「戦後日本の記憶と記録」(全307回)59“フジヤマのトビウオ”古橋 廣之進(ふるはし ひろのしん、1928年9月16日 - 2009年8月2日)は日本の水泳選手であり、スポーツ指導者。日本大学名誉教授。
1928年9月16日、静岡県浜名郡雄踏町(現・浜松市西区)にて生まれる。日本大学法文学部(現在は法学部)政治経済学科卒業。第二次世界大戦終了後の水泳界で次々と世界記録を打ち立てて「フジヤマのトビウオ」の異名を取った。現役引退後は大同毛織(現 ダイドーリミテッド)に入社。その後、母校・日本大学の教授や日本水泳連盟会長、日本オリンピック委員会会長を歴任した。
2009年8月2日に世界水泳選手権が開かれていたイタリア・ローマにて客死。
経歴、大学進学まで雄踏小学校4年の時に水泳部に入部。当時、古橋が通っていた学校の水泳部では、浜名湖での遠泳が伝統的に行われており、古橋は6年生の時100mと200mの自由形で学童新記録を樹立した。その際、新聞報道で「豆魚雷」との異名を付けられた。その後、浜松第二中学校(現・静岡県立浜松西高等学校)へ進学したものの太平洋戦争の激化により水泳を続けることができなかった。学徒勤労動員で砲弾工場で作業していた際に旋盤に左手の中指を挟まれ第一関節から先を切断するという事故に遭っている。事故に遭った頃は「もう泳げない」とかなり落胆していた。「フジヤマのトビウオ」日本大学進学後に水泳を再開。この頃の想い出として古橋は「国民体育大会に出場するために東京から兵庫県の宝塚市へ向かう途中で「汽車賃がないので、列車に無賃乗車して乗り継いでやっとのことで宝塚に行った」ことを語っていた[2]。
1947年の日本選手権では400m自由形を4分38秒4で優勝し、公式記録にはならなかったものの当時の世界記録を上回るタイムを出した。
敗戦国の日本は1948年のロンドンオリンピックへの参加が認められなかった。日本水連は日本選手権をロンドン五輪の水泳競技決勝と同日に開催し、古橋は400m自由形4分33秒4、1500m自由形で18分37秒0を出し、ロンドン五輪金メダリストの記録および当時の世界記録を上回った。同年9月の学生選手権の400m自由形では自己記録を更新する4分33秒0、800m自由形では9分41秒0を出しこれも世界記録を越えた。これらの記録は日本が国際水泳連盟から除名されていたため世界記録としては公認されなかった。敗戦直後で日本人の多くが苦しんでいる時期に、「世界記録」を連発する古橋は国民的ヒーローであった。
1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められ古橋や橋爪四郎ら6選手は8月にロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加し、400m自由形4分33秒3、800m自由形9分33秒5、1500m自由形18分19秒0で世界新記録を樹立しアメリカの新聞では「フジヤマのトビウオ」(The Flying Fish of Fujiyama)と呼ばれた。この遠征はサンフランシスコ講和条約締結前だったこともあったこと、米ドルがなかったため日本水連幹部や在米日系人からの寄付で実現できた[1]。渡航前にはGHQのダグラス・マッカーサー元帥や昭和天皇からも励ましを受けた[1]。戦後まもなかったこともあり大会前は米国民にジャップと呼ばれることもあったが大会後は一躍ヒーローとなりハリウッドではボブ・ホープらにサインをねだられた[1]。
1951年に日本大学を卒業後、大同毛織に入社。幾多もの大企業や役所などから特別待遇での誘いを受けながらあえて社業との両立を目的に同社に入社したという。同年、第1回日本スポーツ賞受賞。1952年、日本選手権では思うような記録が出なかったがその年のヘルシンキオリンピックに出場。しかし既に選手としてのピークを過ぎていたことと1950年の南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していた[3]ことが響き、五輪本番では400m自由形8位に終わった。この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーが涙声で「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないで下さい。偉大な古橋の存在あってこそ、今日のオリンピックの盛儀があったのであります。古橋の偉大な足跡を、どうぞ皆さま、もう一度振り返ってやって下さい。そして日本のスポーツ界と言わず、日本の皆さまは暖かい気持ちを以て、古橋を迎えてやって下さい」と述べたのであった。
現役引退とその後・引退後は社業に務める傍ら、水泳界の発展に尽力した。1966年には大同毛織を退社し、日本大学専任講師となると共に日本水泳連盟役員となった。※(この「「戦後日本の記憶と記録」は私自身の刊行した『戦後日本の群像』『戦後GHQの検証』を参考にして執筆されています。」)