『江戸泰平の群像』(全385回)150・円空(えんくう、寛永9年(1632) - 元禄87月1516958月24))は、江戸時代前期の修験僧(廻国僧)・仏師歌人。特に、全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで知られる。円空は一説に生涯に約12万体の仏像を彫ったと推定され、現在までに約5,300体以上の像が発見されている。円空仏は全国に所在し、北は北海道・青森、南は三重県、奈良県までおよぶ。多くは寺社、個人所蔵がほとんどである。その中でも、岐阜県、愛知県をはじめとする各地には、円空の作品と伝えられる木彫りの仏像が数多く残されている。その内愛知県内で3,000体以上、岐阜県内で1,000体以上を数える。また、北海道、東北に残るものは初期像が多く、岐阜県飛騨地方には後期像が多い。多作だが作品のひとつひとつがそれぞれの個性をもっている。円空仏以外にも、多くの和歌大般若経扉絵なども残されている。群馬県富岡市一之宮貫前神社(ぬきさきじんじゃ)旧蔵の「大般若経」断簡(現在は千葉県山武郡芝山町はにわ博物館所蔵」)には「壬午年生美濃国圓空」と記され、円空は壬午年すなわち寛永9年(1632)の出生で美濃国の生まれであるとされる。具体的な生地は不明であるが、寛政2年(1790)の伴蒿蹊近世畸人伝』では円空の生地を「美濃国竹が鼻」とし、これは岐阜県羽島市竹鼻町とされる。蒿蹊の友人には画家の三熊思考がおり、思考が岐阜県高山市丹生川町の千光寺を訪れており、蒿蹊は思考を介して知った千光寺の伝承を基に円空の生地を「竹が鼻」としている。また、下呂市に所在する薬師堂の木札でも円空の生地を「竹ヶ鼻」としている。千光寺所蔵の館柳湾『円空上人画像』(寛政12年(1800)作)の跋にも円空の生地を「竹が鼻」と記している。また、下呂市金山町祖師野の薬師堂に伝わる文政9年(1826)作『圓空彫刻霊告薬師』の木札にも円空の生地を「竹ヶ鼻」としている。一方、愛知県名古屋市中川区荒子観音寺に伝わる天保15年(1844)の十八世・金精法印『淨海雑記』では『近世畸人伝』を引用しつつも、円空の生地を「西濃安八郡中村」の生まれとしている。長谷川公茂は「安八郡中村」に円空の痕跡が残されていないことから、実際に円空の生地としての伝承が残されていたのは長良川を挟んで対岸に位置し、円空開祖の中観音堂が所在する「中島郡中村」であるとしている。ほか、茨城県笠間市大町に所在する月崇寺の観音像背銘に「御木地土作大明神」とあることから、円空の生地を岐阜県郡上市美並町とし、「木地土」を「木地士」と読み、円空の出自を木地師とする説もある。これに関して小島梯次は円空像の背銘には通常尊名のみが記され文章を書く事例が見られない点や、円空の時代に「木地師」は「木地屋」と呼ばれている、「木」と「本」の読み違えなどから、「御木地士作大明神」は「御本地土作大明神」作と読むべきであると指摘し、さらに円空の郡上市美並町出身とする説を否定している。円空に関する記録の最初の所見は寛文3年(1663)11月6日で、郡上市美並町根村に所在する神明神社の棟札によれば、同社の天照皇太神と阿賀田大権現、八幡大菩薩を造像している。これ以前に出家していると見られているが、円空の出家に関しても諸説が存在する。『近世畸人伝』や『淨海雑記』、『金鱗九十九塵』では幼少期に出家したとのみ記しており、『淨海雑記』では天台宗の僧となり、長じて愛知県北名古屋市高田寺において修行したと記している。『金鱗九十九塵』では円空は最初は禅門にあり、後に高田寺で修行したとしている。一方、岐阜県立図書館所蔵の明治5年(1872)の『真宗東派本末一派寺院明細帳 拾五冊之内十』のように円空を浄土真宗の僧とする説もある。さらに、円空は郡上市美並町の粥川寺において出家したとする説も見られる。これは貫前神社旧蔵の大般若経断簡の文章を円空が18年前に出家即動法輪をしたと解釈して、その頃に円空がいた粥川寺において出家したとする説であるが、谷口順三や小島梯次は出家から初転法輪までの間には歳月が存在することからこれを否定している。2014年時点で最古の円空仏は郡上市美並町の神明神社の諸像であるが、初期の円空仏は郡上市美並町や郡上市八幡町、関市岐阜市など岐阜県下に分布しているほか、周辺の三重県愛知県にも分布している[13]。初期の円空仏は小像が多い。寛文6年(1666年)1月、弘前藩の城下を追われる。『津軽藩日記』寛文6年正月29日条や北海道に分布する円空仏の背銘に拠れば、同年春には円空は青森経由で蝦夷地(北海道)の松前にへ渡っている。北海道の円空仏は道南地方に多く分布し、同一形式の観音像が多い。2014年時点で45体が確認され、現存像はこれに移入仏6体が加わる。寛政元年(1789)の菅江真澄『蝦夷喧辞辯』(えみしのさえぎ)に拠れば、久遠郡せたな町太田山神社(太田権現)には多数の円空仏が存在したと記しているが、これは現存していない。後に木喰の弟子・木食白道による『木食白導一代記』に拠れば安永7年(1778)に木喰とともに北海道へ渡った白道は同社で「多数の仏」を実見したという。小島梯次は現存する北海道の円空仏は同一形式の観音像が多いのに対し、菅江真澄も木食白道も太田山神社の像は多種類の仏であったと記されていることから、太田山神社の像を円空仏であることを慎重視している。寛文9年(1669)頃、尾張・美濃の地方に戻っていたことが在銘の諸像によって知られる。寛文11年(1671)、大和国法隆寺に住していた巡堯春塘より法相宗血脈を受ける。延宝7年(1679)、近江国園城寺に住していた尊永より仏性常住金剛宝戒の血脈を受ける。延宝8年(1680)頃、関東に滞在しており、上野国貫前神社で『大般若経』を読誦する。貞享元年(1684)、再び美濃に戻り、荒子観音寺の住持であった円盛より天台円頓菩薩戒の血脈を受ける。元禄2年(1689)、円空が再興した美濃国弥勒寺が、天台宗寺門派総本山の園城寺の山内にあった霊鷲院兼日光院の末寺となる。元禄8年(1695)、門弟の円長に対して授決集最秘師資相承の血脈を授け、7月158月24)に自坊の弥勒寺の近辺で寂す。円空仏はデザインが簡素化されており、ゴツゴツとした野性味に溢れながらも不可思議な微笑をたたえていることが特徴で、一刀彫という独特の彫りが円空仏の個性を引き立てている。一刀彫というのは一本で彫り出した事に由来するが、実際には多数の彫刻刀によって丹念に彫られており、鉈で荒削りで彫ったに過ぎないというのはただの宣伝である。円空としては民衆が気軽に拝める、現代で言えば量産型の仏像として製作し、野に置かれる事を望んでいたのだが、そのデザインが芸術的に高く評価されたため、大寺院で秘仏扱いされる事もあった。円空仏の総数は2015年時点での集成で現存数が5,298体、うち移入数が164体、所在不明・消失・盗難などの像が88体で、5,298+88で確認数は5,386体。分布は愛知県の3,241体が最多で、岐阜県の1,684体、埼玉県の175体、北海道の51体と続く。円空仏には愛知県名