秦氏といえば、始皇帝かユダヤ末裔説なのだが・・。


百済からの帰化人
秦の始皇帝の子孫
はたまたイスラエルからやってきた異邦人と

そのルーツはさまざまな説がある、謎の渡来人秦氏。

建築技術、養蚕など高度な文化を持ち、平安京の造営にも深くかかわりました。

そして、聖徳太子のブレーンでもあった秦一族ですが、いつの間にか歴史の表舞台から姿を消しているのです。今でも秦氏については謎に包まれたまま。



こういう説明が、京都の太秦などの観光地では一般的な秦氏。









岡山の古代吉備王国研究第一人者の薬師寺先生と根強い人気の日本・ユダヤ同先祖論が繋がるともっとミステリアスで、エキサイティングなんですが、エンターテイメント色を抑えても、諸説には納得できるものも多いようです。


景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人とする(日ユ同祖論)。

これを提唱したのは戦前の京大佐伯好郎博士ですが、晩年には、景教ではなく、東方に消えていったイエスの直弟子集団であった初期原始キリスト直系のエルサレム教団末裔説に修正しています。


4世紀に族長たる太秦(ウズマサ=イシュマシャ=旧約聖書時代のアラム語で、イエスの意味)に率いられて渡来した秦氏(人口の5%規模)が、今につながる日本と古代イスラエルの共通文化(神道の各種ルールが同一であるとか、言語、習慣他)2000件規模をもたらしたという説。


旧約聖書はもちろん各地の宗教聖典にも通じた秦氏は、後に古事記日本書紀を編纂する子孫の藤原不比人(人でないという意味)たち子孫に、イエス伝承を残し、なぜか遣隋使の中国側記録にはでてこない、イエスカラーの強い蘇我馬子・聖徳太子コンビを描いたという説です。

佐伯博士は、秦氏一族の源流であるエルサレム教会12使徒派伝承(後のバチカン、パウロと分かれて東に消えていったイエス直弟子本流集団の末裔説)を、中央アジアのトルコ系初期キリスト国家弓月から、秦氏が渡来したとしていました。

もっぱら、ムーのような歴史ファンタジーや昭和の時代に大流行した「日ユ同祖論」の根拠に使われています。


ちなみに、後に国民的作家となる司馬遼太郎は、産経新聞の記者時代に、これをテーマにした処女小説を書きますが、なぜか死ぬまで発禁としていました。








●秦氏らが関与した日本書紀、古事記編纂当時の9世紀キリスト教の東方情勢は、唐は首都全土で空前の景教(東方キリスト教)ブームとなり、一時期キリスト教を国教に指定したせいで、クーデター騒乱があったほど。後に空海なども密の一部として持ち帰る先端文化でしたので、イエス伝承はその時代の流行を単に学習しただけかもしれません・・。






なので、交易豪族秦氏が、自らの四天王寺建立以降、「イエス=大工の神=聖徳太子」伝承を強化しようと聖書のエルサレム(平安京)にならい、開拓地の拠点京都を平安の首都にしようとしても不思議ではありません。

彼らは、半島南部、北九州、宇佐(大分)、吉備(岡山)、赤穂(当時は吉備・兵庫)、河内(大阪)、山代(京都)、近江(滋賀)へと開拓を進めていました。8世紀以降は関東全域を開拓し、秦氏の領地はその後、天皇の直轄地として律令制度の基盤になっていきます。


京都には巨大な地下水脈湖があり(最深800m。東西12km、南北33km。貯水総量は211億トンと推計されていて、琵琶湖に匹敵する量というのが近年の研究で判明)、水を命とする秦氏は、最終的にここ山代を開拓し、後に平安京を遷都し、桓武天皇の御所に河勝の元自邸を提供していいます。


京都の広隆寺といえば口もとに微笑みを浮かべた表情のアルカイックスマイルでおなじみ、国宝第一号の「弥勒菩薩像」のあるお寺です。またの名を「秦公寺(はたのきみでら)」「太秦寺」とも言い、秦氏の氏寺。7世紀始め、秦河勝(はたのかわかつ)は聖徳太子に仕え、聖徳太子から仏像を賜り、そのご本尊として建立しました。


