『江戸泰平の群像』(全385回)161・大石 良雄(おおいし よしお/よしたか)(1659~1703)は、江戸時代前期の武士。播磨国赤穂藩の筆頭家老。赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で有名になった。「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)の名で広く知られる。本姓は藤原氏。家紋は右二ツ巴。大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族である。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていたため、大石を姓にするようになった。元禄7年(1694年)2月、備中松山藩水谷家が改易となった際、主君浅野長矩が収城使に任じられた。良雄は先発して、改易に不満で徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城に単身入り、水谷家家老鶴見内蔵助を説得して無事に城を明渡させた。二人が偶然同じ「内蔵助」であったことから「両内蔵助の対決」として世間で評判になったという逸話もあるが、これは討ち入り事件後に創作された話らしく、明確な資料に基づいているわけではない。城の受け取りが無事に済むと長矩は赤穂へ帰国したが、良雄は在番として留まり、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの一年半余り、松山城の管理を任せられた。元禄8年(1695年)8月に赤穂へ帰国。元禄12年(1699年)には次女るりが生まれている。元禄13年(1700年)6月には長矩が参勤交代により赤穂を発つ。この時が良雄が主君と相見える最後の機会となった。そして運命の元禄14年(1701年)が訪れ、2月4日に江戸にある長矩は、東山天皇の使者として江戸へ下向する予定の勅使達の接待役を幕府より命じられた。接待指南役は高家肝煎・吉良義央であった。元禄14年(1701年)3月14日、江戸城では勅使が持ってきた勅旨に対して将軍が奉答するという勅答の儀が執り行われるはずであった。しかしこの儀式が始まる直前、江戸城松之大廊下において勅使接待役にある浅野長矩が吉良義央に対して刃傷におよんだ。尊皇心の厚い将軍として知られる徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩を大名としては異例の即日切腹に処し、さらに赤穂浅野家をお家断絶とした。一方、吉良には何の咎めもなかった。早水満尭と萱野重実の第一の急使、足軽飛脚による第二の急使、原元辰と大石信清の第三の急使、町飛脚による第四・第五・第六の急使、と次々に赤穂藩邸から国許赤穂へ情報が送られ、3月28日までには刃傷事件・浅野長矩切腹・赤穂藩改易といった情報が出揃った。27日から3日間にかけて赤穂にいる家臣に総登城の号令がかけられ、赤穂城内は幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれて紛糾した。恭順派の大野知房は、篭城派の原元辰・岡島常樹などと激しく対立し、4月12日には赤穂から逃亡した。こうした中、良雄は篭城殉死希望の藩士たちから義盟の血判書を受け取り、城を明渡した上で浅野長矩の弟浅野長広を立てて浅野家再興を嘆願し、あわせて吉良義央の処分を幕府に求めることで藩論を統一する。また良雄は、紙くず同然になるであろう赤穂藩の藩札の交換に応じて赤穂の経済の混乱を避け、また藩士に対しても分配金を下に厚く上に軽くするなどの配分をおこなって、家中が分裂する危険の回避につとめた。かつての「昼行燈」ぶりが信じられないような適切な処置であった。また、良雄は物頭の月岡治右衛門と多川九左衛門を江戸に派遣して、幕府収城目付荒木政羽らに浅野家再興と吉良上野介処分を求めた嘆願書をとどけさせた(しかしこの二人は任を誤り、江戸家老安井彦右衛門に手渡し、美濃大垣藩主戸田氏定の手紙を持って帰ってくる)。4月18日、荒木らが赤穂に到着すると、良雄自身も浅野家再興と吉良義央処分について三度の嘆願を行っている。こうした良雄の努力もあって荒木個人の協力は得られたようで、江戸帰還後に荒木は老中にその旨を伝えている。翌日4月19日、隣国龍野藩の藩主脇坂安照と備中足守藩の藩主木下公定率いる収城軍勢に赤穂城を明け渡した。赤穂城退去後は遠林寺において藩政残務処理にあたり、この間は幕府から29人扶持を支給された。5月21日に残務処理もあらかた終わり、6月25日、ついに良雄は生まれ故郷赤穂を後にした。赤穂退去後、良雄は家族とともに京都山科に隠棲した。良雄が山科を選んだのは、大石家が近衛家の親族であるとともに、大石家の叔父進藤俊式の一族進藤長之(近衛家家臣)が管理していた土地だったことや、大津の錦織にいた母の叔父(阿波蜂須賀藩初代家老池田山城守玄寅)の子・三尾(池田)官兵衛正長と行き来し、浅野家再興の政界工作をするためでもあったと考えられる。また、大石の外戚にあたる、当時の京都東山の泉涌寺の長老であった卓巖和尚という人物が、泉涌寺塔頭の来迎院の住職をしており、この人物を頼って大石は来迎院の檀家となって寺請証文を受け、いわば身分証明書を手に入れた形となった。そして、山科の居宅と来迎院を行き来し、来迎院にしつらえた茶室「含翆軒」にて茶会を行いながら、旧赤穂藩士たちと密議をおこなったといわれる。一方、なお盟約に残った同志たちは次々と江戸へ下向していった。9月19日には大石良金が山科を発ち、さらに10月7日には良雄自身も垣見五郎兵衛と名乗って江戸へ下向した。『忠臣蔵』を題材にした物語では、「道中で本物の垣見五郎兵衛が出現して良雄と会見、五郎兵衛は良雄たちを吉良義央を討たんとする赤穂浪士と察して、自分が偽物だと詫びる」という挿話が入るが、これは創作である。良雄は10月26日には川崎平間村軽部五兵衛宅に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発した。さらに11月5日に良雄一行は江戸に入り、日本橋近くの石町三丁目の小山屋に住居を定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手した。また吉良義央在邸確実の日を知る必要もあり、良雄旧知の国学者荷田春満や同志大高忠雄が脇屋新兵衛として入門していた茶人山田宗偏から12月14日に吉良邸で茶会がある情報を入手させた。良雄は確かな情報と判断し、討ち入りは同日夜と決する。討ち入りの大義名分を記した口上書を作成し、12月2日、頼母子講を装って深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させた。これが最終会議となる。討ち入り時の綱領「人々心覚」が定められ、その中で武器、装束、所持品、合言葉、吉良の首の処置など事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない」ことを定めた。12月15日未明。47人の赤穂浪士は本所吉良屋敷に討ち入った。表門は良雄が大将となり、裏門は嫡男大石良金が大将となる。2時間近くの激闘の末に、浪士たちは遂に吉良義央を探し出し、これを討ち果たして、首級を取った。本懐を果たした良雄たち赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へ引き揚げると、吉良義央の首級を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。良雄は、吉田兼亮・富森正因の2名を大目付仙石久尚の邸宅へ送り、口上書を提出して幕府の裁定に委ねた。午後6時頃、幕府から徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣されてきた。良雄らは彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動した。幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、良雄は肥後熊本藩主細川綱利の屋敷に預けられた。長男良金は松平定直の屋敷に預けられたため、この時が息子との今生の別れとなる。仇討ちを義挙とする世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした荻生徂徠などの意見を容れ、将軍綱吉は陪臣としては異例の上使を遣わせた上での切腹を命じた。元禄16年(1703年)2月4日、4大名家に切腹の命令がもたらされる。同日、幕府は吉良家当主吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決めた。細川邸に派遣された使者は、良雄と面識がある幕府目付荒木政羽であった。良雄は細川家家臣安場一平の介錯で切腹した。享年45。亡骸は主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は忠誠院刃空浄剣居士。