『江戸泰平の群像』(全385回)159・浅野 長矩(あさの ながのり)(1667~1701)は、播磨赤穂藩の第3代藩主。官位従五位下内匠頭官名から浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)と呼称されることが多い。赤穂事件を演劇化した作品群『忠臣蔵』を通じて有名。寛文7年(1667)、浅野長友の長男として江戸鉄砲洲(現東京都中央区明石町)にある浅野家上屋敷(現在聖路加国際大学がある場所)において生まれる。母は長友正室で鳥羽藩主・内藤忠政の娘・波知。幼名は祖父・長直、父・長友と同じ又一郎。寛文11年(1671)3月に父・長友が藩主に就任したが、その3年後の延宝3年(1675)に長友が死去。また生母である内藤氏の波知も寛文12年(1673)に亡くなっており、長矩は幼少期に父も母も失った。延宝3年(1675年)、長矩は9歳で赤穂浅野家の家督を継ぎ、第3代藩主となる。同年4月7には4代将軍・徳川家綱に初めて拝謁し、父の遺物備前守家の刀を献上。さらに同年閏4月23日には、三次藩主・浅野長治の娘・阿久里姫との縁組が江戸幕府に出願され、8月8になって受理された。これにより阿久里は延宝6年(1678)より赤穂藩の鉄砲洲上屋敷へ移った。延宝8年(1680)に従五位下に叙任し[1]、さらに21日には祖父・長直と同じ内匠頭の官職を与えられた[2]天和元年(1681)3月、幕府より江戸神田橋御番を拝命。またこの年の8月231684)、15歳にして山鹿素行に入門して山鹿流兵学を学ぶようになる。天和2年(1682)には幕府より朝鮮通信使饗応役の1人に選ばれ、長矩は、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した。なおこの時三島宿で一緒に饗応にあたっていた大名は、のち赤穂藩が改易された際に城受け取り役となる備中足守藩主・木下公定であった。天和3年(1683)には、霊元天皇勅使として江戸に下向予定の花山院定誠千種有能饗応役を拝命し、3月に両名が下向してくるとその饗応にあたった。このとき高家吉良義央が勅使饗応指南役として付いていたが、浅野は勅使饗応役を無事務め上げている。なおこの際に院使饗応役を勤めたのは菰野藩主・土方雄豊であった。雄豊の娘は後に長矩の弟・浅野長広と結婚している。この役目の折に浅野家と土方家のあいだで縁談話が持ち上がったと考えられる。勅使饗応役のお役目が終わった直後の5月に阿久里と正式に結婚。またこの結婚と前後する5月18には家老・大石良重大石良雄の大叔父、また浅野家の親族)が江戸で死去している。大石良重は若くして筆頭家老になった大石良雄の後見人をつとめ、また幼少の藩主浅野長矩を補佐し、二人に代わって赤穂藩政を実質的に執ってきた老臣である。しかしこれによって長矩に藩政の実権が移ったとは考えにくい。長矩は依然数え年で17歳(満15歳)であり、国許の大石良雄もすでに筆頭家老の肩書は与えられていたとはいえ、数え年で25歳にすぎない。したがって藩の実権は大石良重に次ぐ老臣・大野知房(末席家老)に自然に移っていったと考えられる。この年の6月23にはじめて所領の赤穂に入り、大石良雄以下国許の家臣達と対面した。以降、参勤交代で一年交代に江戸と赤穂を行き来する。江戸在留中の貞享元年8月23(1684年)に弟の長広とともに連名で山鹿素行に誓書を提出しているが、翌年に素行は江戸で亡くなる。江戸在留中の元禄3年(1691)に本所の火消し大名に任命され、以降、しばしば火消し大名として活躍した。元禄6年(16931694)には備中松山藩水谷家が改易になったのを受けて、その居城である松山城の城請取役に任じられた。これを受けて長矩は、元禄7年(1694)に総勢3500名からなる軍勢を率いて赤穂を発ち、備中松山(現在の岡山県高梁市)へと赴いた。2月23、水谷家家老・鶴見内蔵助より同城を無血で受け取った。長矩は開城の翌日には赤穂への帰途についたが、名代として筆頭家老・大石良雄を松山城に在番させ、翌年に安藤重博が新城主として入城するまでの1年9か月の間、浅野家が松山城を管理することになる。また元禄7年(1694年1)、阿久里との間に子がなかったため、弟の長広を仮養子に迎え入れるとともに新田3,000石を分知して幕府旗本として独立させた。さらに翌元禄8年(1696)には長矩が疱瘡をわずらって一時危篤状態に陥ったため、長広を正式に養嗣子として万が一に備えた。なお「長矩危篤」の報は原元辰(足軽頭)を急使として大石良雄ら国許の重臣にも伝えられた。しかしその後、長矩は容態を持ち直して、元禄9年5月頃(16966月頃)には完治した。この前後の5月9火消し大名としての活躍から本所材木蔵火番に任じられる。元禄11年(1698年)に再び神田橋御番を拝命。さらに元禄13年(1700)には桜田門御番に転じた。同年11月14には弟・長広と土方雄豊の娘の婚儀が取り行われた。そして元禄14年(1701)、二度目の勅使饗応役を拝命することとなる。浅野長矩は、幕府から江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられた。その礼法指南役は天和3年(1683年)のお役目の時と同じ吉良義央であった。しかしこの頃、吉良は高家の役目で上京しており、2月29日まで江戸に戻ってこなかった。そのため吉良帰還までの間の25日間は、長矩が自分だけで勅使を迎える準備をせねばならず、この空白の時間が浅野に「吉良は不要」というような意識を持たせ、二人の関係に何かしら影響を与えたのでは、と推測する説もある。