お寺としては京都最古と言われており、霊宝殿には弥勒菩薩以外にも聖徳太子像、秦河勝夫妻の像も安置されており、ほぼ同じ象が、賀茂神社の葵祭の「おみずとり」で有名な松尾神社にも神として祀られています。


砂漠の民、秦氏には、水はなにより大事なものだったのです。




パワースポットにもなっている秦氏の名所


以前は広隆寺内にあった井戸「いさら井」も謎です。

大化の改新直後のウズマサ(族長)秦河勝の亡命地、赤穂の大僻神社(大僻=中国語のダビデ)にある12層からなる「いさらい井戸」は、京都太秦の広隆寺と大酒(大僻)神社に今も存在しており、源氏物語にも「昔はなにかのいわれがあったという広隆寺のいすらい井戸」 という逸話として残り、当時も謎だったらしいのです。
http://ameblo.jp/fermrose-gate/entry-10605906335.html




(大僻神社に今も伝わる天狗のような鼻の高い秦河勝の面)





(元伊勢の籠神社に隣接する眞名井神社には神社の社紋として以前はダビデの紋章が彫ってありましたが、騒がれたため現在は取られてしまったといいます)




秦氏は日本に土木・養蚕・鋳造技術を伝えた一族。(ハタ=機織・畑作の語源に・・)

その末裔には京都の蚕の神社にたつ「三柱鳥居」を江戸時代に復興させた三井・越後屋があります。三井は幕末の土佐勤皇党(秦臣下を名乗る)、海援隊(後の三菱)、島津(十字の紋で有名な秦氏)、四国の住友らと鳥羽伏見を戦う軍資金を調達します。現三越百貨店の社屋にはこれの複製が祀られています。








「三柱(みはしら)鳥居」

京都の太秦、木嶋神社の鳥居をくぐり進んでいくと、奥に鬱蒼と茂る森があります。そこだけ何となく、空気が違うような感覚さえあります。三柱鳥居はそこの池にありますが、そこは
元糺す(もとただす)の池といわれ、ユダヤ教のバプテスマ(洗礼、お清め)がされていた構造にそっくりといわれているパワースポットなのです。

境内にある説明では「中央の組石は御神座で宇宙の中心を表し、4方向から拝することができるよう建立された」とありながらも、「景教(キリスト教の一派)の遺物とも言われている」とあります。

三柱鳥居の三方がそれぞれ秦氏と関係のある
「下鴨神社(秦氏と賀茂氏の関係)」「伏見稲荷神社」「松尾大社」(どちらも秦氏が建立)
の方向を示しているとか、キリスト教の「三位一体」、「ユダヤ教のダビデの星に似ている」などなど、ミステリーあふれる逸話が多いのです。




この「イエス=太秦の秘密」については、このブログでも過去に取り上げています。
http://ameblo.jp/kawany69/entry-11483206690.html



実は、秦氏が持ち込んだ神道と神社

日本民族の象徴でもある 天皇家=神道という関係を否定するかたもいないでしょう。
さらに、侍あるいは武士も日本的なものの代表ですが、その本家本元とも言える源氏が崇めてきたのが宇佐八幡宮を頂点とする八幡宮です。


日本に存在する神社は約8万あるといわれています。トップ10の神社が約3万社ありますが、このうち実に9社が秦氏創建あるいは深く関係する神社です。


1位 八幡(秦氏)で、7817社、
2位 伊勢神宮(もちろん天皇家の皇祖神を祭った神社、秦氏が深く関わっているといわれる)、3位 天神(秦氏)、
4位 稲荷(秦氏)、
5位 熊野(秦氏)、
6位 諏訪(秦氏)、
7位 祇園(秦氏)、
8位 白山(秦氏)、
9位 日吉(秦氏)


と続きます(朝日新聞2007.2.22朝刊)。


このことから、実は日本の神社は殆どすべて、渡来人である秦氏がつくったものだといって過言はないのです。そして、この事実は、「日本人て一体何者?私たちはいったいどこから来たの?」という民族アイデンティティの根幹に関わる問題を提起しているのです。


日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)






また一説には
五胡十六国時代に、シルクロードの入り口であった河西政権の興亡で、氐族の苻氏が建てた前秦の 王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はない。


