午後の紅茶と#陰謀論125「ユダヤ末裔説の吉備・秦に帰省1」


(再録)ユダヤ末裔、原始キリスト教団末裔説もある謎の渡来一族、秦氏。
その初期の入植拠点の吉備の秦に、父の看病で帰郷した。

秦氏といえば、宇佐、河内、京都が有名だが、吉備には少なくとも墳墓や日本書紀の記述研究から380年ごろには入植していたという説があり、あの「隋書東夷伝」にでてくる隋使徒がみた「倭の中の中国都市」ではないかと感じている。というのも、吉備は、紀元前から大陸の交易植民都市として開拓され、すでに王莽の貸せん(西暦50年ごろの東アジア通貨)を使用していた痕跡があるからだ。

日本史がなぜこの事実を追及しないのか不思議で仕方ないが、印綬法令適用、言語と通貨の使用から「古代日本は中華(朝鮮)領土である」(「倭国」の岡田史観)と将来いわれたくないための、最低限の予防的愛国教育のためなのかもしれない。と、最近真剣に考えるようになった(笑)



ともあれ、田舎の空間の広がり方は尋常ではない。


近くの高梁川の川幅は、500メートル以上あるし、堤防の上の街灯どころかガードレールすらない道路を夜中車で走行してると、月明かりに野山が浮かび出て、異次元に迷い込んだような奇妙な感覚に襲われるほどだ。


父の病気は、勤務していた三菱自動車のアスベスト被害による。

(この日記の数日後、死亡し、謝罪と企業補償を求めた2013年裁判で三菱とは和解成立するが、厚生労働省で記者会見までしたのに、全国紙報道はされてないので、労災記録から判明しているだけで9名が亡くなった三菱のみならず自動車業界100名以上のアスベスト死亡被害事件はまだ世間的には封印されたままだ)

病気の祈念で、沖縄のユタ(伝統的霊能者)の弟子を自称する糸満在住の義理の叔母の指示で、断り切れず親戚たちと病気回復の祈念で廻る寺院のなかに、小坊主だった画聖雪舟が涙でネズミの絵を描いた故事で有名な宝福寺がある。







雪舟に秦氏の血が流れていたかどうかは、不明だが、宝福寺は高梁川を挟んで秦の対岸にあり、数百メートルしか離れてはない。今も、秦の末裔河西一族の菩提寺正満寺は、その寺の兄弟寺として互いに見える場所にあり、彼の作品の模写や禅宗文化を伝える屏風などを飾っている。

その高梁川対岸の50メートルを超える日本最大級のイワクラ(神を祀った岩、神社信仰体系以前のアニミズム)をもつ、知る人ぞ知る石畳神社など、まさに雪舟お得意の墨絵の世界そのものの視覚風景におさまっている。


雪舟が幼少時、この日本で初めてスサノウを祀ったのではないかと思われる、国内最大級の巨大な磐座をみて育ったことは確実であり、数キロ北上すると、豪渓というまさに中国の渓谷のミニ版ともいえる景勝地も近所にはある。
この視覚的印象が、のちの早すぎた abstract painting とまでいわれる水墨画の頂上を極めた彼のベースになっていたかもしれない。




「石畳さかしき山と知りながら我は恋しく友ならなくに」(万葉集)

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石畳神社は、出雲と縁の深いスサノウを祀っているが、奈良の大和よりも古い時代に様式化された古代吉備の初期神社のひとつで、研究者によれば、古事記に出てくる「機織り(秦)や馬への狼藉などにより、アマテラスに高天原から追放される」シーンと吉備の出雲攻めは関係あるのではという考察がある。吉備出雲連合が、のちに大和連合朝廷の基礎を築くという説は、考古学的にはすでに実証されているが、ここは、古代中国や新羅などの祭祀にあるように、渡来秦氏が川の神として祭祀した場所ではないかともいわれている。



スサノウといえば、軍神、八岐大蛇との戦いで村娘を救う英雄のイメージだろう。そして息子の大国主が「国譲り」で平和的に政権を譲る代わりに「出雲大社に祀れ」という合理性だろう。


石畳は、神武天皇が東征のときに8年間滞在したときにはすでに存在したという、近辺の元伊勢の葦守神社よりも古いらしい。そして、弓月王の王墓説のある古墳発掘で注目される、皇室や秦氏にとって聖山といわれる、あの正木山の高梁川側のすそ野に建立されているのだ。


日本書紀では、秦の始皇帝15世を名乗る弓月王が応神天皇の派遣軍に助けられて、2年越しの新羅との戦いを経て来日したとされる秦氏。その初期入植地のひとつがここ秦村で、今年も「弓月フェスタ」という夏祭りが川の河原で行われ、1000名以上の参加者があったらしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F(詳細だが正確ではないw)


ユダヤ末裔、原始キリスト教団末裔説もある謎の渡来一族・・・。

のちの赤穂、京都につながる吉備開拓の拠点がこの村であり、380年ごろにはコロニーを形成し、大陸との交易ルートを強化し、文字、製鉄、かまど、律令、軍令、税務、祭祀組織を所持していたのは間違いがないらしいが、いかんせん京都開拓以前の秦氏研究者がいない状態なのだ。


この後の時代の古墳から出てくる埴輪には、ユダヤ的風俗風貌の馬人や部族長(太秦ウズマシャ)がみられる。

秦に残る、渡来一族河西姓は、前秦、後秦を再興建国したチュルク系、チベット系説の河西鮮卑からか?

