「神仏霊場巡り」東大寺 奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院である。金光明四天王護国之寺)ともいい、奈良時代聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西二つの七重塔を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、二度の兵火で多くの建物を焼失した。

現存する大仏は、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代の十八世紀初頭(元禄時代)の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の六〇余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けられた。八世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平五年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。

一方、正史『続日本紀』によれば、神亀五年(728年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。

奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門 - 中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。

天平十七年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。平安時代には空海によって寺内に真言院が開かれ、空海が伝えた真言宗、最澄が伝えた天台宗をも加えて「八宗兼学の寺」とされた。

東大寺は、近隣の興福寺と共に治承四年(1181年1月15日)の平重衡の兵火で壊滅的な打撃(南都焼討)を受け、大仏殿を初めとする多くの堂塔を失った。

この時、大勧進職に任命され、大仏や諸堂の再興に当たったのが当時61歳の僧・俊乗房重源(ちょうげん)であった。

重源の精力的な活動により、文治元年(1185年)には後白河法皇らの列席のもと、大仏開眼法要が、建久元年(1190年)には上棟式が行われた。

建久六年(1195年)には再建大仏殿が完成、源頼朝らの列席のもと、落慶法要が営まれた。その後、戦国時代の永禄十年、三好・松永の戦いの兵火により、大仏殿を含む東大寺の主要堂塔はまたも焼失した。

天正元年(1573年)、東大寺を戦乱に巻き込むことと乱暴狼藉を働く者に対しての厳罰を通達する書状を出している。

仮堂が建てられたが慶長十五年(1610年)の暴風で倒壊し大仏は露座のまま放置された。

その後の大仏の修理は元禄四年(1691年)に完成し、再建大仏殿は公慶1648 - 1705年)の尽力や、江戸幕府将軍徳川綱吉や母の桂昌院を初め多くの人々による寄進が行われた結果、宝永六年(1709年)に完成した。

この3代目の大仏殿(現存)は、高さと奥行きは天平時代とほぼ同じだが、間口は天平創建時の11間からおよそ3分の2の7間に縮小されている。また、講堂、食堂、東西の七重塔など中世以降はついに再建されることはなく、今は各建物跡に礎石や土壇のみが残されている。