『江戸泰平の群像』(全385回)164・貝原 益軒(かいばら えきけん、163012月17寛永711月14) - 171410月5正徳48月27))は、江戸時代本草学者、儒学者。筑前国(現在の福岡県福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。1648慶安元年)、18歳で福岡藩に仕えたが、1650(慶安3年)、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなる。1656明暦2年)27歳、3代藩主・光之に許され、藩医として帰藩[1]。翌年、藩費による京都留学で本草学や朱子学等を学ぶ。このころ木下順庵山崎闇斎松永尺五向井元升黒川道祐らと交友を深める。また、同藩の宮崎安貞が来訪した。7年間の留学の後、1664年35歳の時、帰藩し、150石の知行を得、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂する。幼少のころに虚弱であったことから、読書家となり博識となった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とし、著書の多くは平易な文体でより多くの人に判るように書かれている。70歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に60部270余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある。『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著した。思想書としては、1712(正徳2年)の『自娯集』。学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大擬録』などがある。1714年(正徳4年)に没するに臨み、辞世の漢詩2首と倭歌「越し方は一夜()ばかりの心地して 八十()あまりの夢をみしかな」を残している。1911明治44年)6月1、贈正四位。父の知行地で、益軒が幼年を過ごした福岡県飯塚市に「貝原益軒学習の碑」がある。