渡来から1630年以上、落城から440年。
河西の先祖祀りを祀る20数世帯の本家筋7家。うちもそのひとつだが、総本家系図が判然としない。

戦国期の備中松山城の姻戚であった秦・荒平城が秀吉側との秘密同盟がばれて毛利軍に攻められ落城し、先祖の豪族城主、河西三郎左衛門幸秀は児島から四国に島流しに。表向きには、総本家嫡流はなくなったとされているが、次男以降が徳川幕府により帰郷を許され、明治維新まで池田家保護のもと4千石の郷農として今になんとか血流を伝えている。


この秦・河西一族は、あの三国志の時代ののち、南北朝の五胡十六国の西域異民族の支配する中国で、前秦、後秦を再興建国したチュルク系、チベット系説の河西鮮卑族、テイ族の末裔だという説がある。
後に隋、唐という大陸帝国を生みだす非漢人系のシルクロードの民が、亡命王族秦氏の源流だったという研究者もいる。


戦前の景教の世界的権威、京大の佐伯博士は、秦氏をエルサレム教団の末裔として、弓月王をトルコ系の最初のキリスト教国(2世紀)オアシス都市弓月国の族長、太秦(ウズマサ=ユスマシャ=イエスという意味)と解析した。



母方が秦氏だった開祖法然(県北の同郷人)が確立した浄土宗は、念仏仏教で有名だが、その浄土という概念や念仏思考に、同時代に唐で大流行した景教・キリスト教の影響をみる学者もいる。







よく指摘されることだが、実在していない聖徳太子伝説にイエス伝承の影響(厩戸皇子・ウマヤドノミコ)を指摘するアカデミズムも最近は登場している。比喩名のような「蘇我馬子」が事実上の大王で、太子の顧問がシルクロード交易豪商・秦河勝だったと考えれば、より合理的だと思う。



大学で比較遺伝子研究によってCG復元されたイエス像(アジア系ユダヤ・スファラディ)
ローマを経ないでアジアに伝道されていったイエス直系の12使徒のエルサレム教団の系譜である「東方キリスト教」では、イエスは現在の西洋人モデル(白人系ユダヤ・アシュケナージ)ではない。
「西欧の没落」から100年以上。現在のメディアが脱アシュケナージとなれば、やがて、根源的な西欧中心の歴史観のイメージ変容を人類に迫ることになるだろう。

*カミュは、パリの新聞特派員時代に、1945年に広島に落ちた原爆を「人類の罪」として最初に批判報道したが、著名な小説「異邦人」で知られる異邦人とは、ユダヤのことではなく、ユダヤ原始キリスト教のエルサレム教団からみた、異邦人(ローマ語、ギリシア語、シリア語など使用する外人)に布教するパウロら後のローマ教皇に繋がるアンチオキア教団らローマに向かう非ユダヤ人のことだった。


ちなみに岡山県総社市秦の周辺には、多くの日本史に登場する人物が誕生している。

・先祖が秦氏系の下道氏、祖母が渡来八木氏だった吉備真備
天文学、暦、カタカナ文字考案、陰陽道の開祖。真備が長期間にわたって唐に留まることになったのは、玄宗皇帝がその才を惜しんで帰国させなかったためともいわれる。東洋最大の魔術師ともいえる偉人(別途記述)




・その弟子でともに平安京建設(遷都費用の大半は地元山代の秦氏は反対派に回ったため、琵琶湖地方の秦氏が財務と労力を負担したらしい。秦氏は巨大な天皇の同盟殖産豪族として、抵抗の大きかった初期の律令導入、税制確立に尽力し、北九州では納税者の8割が秦氏だという記録もある)に尽力し、道鏡の皇室簒奪を宇佐八幡宮の神託で防いだ、戦前のお札の忠臣和気清麻呂。(母方秦氏)

・禅の開祖で茶を輸入した、栄西(額と頭が異常に長かった坊さん)。

・その弟子でイエスのパラダイス思想を浄土宗に導入した開祖、法然。(母方秦氏)

・そして、雪舟・・。


うちは臨済宗で禅宗だが、戦前までは村の14歳未満の子供たちが夏の某日にハロウインカーニバル的な集会をする「百万遍」という祭祀を当家で開催していたらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E9%81%8D%E5%BF%B5%E4%BB%8F


父からの話では、巨大な数珠をもった子供たちが、ハロウインのように各家を訪問しお菓子をもらい、お礼に庭で巨大な数珠を輪にして走り周り、銅鑼や太鼓をたたきはやしたてるらしい。ウイックペディアにはまだ解説されていないが、最後にこどもたちが数珠の房をその家の主の額になすりつけて、祈祷が成就されるらしい。(東方教会のイエス祭祀みたいだ)

ミクシイで先にこの日記を公開したところ、
百万遍は、ユダヤのSimkhat Torahじゃないかと指摘された。

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http://islandsofpeace.blogspot.com/2008/10/simchat-torah-in-jerusalem.html




ほかにも夏の祭祀としては、「虫送り」という笹の葉を川に流す七夕のようなものもあったという。それらが京都の祇園祭りや剣山の神輿のように旧7月15日に開催されていれば、ユダヤの過ぎ越しの祭りの伝承影響が説明されるのだが・・・。

うーん、これなんか「虫送り」「七夕」そのものじゃないか・・・・!!
http://www.templenashville.org/index.php?id=43



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以前itunesのテレビCFで世界的に流れていた今風のトーラ

カーニバル・・・ といえば、京都の広隆寺で毎年10月に深夜に開催され謎の奇祭、牛祀り。
イエスのエルサレムの法廷広場入場を模したといわれる「民衆のはやし、罵声」が重要視されるこの秦氏の祀りもまた、テーマはカーニバルなのだ。





http://www.youtube.com/watch?v=Lj-nd1U1TaA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=fXFxQTW--r4&feature=related