新田義貞の家臣と木積村 (八日市場町木積)Mo 418 | 房総ENJOY-LIFE、

新田義貞の家臣と木積村 (八日市場町木積)Mo 418

No 418

以前、匝瑳市八日市場の木積の福箕造り
(国指定重要文化財)を紹介しましたが
その木積地区の藤の花が咲いて『おせん様の藤祭り』が始まったと言うので行って来ました!

沿道、龍頭寺の回りは藤の花がいっぱいでした
おせん様の藤祭り…の『おせん』とは?
室町時代の初期、武将 新田義貞の家臣、加納半兵衛の妻

その『おせん』が藤のツルの皮で箕造りを伝えたのが始まりだそうですが
村人は今だに感謝の気持ちを込めて『おせん様の藤祭り』と呼んでいます!

菩提寺 龍頭寺にはおせんの碑とお墓が今も残っていました
そして龍頭寺の隣に白山神社がありました

その神社の石碑には新田義貞の家臣16名の名前と
この地に来た由来が記されていました

これは調べてみようと家臣の名前を手帳に書き写していると
なんか聞いた事のある姓、名前ばかり

龍頭寺の墓石の名前を見ても当時、この地に流れて来た
武将の末裔と思われる名字が並んでました

私の知り合いの平山さん 加瀬さんに大木さん
皆この近くの出身だけど、先祖は新田義貞の家臣だったのでは?

なんだかだんだんと、興味津々になって来ました!

新田義貞は建武5年(1338年)7月5日
越前燈明寺畷藤島 (現、福井県福井市新田塚町)の戦いで敗れ自害

生き残った家臣達は共に戦った千葉氏胤を頼り千葉へ
氏胤は家臣達を下総の国千田の庄に住む事を許し

加賀白山より携えた御神体を千田庄木積字神台に氏神として
白山神社を祀りこの地で暮らし始めたと伝わっていました

神社の中には絵馬と祭りで使われる神輿が置いてありました

そして神輿の反対側には当時の家臣の名を書いた紙人形が並んでいて
脇には家紋と新田義貞家臣の里と書かれた旗が立ててありました

今でもこの地域の方は先祖を供養し祀り続けている事がわかります
しかも墓石には屋号が彫ってありました

当時の家臣の名前と思われる、籐十郎、助右衛門、半兵衛といった名前が屋号となって
長い間、使われ呼ばれ続けてきたのでしょうね

そして今はプラスチック製になって
需要が少くなった箕ですが
造れる方も高齢になってしまい
これから遺していくのは大変でしょうが
是非後世に伝えてもらいたい技術です!

お付き合いありがとうございました
m(__)m