新島襄が亡くなり、今年の大河ドラマも残すところあとわずか。
フィクションの部分は多々あれど、大筋はその通りですから、「へえ、あそこで、あの人物とあの人物が遭遇していたのも、まんざらうそではないかもしれない。」などと思いながら、「八重の桜」を見てきました。
「先生が教える小学校と勉強」の風路でございます。
実は、12月の第1週は、このドラマの前半に登場していた会津の殿様松平容保公の亡くなった日(12月5日)をはじめ、ちょっとした歴史上の有名人の命日が続きます。
容保公の命日の一日前、12月4日は、あの栄華を極めた藤原道長が亡くなった日。
1027年のことでした。
1022年7月、道長の建てた法成寺金堂の落慶供養は、長女彰子の生んだ後一条天皇(当時15歳)を迎え、華やかに行われたとのこと。
摂政・太政大臣を歴任し、3人の娘を、一条、三条、後一条天皇の中宮にして、かの有名な歌「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」を残しましたが、この時すでに56歳。
病床に伏す日も増え、27年12月4日、法成寺の阿弥陀堂で西方極楽浄土を念じながら、62歳の生涯を閉じたと言います。
そして、容保公の命日の一日後、12月6日は、水戸のご老公、黄門様として有名な天下の副将軍徳川光圀の命日なのです。
こちらは、1700年のことでした。
水戸徳川の2代目藩主光圀は、1661年から約30年間藩政にあたり、幕藩体制確立期に新しい学問朱子学の信奉者として、様々な施策を実施して効果を上げました。
「漫遊記」は後世の創作ですが、その創作と結びつけられた「大日本史」の編纂に着手しています。
この「大日本史」は、彰考館を開いて多くの学者を招き、「史記」にならって編纂を始めたものですが、これは大継続事業となって、後の水戸学の尊皇思想の源となったということです。
1700年12月6日、光圀は、72歳で生涯を閉じました。
この3人の有名人、社会科の教科書には、いつの時代に何をした人物か等が、さらりと載っており、必要な年の暗記と共に、テストの穴埋め問題対応作として、代表的な事業などを必死で覚える。
のようなイメージがありますが、それって、味も素っ気もない歴史の勉強じゃあないですか。
今日お伝えしたのは、たまたま三連続した日が命日だったので、その話でしたが、ちょっとした雑学や、「それ、ホント?」みたいなエピソードをいろいろな本から仕入れたりすると、興味もわくし忘れないものですよ。
そんなものの一つですね、大河ドラマは。(フィクション部分は、納得の上で。)
「天地人」の「直江状」の話なんかも、覚えていらっしゃいますか?
(そう言えば、イケメンの真田幸村も登場したなあ。実物は、ンなわけないけど。なんていうのも記憶に残りますかねえ。)
参 考
<日本で最初の女子留学生が出発・・・山川健次郎の妹もただ者ではありません>
<山本家の兄妹・覚馬も八重もただ者ではない。・・・覚馬の建白書「管見」>