『歴史古代豆知識』82・和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)は、708年8月29日(和銅元年8月10日)に、日本で鋳造・発行された銭貨である。日本で最初の流通貨幣と言われる。皇朝十二銭の1番目にあたる。直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には、時計回りに和同開珎と表記されている。裏は無紋である。形式は、621年に発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また新成人1日分の労働力に相当したとされる。現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡から、和銅(にきあかがね、純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もある[2]。唐に倣い目的もあった。708年5月には銀銭が発行され、7月には銅銭の鋳造が始まり、8月に発行されたことが続日本紀に記されている。銀銭が先行して発行した背景には当時私鋳の無文銀銭が都で用いられていたのに対応して私鋳の無文銀銭を公鋳の和同開珎の銀銭に切り替える措置が必要であったからと言われている。しかし、銀銭は翌年8月に廃止された。和同開珎には、厚手で稚拙な「古和同」と、薄手で精密な「新和同」があり、新和同は銅銭しか見つかっていないことから、銀銭廃止後に発行されたと考えられる。古和同は、和同開珎の初期のものとする説と、和同開珎を正式に発行する前の私鋳銭または試作品であるとする説がある。古和同と新和同は成分が異なり、古和同はほぼ純銅である。また両者は書体も異なる。古和同はあまり流通せず、出土数も限られているが、新和同は大量に流通し、出土数も多い。ただし、現在、古銭収集目的で取引されている和銅銭には贋作が多いので注意を要する。当時の日本はまだ米や布を基準とした物々交換の段階であり、和同開珎は、貨幣としては畿内とその周辺を除いてあまり流通しなかったとされる。また、銅鉱一つ発見されただけで元号を改めるほどの国家的事件と捉えられていた当時において大量の銅原料を確保する事は困難であり、流通量もそれほど多くなかったとの見方もある。更に地方財政(国衙財政)が一貫して穎稲を基本として組まれている[3]ことから、律令国家は重農主義の観点から通貨の流通を都と畿内に限定して地方に流れた通貨は中央へ回収させる方針であったとする説もある[4]。それでも地方では、富と権力を象徴する宝物として使われた。発見地は全国各地に及んでおり、渤海の遺跡など、海外からも和同開珎が発見されている。発行はしたものの、通貨というものになじみのない当時の人々の間でなかなか流通しなかったため、政府は流通を促進するために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、711年(和銅4年)には蓄銭叙位令が発布された[5]。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものである。しかし、流通促進と蓄銭奨励は矛盾しており、蓄銭叙位令は銭の死蔵を招いたため、800年(延暦19年)に廃止された。政府が定めた価値が地金の価値に比べて非常に高かったため、発行当初から、民間で勝手に発行された私鋳銭の横行や貨幣価値の下落が起きた。これに対し律令政府は、蓄銭叙位令発布と同時に私鋳銭鋳造を厳罰に定め、首謀者は死罪、従犯者は没官、家族は流罪とした。しかし、私鋳銭は大量に出回り、貨幣価値も下落していった。760年(天平宝字4年)には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定められた。しかし、形も重量もほぼ同じ銭貨を極端に異なる価値として位置づけたため、借金の返済時などの混乱が続いた。神功開宝発行の後、779年(宝亀10年)に和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭は、同一価を持つものとされ、以後通貨として混用された。その後、延暦15年(796年)に4年後をめどに和同開珎、万年通宝、神功開宝の3銭の流通を停止する詔が出されたものの、実際に停止できたのは大同2年(807年)のことであり、それも翌年には取り消された[。また、延暦15年の詔では全ての貨幣を隆平永宝に統一する方針が出され、そのための材料として回収された3銭が鋳潰された。和同開珎が流通から姿を消したのは9世紀半ば[8]と推定されている。