『江戸泰平の群像』(全385回)160・松平 忠充(まつだいら ただみつ)は、江戸時代前期から中期の大名伊勢長島藩の第2代藩主。慶安4年(1651年)、伊勢長島藩の初代藩主・松平康尚の次男として長島で生まれる。貞享2年(1685)10月7日、父が病気を理由に隠居したため家督を継いだ。しかし貞享4年(1687)10月には些細なことから家臣3人を追放するなど、早くも暗君としての片鱗を現していた。この資質は父の死後の元禄15年(1702)8月15日、重臣3人を切腹させ、さらにその子4人を死刑にするという乱行で現れる。この事件の遺族が幕府に訴えたため、この乱行は幕府の知るところとなり、8月21日に狂気であるとして改易に処された。しかし徳川家康の異父弟松平康元につながる家系のため、特別の配慮をもって四男・康顕(やすあき)信濃佐久郡5,000石(下県知行所)、五男の尚慶(なおよし)も同地1,000石の旗本として存続を許された。康顕はその後早世し、尚慶が兄の跡を継ぎ康郷(やすさと)と名乗り、明和2年(1765年)下総飯笹6,000石に転封。子孫は同地で交代寄合旗本として存続した。享保14年(1729年)12月4日に死去した。享年79。