一方、東山天皇の勅使の柳原資廉高野保春、霊元上皇の院使・清閑寺熈定の一行は、2月17に京都を立った。勅使の品川(現東京都品川区)到着の報告を受けて長矩も3月10、伝奏屋敷[5]へと入った。3月11、勅使が伝奏屋敷へ到着した。まず老中・土屋政直と高家・畠山基玄らが勅使・院使に拝謁し、この際に勅使御馳走人の浅野も紹介された。翌3月12には勅使・院使が登城し、白書院において聖旨・院旨を将軍・徳川綱吉に下賜する儀式が執り行われた。さらに翌日の3月13、将軍主催の能の催しに勅使・院使が招かれた。この日までは長矩は無事役目をこなしてきた。そして元禄14年(1701年)。この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して奉答するという儀式(勅答の儀)がおこなわれる幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた日であった。この儀式直前の巳の下刻(午前11時40分頃)、江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、吉良義央が留守居番梶川頼照と儀式の打ち合わせをしていたところへ長矩が背後から近づき、吉良義央に対して小サ刀(実戦用ではなくアクセサリー的な刀)で切りつけた。梶川が書いた『梶川筆記』に拠れば、この際に浅野は「この間の遺恨覚えたるか」と叫んだとされる。しかし浅野は本来突くほうが効果的である武器であるはずの脇差で斬りかかったため、義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、しかも側にいた梶川頼照が即座に浅野を取り押さえたために第三撃を加えることはできなかった。騒ぎを見て駆けつけてきた院使饗応役の伊達宗春(村豊)や高家衆、茶坊主達たちも次々と浅野の取り押さえに加わり、高家の品川伊氏畠山義寧の両名が吉良を蘇鉄の間に運んだ。長矩もまたその場から連行された。こうして浅野の吉良殺害は失敗に終わった。長矩が連れて行かれた部屋は諸書によって違いがあるが、おそらく中の口坊主部屋と考えられるなどが「坊主部屋」と明記している)。捕らえられた長矩が取り調べに対し、何と答えたかについては確かな史料は無い。それどころか取り調べが行われたかどうかすら確かな史料からは確認できない。幕府目付多門重共が書いた『多門筆記』(多門は虚言癖があると言われており、その筆記の取扱いには注意を要する)によると、多門が目付として長矩の取り調べを行った。その際に長矩は「上へ対し奉りいささかの御怨みこれ無く候へども、私の遺恨これあり、一己の宿意を以って前後忘却仕り討ち果たすべく候て刃傷に及び候。此の上如何様のお咎め仰せつけられ候共、御返答申し上ぐべき筋これ無く、さりながら上野介を打ち損じ候儀、如何にも残念に存じ候。」とだけ述べ、吉良に個人的遺恨があって刃傷に及んだことは述べたが、刃傷に至る詳しい動機や経緯は明かさなかったという。あとは「上野介はいかがに相成り候や」と、吉良がどうなったかだけを気にしている様子だったという。これに対して多門は長矩を思いやって「老年のこと、殊に面体の疵所に付き、養生も心もとなく」と答えると、長矩に喜びの表情が浮かんだとも書いている。午の下刻(午後1時50分頃)、奏者番陸奥一関藩主・田村建顕の芝愛宕下にあった屋敷にお預けが決まり、田村は急いで自分の屋敷に戻ると、桧川源五・牟岐平右衛門・原田源四郎・菅治左衛門ら一関藩藩士75名を長矩身柄受け取りのために江戸城へ派遣した。未の下刻(午後3時50分頃)、一関藩士らによって網駕籠に乗せられた長矩は、不浄門とされた平川口門より江戸城を出ると芝愛宕下(現東京都港区新橋4丁目)にある田村邸へと送られた。この護送中に江戸城では、長矩の処分が決定していた。将軍・綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決した。江戸城内や幕府の行事における刃傷事件はこれまでにも何件も発生していたが、即日切腹の例は浅野長矩が初めてであった。ここまで綱吉が切腹を急いだのは、政治的意味合いがあったとする説がある。長矩の母方の叔父・内藤忠勝が同じような事件を起こしたことがあるにも拘わらず、近親者が同様の事件を起こしたことから、これまでの処罰の軽さが今回の事件の一因となったと考え、苛烈な処断となった、とする説がある。以下は一関藩の『内匠頭御預かり一件』による。申の刻(午後4時30分頃)に田村邸についた長矩は出会いの間という部屋の囲いの中に収容され、まず着用していた大紋を脱がされた。その後1汁5菜の料理が出されたが、長矩は湯漬けを二杯所望した。田村家でも即日切腹とは思いもよらず、当分の間の預かりと考えていたようで、長期の監禁処分を想定し、長矩の座敷のふすまを釘付けにするなどしていたという。申の下刻(午後6時10分頃)に幕府の正検使役として大目付庄田安利、副検使役として目付・多門重共、同・大久保忠鎮らが田村邸に到着し、出合の間において浅野に切腹改易を宣告した。これに対して浅野は「今日不調法なる仕方いかようにも仰せ付けられるべき儀を切腹と仰せ付けられ、有難く存知奉り候」と答えたという。宣告が終わると直ちに障子が開けられ、長矩の後ろには幕府徒目付が左右に二人付き、庭先の切腹場へと移された。庄田・多門・大久保ら幕府検使役の立会いのもと、長矩は磯田武大夫(幕府徒目付)の介錯で切腹して果てた。享年35