に、これから道東に旅立とうとしていた前日に引き戻されたような錯覚に陥った。
2日間のバス旅は幻だったのかと、あたかも「邯鄲の夢」を思わせる儚さが胸にこみ上げてくる。
この旅にどのような意味があったのか、と思う。
 
旅の終わりを迎えて、いきなり胸中を支配した虚しさを持て余した僕は、予約しておいた千歳空港からの最終便をキャンセルし、札幌に背を向けて、あろうことか宗谷本線下りの鈍行列車に乗ってしまった。
木々の枝が窓に擦れんばかりの山中を越えた単車のディーゼルカーは、1時間程で名寄駅に着いた。
稚内発旭川行き上り特急「サロベツ」が行き違いのために停車していたが、僕は見向きもしなかった。
 
 
天塩川と名寄川が合流する三角洲に位置し、農産物の集積地として栄えた名寄市街も、碁盤目のような街路がきっちりと東西南北を向いている。
天塩川は北見山系に端を発して、最果てに近い天塩町で日本海に注ぐ。
 
東京の日常に戻ることを忌避するあまり、道北の入口まで来てしまったが、17時30分に、札幌行き高速バス「高速なよろ」号が、名寄の駅前を発車する。
札幌着は20時55分だから、この日のうちに東京へ戻ることは出来ないけれど、千歳空港のホテルの1室と、翌朝の羽田行き第1便を確保することが出来た。
 
「高速なよろ」号が運行を開始したのは、平成元年12月のことである。
奇しくも、この日に利用した長距離バスは全てが同期生であった。
 
 
士別、和寒と南下して、三浦綾子氏の小説の舞台となった塩狩峠を越える国道40号線は、10年前の真冬に、稚内と旭川を結んでいた特急バス「すずらん」号で走ったことがある。
釧路と帯広を結ぶ特急バスと同じ愛称を冠したこのバスの行程の大半は、夜の吹雪の中だった。
今回も日没後になってしまうけれど、同じ道を、季節を変えてもう1度通ってみたかった。
 
 
駅舎を出ると、札幌からの「高速なよろ」号下り便が到着したばかりだった。
僅かな客を降ろしたバスが走り去り、客待ちをしていたタクシーが、誰かを乗せたのか乗せなかったのか、続けて姿を消すと、驚いたことに、人口3万人を数える都市の中心駅の周辺から、人っ子1人いなくなった。
広い駅前通りを通る車も、皆無である。
先程までは、ぽつんと道端に置かれた質素なバス待合所の窓に人影が映っていたのだが、いつの間にか無人になっていた。
 
 
これほど閑散とした街並みは初めてだった。
人気のない山中などで味わう孤独よりも、街なかに1人きりで放り出される方が、何倍も不気味で心細い。
身震いする程の寂寥感が、黄昏に包まれて立ち尽くす僕の心を苛む。
 
どれ程の時が流れただろうか。
 
押し寄せる夜の帳を引き裂くように、闇の奥から眩いヘッドライトが近づいて来た。
「高速 札幌」と電光表示を掲げたバスの姿を目にした僕は、大きく手を振った。
運転手さんに気づかれず、こんな所で置き去りにされてはかなわない。
無性に日常生活に戻りたくなっていた。
バスは「分かっているよ」と言うようにウィンカーを明滅させて道端に車体を寄せ、折り戸を開いた。
 
落ち着いた照明に包まれたバスの車内に腰を下ろすと、僕はようやく旅の終わりを噛み締めることができたのである。
 
 

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