この時期、「秦」を名乗る帝国は、何度も中原を制覇し、短期間に崩壊している。







古代日本は、中国からの植民文化で成立したようなイメージがあるが、この時期の中華は漢人ではなく、ペルシャ・トルコ系遊牧人種の諸政権が乱立した五胡十六国の混乱期であることを忘れないでおきたい。
中央アジアのトルコやペルシャのひとびとが、今でも「日本人はかって兄弟だった」と祖父の伝承を語り、親近感をもつには、ちゃんとした理由がある。


十六国(前趙,後趙,成漢,前涼,前燕,前秦,後秦,後涼,後燕,西秦,南燕,南涼,北涼,西涼,夏,北燕)には、秦を名乗る政権だけでも3回登場しており、苻堅{前秦高祖明帝}(前秦) Fu2Jian1 338-385 にいたっては、テイ族出身であるが中華文明に惚れ込み、多民族の融和を目指して長安、洛陽の住民を50万人規模で強制移住させるなどの人工的都市政策を実施する。



特に私の一族姓でもある秦・河西は、禿髪利鹿孤{南涼康王}(南涼) をはじめ、歴代の遊牧系異民族が中華侵入の要地として名乗る地方政権名称(倭国、同様に河西国表記が歴代中華王朝にはある)であり、初期のイエス伝承や仏教流入、他民族の宗教や芸術が融合するシルクロードやユーラシアの草原につながる中華政権樹立の興亡の激戦区であった。






名前はヒトや文明とともに移動する。



(私の実家の江戸時代からの古民家には、弓がのきにかけてあり、動かしてはならないといわれていた。ここでは割愛するが、近くの西日本最古の9世紀の唐からの防衛に建設された鬼城への月夜のマラソン、ユダヤのハロウィン風俗に似た法然経由の「百万編」・・・等も興味深い)


河西回廊は、古代のシルクロードの一部分として、相互に古代中国と西方世界を指す「秦(中国)、大秦(シリア、ローマ)」の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路として知られる。





また、ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。
http://ameblo.jp/kawahara-clan/entry-10398825015.html






韓国語で「漢字語」+「する」
「漢字語+ハダ」で、漢字語を動詞化できるのは日本語と同じですが、韓国語はこの「漢字語+ハダ」を日本語の何倍も使います。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1481513.html



●チベットつながり
ハダとは、チベット族が祝賀や敬意のしるしとしている帯状の布で、絹や紗などで作られる。
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-09/07/content_296743.htm


●ユダヤつながり
ヘブライ語で「ユダ族」を意味する「(ヤ)フダ」に「波多」(ハダ、ハタ)を当てたと考えることもできます。 ... まず、八幡神「ヤハタノカミ」の「ヤハタ」という名前の発音が、秦氏の「ハタ・ハダ」と同様に、ヘブライ語でイスラエル12部族中の ...
www.naritacity.com/.../journal_main_091215.asp




*かってイエローズを撮影した写真家五味さんの「聖徳太子と黄金律」のコラムが面白い。

https://www.facebook.com/gomidar/posts/10205800923881990

>白銀比は一説には聖徳太子さんが作ったと言う説がありますが
聖徳太子自体が実在しなかったという説もあるのでわかりませんが、
実在したと言う説が正しいければ「白銀比は聖徳太子さんが作った」と言う説に信憑性が出てきます。
理由は二つあってその一つは四天王寺の設計者が聖徳太子で建物の配置が白銀比を使っている。二つ目は昔の大工さんが使っていた曲尺(かねじゃく)を作ったのが聖徳太子と言われているからです。

今の曲尺は裏表同じ寸法が書かれていますが昔の曲尺は表面と裏目には違った数値が書かれていました。裏面には表面の√2(1.141421....)倍の数値が書かれていたのです。大工さんはこれを何に使うかと言うと丸い木材から最大限の正四角形の角材を切り出す時に使っていたそうです。
この曲尺の表と裏の比率、1:√2が白銀比だからです。

今、私たちがよく使っているコピー用紙などの紙の比率がこれです。


*秦氏といえば② に続く(河西保男)
http://ameblo.jp/kawany69/entry-12118708265.html