聞き語り  今治空襲 | 山髙龍雲 風に吹かれて

聞き語り  今治空襲

児童疎開は珍しいものじゃなくなっていたが

いざ十歳の長女と七歳の次女を送り出してみると

朝起きて夜眠るまでその子達のことが頭から離れない

とくに次女は泣き虫で

長女に比べるとどうにも頼りないところがあった

大阪に居たところで仕事はないし

結局家族全員で四国は愛媛の今治(いまはる)に疎開することになった

昭和十九年中頃

戦局はいよいよ悪化し

物資は手に入らず話す言葉も一様に暗かった

今治は海に近い

海岸の守りと言えば聞こえがいいが

徴用で駆り出され

砂浜に穴を掘る毎日にも疲れていた


明けて昭和二十年

今治は四月二十六日 五月八日と二度にわたりB29の空襲を受けていた

そしてまた より大掛かりな空襲があると取りざたされていた

猶予は出来ぬ状態だった

一日も早い転居が必要だった

思い立てば行動は早い

家財をまとめ車に積んで

取りあえずは祖父母を残し

身重の妻と子供たちをつれて

知る辺の居る大洲へと移動した


離れとは名ばかりの

物置を改造した新居に落ち着く暇も無く

荷物と祖父母を迎えに立とうとしたとき

今治大空襲の一報が入った

市内は全滅だと言う噂だった

その場で発った

苦労して今治に着いて目にしたのは

目を覆うばかりの惨状だった

八月五日午後11時半から翌日六日二時ごろまで

大挙して押し寄せたB29は大量の焼夷弾を投下

市内のほぼ八割が灰燼に帰した

死者は600人を越えたと言う

旧家のあったところにはまだ煙の立っている燃え跡と

家財を積んだままの車が灰になっていた

もとより祖父母の姿は無い

学校 役場 公民館 寺

避難所と考えられるあらゆるところを探して

二日目に神社の軒先に寝ていた二人に出会った

着の身着のままの衣服は破れ全身泥まみれで

二日間水以外何も口にしていなかったが

命のあったことも 出会えたことも

奇跡と言うほかはない


そのときのことは父は話さない

これは父の死後知人に聞いた話だ

おそらく目にしたものを口に出来なかったのだろうと思う

ただ一度だけ

「命を永らえた者の 背中に負った荷物は軽くない」

そんな言葉をもらしたことがある


私の家族は大洲では台風に遭遇

肱川(ひじかわ)が氾濫して家を流された

二十三年に香川県志度に居を構えるまで

苦労は続いた

けれど家族が欠けなかったことを

父はいつも感謝していた